過去と幼さは心に巻きつき(5)
アーリデイズシェルター内の戦霊院邸の自室にて、那岐はベッドの上でぼうっとしていた。
起床の直後はたいていこうなっている。
血圧が低いわけではない。那岐の夢見は悪く、そこから心が目覚めるのに苦労するのだ。
(ああ、今日も浩一のとこ行かなきゃな……)
火神浩一……それについてまわるという行為。
気分は進まない。そう、これはきっと意味のない行為だから。
だが今の那岐にできることは、浩一に尽くすことだけだった。
しかし、どうすればいいのかがわからなかった。
他者とそれほど関わりを持って過ごしてきたわけではない那岐にとって、浩一に尽くすことは難問だった。
――戦霊院那岐は、火神浩一に歓迎されていないことを知っている。
そこまで那岐は鈍くない。浩一の好悪や善悪がどこにあるのかは理解できる。
(好かれていないことはわかってるわよ……でも、わからない)
どうすれば浩一の役に立てるのかが、全くわからない。
(私だって、今やってることがアリシアスの模倣だってのもわかってるのよ。だってあいつの行動しか参考にできるものがないんだから、とりあえず成功したあいつのように動いてみたけど)
うまくやれてないことはわかる。
そして迷惑に思われているが拒絶されるほどではないことも。
たぶん、
結局、火神浩一はどうでもいいのだ。那岐のことなど。
(だから……それを……どうにかしなきゃならないんだけど……)
目を閉じる。すべてを放り捨てて眠ってしまいたくなるものの、那岐の完璧な肉体は少しの睡眠時間でも十分以上に休息をとっていた。
心を除く那岐の全ては強制的に万全だった。
「おはようございます。那岐様」
朝の支度の手伝いをしに来たのだろう、メイドのイーシャ・魔道・スロブが目の前で完璧なカーテシーを見せてくれていた。
「ねぇ、イーシャ」
はい? と那岐の寝間着を脱がしながらイーシャは
自然とそうできるイーシャを那岐はたまに尊敬する。
そうやって可愛らしく振る舞えたならきっともっと那岐は楽に生きれただろう。
「アリシアス、あの娘ってすごいのね」
アリシアス・リフィヌス。那岐は彼女のことが少しだけ羨ましい。
政治も戦いも研究も治癒もそれこそ誰かに尽くす術も、あの後輩は何もかも上手にできるのだ。
(私にあるのは世界一の魔法の才能だけ……)
だがそんな那岐と違って、アリシアスはきっと、他者の欲するものが自ずとわかるのだろう。
那岐は、生まれてからずっと尽くしてくれているメイドのイーシャが何を望んでいるのかも知らないというのに。
「そうですね。アリシアス様はそれはもう器用な方ですから。本家の人間全てが滅んでしまったというのに、何事もなく聖堂院を運営できるなんて、少し信じられないぐらいです」
アリシアスは破格の才能を持っている。
リフィヌスの家は、当主であるリフィヌス翁とその孫であるアリシアスしか生き残っていない家だというのに、アリシアスは誰の助力も受けず生き残った聖堂院の分家全てをまとめあげ、聖堂院という家を立て直していた。
「……
那岐は口を
那岐の戸惑いを察したのだろうか。イーシャは一糸纏わぬ那岐の身体を水と風の魔法で清め、乾いたタオルで那岐の裸身を拭きながら元気づけるように言う。
「私は那岐様は那岐様のままで良いと思いますよ。那岐様は戦霊院を継ぐために必要な全てをお持ちですから」
「イーシャ、ほんとに父の言うように、戦場に立って魔法をぶっ放すだけで家が運営できるわけ?」
それはもう、と満面の笑みでイーシャは那岐の言葉を肯定した。
「家の運営、傘下企業への細かい指示、戦霊院はそういった目障りな全てを全て我ら眷属に任せてきた家ですから、象徴たる貴女は歴代最強の当主であればよいのですよ。欲を言えば次代の戦霊院が那岐様以上に強い方であれば良いぐらいですが、それは無理でしょう。なにしろ、那岐様は奇跡のような存在として誕生されたのですから」
そうして、イーシャは穏やかさの欠片もない蛇のような笑みで那岐に囁いた。
「だから那岐様、増長した
目障りでしたら適度に虐めて差し上げましょうか? とイーシャは愉しげに続けた。
「いいわよ。いつもどおり優しくしてあげてちょうだい。アレだって望んで目指してるわけじゃないんだから」
弟が当主を狙っているのは仕方なくなのだ。
那岐の弟は、父に那岐ほどの期待を寄せられていないことを悟ってしまったから必死なのだ。
那岐の弟は、自身の優秀さを証明しなければ父や
その結果が姉の排除などという短絡的な思考に結びついてしまったのは残念だが、それでも那岐は甘やかしてやる以外に対処の仕方がわからなかった。
弟の出来が悪いなどとは思っていない。
あれに、八院に求められる平均的な性能が搭載されていることを那岐は知っている。
それでも、下手に那岐が触れて、
◇◆◇◆◇
送迎用の装甲車から降りた那岐は浩一のアパートの前に立った。
その中の一室から臨時のパートナーが現れるのを待つためだった。
もう早朝という時間ではないが、シェルター市民の活動時間に入っているために、アパートの傍の通りには学園に向かう学生が多く見えた。
――那岐の気分に反して、とても気持ちの良い朝の光景だ。
外套で体の線を心持ち多く隠すと、那岐はアパートの陰に移動した。
そこで、はぁ、と背後からため息を吐く声が聞こえ、振り返る。
「あら、今日は早いじゃない」
浩一だった。彼は那岐を呆れた顔で見てから、自身のアパートの部屋の扉を指差した。
「
浩一の部屋に案内されるが、那岐は浩一の変化に戸惑うしかない。
そして入ったはいいが、何かするべきだろうかと那岐は迷う。
一応、掃除洗濯炊事など、基本的な生活技能のデータは脳に
言われずとも判断し、完璧以上にこなす事は四鳳八院たる者としては基本だ。
アリシアスなら迷わずそうしただろう。
だが、パーティーメンバーとしてどこまでが
前のクランでは那岐は戦力としての行動を求められていた。
細かいことはクランリーダーであり、四鳳八院の分家でもあるドライとリエンが全てやっていた。
だからか、一般的なパーティーというものを知らない那岐は、火神浩一という個人に対するパートナーとして、何をどう振舞えば気に入られるのか、方法がよくわからないのだ。
(ああ、なんかもう混乱してるわね……私、すごい情けないこと考えてない? 気に入られるとか……)
夢見の悪さが続いているのだろう。
堂々と振る舞えばいいのに、卑屈に考えてしまっている。
フローリングの上に置かれたクッションの上に腰を落とし、身支度をしている浩一をただ待ってしまっている。
那岐はかつて、一般学生に誓約を果たした四鳳八院について調べたことがあった。
長い歴史をもつ学園都市だ。いくらか誓約を行った四鳳八院は存在したが、そのどれもがろくでもない目にあっていた。
性的な奉仕だの、金銀を積み重ねるだの、貴重な武具を差し出すだの。
――だが、それだけ重いのだ。誓約とは。
誓約……それは遠い日の約束なのだ。
四鳳八院は、そういう存在なのだ。だから皆が軽々に誓約を交わさないように、誓約を交わせるように、自らを高めている。
そして誓約をしてしまった那岐は、辛い目に遭っている。
(浩一が、そういう人間だったなら、楽だった……)
未だ行う相手は存在していないが、薬学や医学知識を修めている那岐は、行為に行為以上の価値や意味を見出さない。
四鳳八院の特別な改造を受けている肉体である以上、快楽なども自身でコントロールできる。
体を安売りするようなものだから個人的な好みではないが、期限が来たときに本当に何もできなかった、なんて結果が出るよりは遥かにマシだろう……と思ってしまっていた。
――那岐は、そんな自分を、軽蔑する。
◇◆◇◆◇
――浩一の身支度はまだかかるようだった。
浩一のアパートは、質素というよりは単純に物が少なく、素朴というよりはそれ以外買えるものがなかったというような貧相な家具しかない。
(なんなんだろう……浩一は)
趣味らしき趣味を持っていない那岐ですら時間の空白を埋めるためのものやなんとなくで手に入れた小物などは持っている。
この部屋の主は人間的な何かを喪失しているのだろうかと首を傾げつつ、手持ち無沙汰に歩き回ってみる。
和室の空き部屋を見つけた。注視すると学生用のアパートの内装に使われる強化畳が、武術の動きによって磨り減っているのがわかった。
浩一はここで鍛錬をしているのだろう。
「歩きまわってどうした? リビングに座って待ってろって。ああ、こんなものしかないが飲んでくれ」
寝室らしき部屋から出てきた浩一が、水の入った未開封のボトルをリビングの中央にあるテーブルに置き、タオルを手に風呂場へと向かっていく。
その背にかける言葉を那岐は持っておらず、言われたとおりにフローリングの上に置かれたクッションに腰を下ろした。
(犬小屋って言うのもアレだけど。ホントに何もないわね)
那岐は微かな生活臭を探すように、きょろきょろと辺りを見渡した。
何もないわけではないが……やはり生活臭が乏しい。
棚に置かれた救急箱やその隣にある武具の手入れ道具。
いつでも呼び出せるように転移用の簡易フィールド発生装置を下に敷いた、壁に掛けられた制服(衣装箪笥そのものが転移フィールド発生装置である家具を持っている那岐からすると貧乏くさく見える)。
(飲まないのもどうかと思うけど……)
テーブルの上にあったボトルを開け、那岐は口をつけた。
飲んだこともない安物の水の味がしたのですぐに蓋を閉じてテーブルの隅においた。
ザーザーとシャワーの音がするが、那岐に手をつけるために体を洗っているわけではないだろう。
雰囲気からして浩一は本当に那岐に手をつける気がないらしい。もったいないとか思わないのだろうか?
那岐は自分の身体を見て、自分は最高に美人なのに、と自画自賛する。
実際に浩一が手を出してきたら最低のクズぐらいは思うかもしれないが、それはそれとして、というやつだった。
(暇ね……)
暇は、あまり好きではなかった。
忙しさで忘れさせている余計なことを考えてしまうからだ。
(仕事でもしよ……)
イーシャからはしなくてもいいと言われているが、那岐は傘下企業が提出している、未処理の書類を片付けようとPADに思考を走らせかけ――那岐は写真立てを見つけ、暫し言葉を失った。
「なんで、こんなものが……」
それは浩一を幼くした感じの、可愛げのない少年が映った写真だった。
写真自体は珍しいものではない。画像を形にして残すのは珍しいことではない。アーリデイズシェルターには写真屋も存在する。
それでも、那岐は震える手で口元を抑え、動揺で何かを口走らないようにすることで精一杯だった。
『覇者』東雲・ウィリア・歌月、『鬼姫』
写真の中では、かつてナンバーズと呼ばれた五人の化け物が、浩一らしき少年を笑顔で囲んでいる。
(これって十年前に死んだナンバーズよね? 開拓シェルター『ヘリオルス』で――ってことは
十年前、たった一体の強力なモンスターの襲撃によって、崩壊したシェルター『ヘリオルス』。
写真の背景には新品のシェルター用の建材が写っている。
建造途中であるがゆえにヘリオルスには大規模な戦力が駐屯していたはずだから、ナンバーズが揃っていることに不自然はない。
しかし、それでも
なぜ親しげなのか。なぜ写真を撮っているのか。
なぜ皆が皆、
(不自然というより、
ナンバーズとて人間だ。誰かを親しく思うこともあるだろう。
それでも那岐は八院として与えられた肉体があるため知っている。
自分は、自分より圧倒的に力の劣る人間に触れようとは思わない。
自分は、幼い子供の傍に寄ろうとは思えない。
シェルターを護る八院の一員として、子供や人々に無形の愛情を抱くからこそ触れたくない。
――Sランクを超越するということは、ただ在るだけで、他者を害する。
那岐の膂力は意識せずとも岩を砕き、鉄を曲げ、ミスリルに
だからこそ、肉と骨でできた、ただの子供には触れられない。
だがどういうことだろう、この写真では触れていた。
鬼姫と呼ばれた女が幼い浩一を抱きかかえていた。
そんな浩一の頭に、相原三十朗が手を置き、鬱陶しがられている。
人類の頂点たちが浩一を仲間のように扱っている。
――うっかり力加減を間違えれば、浩一の身体は爆散しているというのに。
「なにが、一体……?」
浩一のプロフィールを那岐は思い出す。
出身地不明。育成シェルター不明。出産シェルター不明。不明。不明。不明。
この世界ではありえないことに個人的な情報の殆どが欠落しすぎている。
しかし、ヘリオルス出身であれば不自然ではない。
軍の恥だからだ。ナンバーズを五人も駐屯させたのに、一晩も持たなかったなどあってはならなかった。
ならば、有象無象の興味を遠ざけるために不明にしておくのは悪い判断ではない――のかもしれない。
だが浩一のプロフィールには記述のあった箇所も存在した。
浩一の学園都市での身元保証人は相原
刀術系近接戦闘の大家、相原流の師範にして、相原家の現当主。
そこまで思考を進め、さらに那岐は困惑に陥る。
(なぜ、それほどの人間が、あそこまで才能のない人間に目を掛けているの……?)
那岐はミキサージャブ戦以外の浩一の経歴を思い出していく。
アリシアスの助力でミキサージャブに勝てたということ以外は論外だ。
学園都市の基準で言えば、火神浩一に評価できる要素は一切ない。
体質の項目はこの都市では致命的とさえ言えるだろう。
そんな人間に、十年前、人類の頂点だったものたちが目を掛けていた。触れていた。触っていた。
それはつまり、浩一を
触ってうっかり頭を潰してしまう、なんてことを考える必要はなく、火神浩一ならば殺す気で触れなければ死なないという確信があったに違いない。
那岐の目が、未だシャワーの音のする方向に向かった。
自分が見えていない何かが浩一にはあるのかもしれない。
経歴や
戦霊院那岐は優れているが故に、優れている人間しかわからない。
それは無能は理解できないという、八院の当主として重要な資質だ。
トップに必要なのは屑石の中から宝石の原石を探す能力ではなく、目の前に並べられた数多の宝石の中から、本当に価値ある物を選りすぐる能力だと那岐は教えられている。
屑石から原石を探すのは専門の人間がやればいい。
那岐の仕事はその上だ。その専門の人間を育てる制度や設備、教育を用意することなのだから。
だから那岐は混乱する。
那岐の基準からすれば火神浩一はどうやっても宝石には加工できない屑石だ。
それが那岐達を助け、アリシアスに認められ、Sランクを倒し、そのうえ、過去のナンバーズにまで親しくされている。
那岐は屑石の評価方法など欠片も知らないのに。
これから火神浩一にどうやって接していけばいいのか悩んでいる最中でもあったというのに。
「……ああ、もう、勘弁してよね……」
那岐は、これ以上対象が複雑になるなど、許容したくなかった。
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