No.04 車輪のない犬
僕の人生の中で、車輪のない犬が話題にのぼるのは、三度目だった。
一度目は、まだ僕が小学四年生か五年生だった頃の話だ。もう、名前は忘れてしまったが、仲の良かった同級生に、車輪のない犬の話を聞いた。隣のクラスのなんとか君が、近所のどこそこで、車輪のない犬を見たのだと。
僕はそれをカシマレイコだとか、ターボばあちゃんと同じような、小学生が無闇に語りたがる他愛のない噂話だと思った。だって、そうではないか。車輪を持たない犬なんているはずがない。車輪のない犬は、きっと散歩も、ドッグレースも、フリスビーを追いかけることもできないだろう。まともに立つことすらできないのではないか。あまりに非現実的な存在だ。
それからおよそ十年、僕はその同級生から聞いた話を嘘っぱちだと決めつけ、すっかり忘れてしまっていた。街中で誰かの飼い犬を見かけて、車輪のない犬の話を連想することさえもなかった。
そんな僕に車輪のない犬のことを思い出させたのは、若い警察官だった。彼は、当時大学生で二十一歳だった僕を、街中で突然呼び止めた。
「この辺りで不審物を見かけませんでしたか?」と警察官は言った。「不審物、といいますと?」と僕は少し緊張しながら訊ね返した。
「例えば、車輪のない犬とか」と警察官は少し躊躇うような口調でそう言った。僕は耳を疑った。
「車輪のない犬?」
「はい、そうです」
「そんな変なものがこの世に実在するんですか?」
「いや、その、例えばの話ですよ。例えばそういう変なものを見ていたとしたら、教えていただきたいのです」
僕は目の前にいる人間が本物の警察官であるか、訝しんだ。
「見ていませんよ」と、僕は首を横に振った。警察官は気恥ずかしそうに「ご協力ありがとうございます」と言って、僕から離れていった。これが二度目だった。
三度目は二十九歳の夏の夜で、つまり昨日のことだった。一年前に結婚した妻が、タブレット端末を見ながら僕に「車輪のない犬って見たことある?」と訊ねた。
「ないけど……どうしたの急に」
「いや、中国の山奥で車輪のない犬が目撃されたってニュースがSNSで回ってきてさ」
妻は私にタブレット端末の画面を見せた。そこには4本足をちょこまかと動かして、尻尾を振りながら歩く、毛深くて不気味な生命体の映像が流れていた。
「マユツバだ」と僕は率直な感想を述べた。
「まあ、そうかも。というか、たぶん合成だろうね」と妻は言った。
僕は小学生の頃と大学生の頃に起こった出来事を思い出した。それから、今、妻は何を考えているのだろうかと考えた。
「ところでさ、もうすぐ結婚記念日じゃん」
妻はそう言って急に話題を変えた。
「ああ、うん、そうだね」
僕は壁にかかったカレンダーを見た。
「それでちょっと提案があるんだけどね。犬、飼ってみない?」
「犬?」
「そう。結婚記念日のお祝いに」
僕は妻の顔に視線を戻し、「ああ、そう言うことか」と呟いた。そして「車輪のついた犬ならいいよ」と言った。
「もちろん」と妻は答えた。
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