それはきっと恋にも似て(1)


 火神浩一ひかみこういちが目を開いたとき、視界に最初に入ってきたのは白い天井だった。

(ここは、どこだ……?)

 鼻腔に入ってくる消毒薬のツンとした臭い。

 口中は洗浄されたのか血の味は欠片もせず、少しだけ消毒液特有の苦味を感じる。

 腕にはナノマシン入りの栄養剤らしき点滴の針が突き刺さっているのが見えた。

「あらあら、寝坊助様。ようやく起きましたの? まったく、安っぽい身体で無茶をしたあげくに、気絶なんてして徹底的に無様ですわよ」

 耳に入ってくる涼やかな音。

 どこかで聞いたことのある、鈴を転がすような声音に含まれたを排除して、浩一は情報だけを取り込んだ。

(そう、か……気絶したのか、俺は……)

 戦霊院せんれいいん那岐なぎが展開した天翼に掴まっていたことは覚えている。だがそこから先がわからなかった。

(俺は、両腕を失ったはずだが……? 否、そもそもなぜ生きて……)

 あれだけの重症が癒やされている? 治療費は? 自分の身体を治療するために、自分はいったいいくら・・・の借金を背負った?

 染み付いた金銭感覚から導き出される恐ろしい結論に怯えながら浩一が記憶を漁れば、次第に気絶前の状況も思い出してくる。

 ミキサージャブから離れたことで安心した那岐が、失血によって意識を失おうとしていた浩一を慌てて抱えようとする姿が……。

(だが、どうやって生き残った……?)

 状況を確認するために浩一が、上半身だけでも起き上がろうとすれば、すぐに背に力強くも小さな手の平が当てられ、楽に起き上がれる。

 顔は背に回ってしまって見えないが、息遣いから先程の声の主だとわかった。

 言葉遣いとは裏腹に親切な人間のように浩一には感じられた。

 それでも個人が特定できない。誰なのかと首の向きを変えて顔を見ようとすれば、開いた目にライトを当てられ、いくつかの質問をされた。

「それで、気分は如何です? 違和感などは?」

「ああ、大丈夫だ。はっきり・・・・してる」

「ふふ、当然ですわ。わたくしが治療したんですもの」

 わたくし・・・・? その言い方で、浩一にはなんとなく誰か・・の想像がつくが、どうにも記憶の姿とは重ならない。

 やはり顔を見なければ、と身体を動かそうとしたところで、声がかかった。

「それで、どうして、ここで寝てたかは理解できてる?」

 先程から手当てをしてくれているのとはまた別の、凛とした、切り裂くような声色で言葉が掛けられた。


 ――いや、どうして、だと?


 負けた。無様に負けた。武器も腕も失った。

 失った? いや、失っていない。

 腕を見る。失ったはずの腕はどうしてか存在している。五本の指は綺麗に揃い、粉々に砕けた腕の骨も、完全に破壊された筋肉も再生している。新しく生えたかのような完全な治療は、まさしく神の奇跡にも思えた。

 それは全身全てがそうであり、脳をそのまま新しい肉体に移植したのかとも思えるほどの治療だった。


 ――だが・・残っているな・・・・・・


 指先を動かして肉体が浩一のものであることと、万全であることの両方を確認した浩一は腕に突き刺さっていた点滴の針を引き抜いた。

「わたくしが治療したと言いましたでしょう?」

 耳元でくすくすと囁かく声が浩一が針を抜いた傷口を丁寧に消毒などをしてくれるがようやく考えがまともに回るようになった浩一はそれどころでない。

 手足の欠損は並みの神術師では直せない。

 しかも再生直後に違和感を与えないなどとは一流以上の神術師による治療ということだ。


 ――いったい、治療費はどうなっている……?


「それで記憶の方は大丈夫なの? ダメなようなら私達は出直すけど」

「いや……大丈夫だ」

 だが戦霊院那岐は四鳳八院・・・・だ。この都市の上位者がなぜ浩一にこんなにも気安いのかはわからないが、浩一は彼女の質問に答えねばならなかった。

 単純に、不興を買えば、破滅しかねない相手である。

 つまらないことで面倒に巻き込まれたくない。

「貴方が最後に戦った相手は覚えている?」

 問われ、浩一は目を閉じる。わかっている。まざまざと思い出せる。

 火神浩一は負けた。負けたのだ。

 陰鬱な感情、卑屈になりかける性根、腹の奥底の感情を少しだけ吐き出すようにして呟いた。

「……ああ、思い出せる。理解、できる」

 苦い記憶だった。思慮の欠けた行為だった。愚策に対して、あの化け物は正しく結果で返してくれた。苦味だけが感じられる経験だった。

 それでも、挽回のチャンスは与えられている。


 ――火神浩一は生きている・・・・・


「そう、よかった・・・・

「よくはない」

「貴方、生きてて奇跡だったんだから喜びなさいよ」

「よろこべない」

「そう……で……まぁ……」

 気まずそうに那岐が何かを口ごもった。

 だが浩一はそれどころではない。

(俺は、無様だ。俺は、全力で逃げ出した。しかも気絶までした。糞ったれめ。ああ、この馬鹿垂れの小僧めが)

 勝てなかった。生き残れなかった。あの時の判断は正しかった。勝てない敵に挑んだだけだ。

 情けなくも敗戦で涙が浮かんでくる。背中の誰かが浩一の涙を拭ってくれた。それに礼すらも言わず、浩一は敗北の羞恥ではらわたが焼ける心地だった。

 だが、浩一は思う。自分は納得も、理解もしている。挑んだこと・・・・・には後悔すら・・・・・・していない・・・・・

 それでも、心の内側、ぐつぐつと煮えたぎるソレを確かめるように息を吐く。

 殺意と激情をを止めることはできない。それでも、今は四鳳八院の前だ。自制し、表面だけは取り繕う。

「で、さ……ちゃんと目、覚めてるわけ? 私のことわかる?」 

 そうしてようやく浩一は、はっきりと戦霊院那岐を確認・・した。

 ベッドの脇に、機嫌がどう見ても良さげではない黒髪長髪の見目麗しい魔法使い、戦霊院那岐がいる。

 那岐はあのアリシアス・リフィヌスに勝るとも劣らぬ美しい少女だった。

 全身から光を放つような存在感カリスマを自然と纏う、生まれながらの貴種であった。

 殺意に満ちた穴ぐらのようなダンジョンと違い、こうして陽の光の入ってくる医療施設で見ると印象も変わる。

 浩一に近い、高い身長の持ち主だ。また長く細い手足やその振る舞い方はそのまま都市の超一流モデルがつとまるほどだろう。

 その腰まで届く黒髪もよく手入れがされているのか、陽の光を反射して、まるで黒い宝玉を糸にして髪にしたようにも思える。

 ただし服装のセンスはどうだろう、と浩一は一瞬思ってしまった。

 おそらく高ランクの防具よろいなのだろうが、彼女の全身は手足の先まで、体の線がはっきりとわかる漆黒のボディスーツで覆われていたからだ。

(胸は……小さい……な)

 雪の方が大きいだろうかと那岐を見て、ダンジョンで背中に押し付けられた幼馴染の胸の感触を思い出してしまう浩一。

「何見てるのよ?」

「なにも」

「そう?」

 ボディスーツの上から羽織っている、赤い薔薇の刺繍をした黒い外套を那岐はしっかりと胸を隠すように合わせ、浩一の視線から身体を隠す。

 さほど惜しいとも思わず浩一は目を閉じた。その耳元にまたどこかで聞いたような声が入ってくる。

「那岐先輩は痴女ですの」

「そうか」

「ち、違う! ダンジョンから直行したからよ! 変なもの着てると重いからッ! だからッ!!」

 ふと浩一はとあることに気づく。自分は途中で気絶した。だったら誰かが運んでくれたんだろうと。

「それで、どっちが俺をここまで運んでくれたんだ?」

「わたくしですわ。大変重く、大変面倒でしたわ」

 背中を支えている人間が答えてくれる。やはりこの声は、と浩一が思えば、気を取り直したのか那岐がの解答に補足をいれた。

「なんでか知らないけど貴方、『浮遊』魔法も効果が薄かったしね。ちなみに運んだのはアリシアス・・・・・よ」

「アリシアス……?」

「どうもアリシアス・リフィヌスですわ。初対面ではないからお忘れではないと思いますけれど」

 浩一が首を回し、先ほどから声を掛けてきた、声の主と浩一の視線がようやく合った。

 目と鼻の先の距離だ。少女アリシアスは浩一の背に手を当て、身体を支えつつも、精密検査用の機器を片手に何かを調べている。

 蒼髪の神術師、アリシアス・リフィヌス。

 癒しの神たる廃女神を奉じる神術師である彼女が浩一の検査をしていた。

 動揺して、声が出せない。

 アリシアスが美しいからではない。

 一歩間違えれば殺戮の現場となりかねない場を作り出そうとしていた女が、浩一に向かって慈愛・・としか言いようがない表情を浮かべていたからだ。


 ――この女、何を考えている……?


(だが、これがあの『青の癒し手』か……)

 浩一の重症は完全に癒えている。完治といっていいぐらいにだ。

 流石はゼネラウス一の神術師……死んでなければ死の淵からでも死者を引き摺り出すと噂の『青の癒し手』。

 とにもかくにも、浩一はやるべきことをやるべきだと判断した。

 那岐に向かって頭を下げる。この少女がいなければ浩一は死んでいたのだ。

「ありがとう。助かった」

 頭を下げる浩一に、那岐は手を振った。

「いいわよ、お互い様だし。それについで・・・もあったしね」

「ついで? なんの話だ? ここには何も……んん?」

 浩一は辺りを見回した。

 ここはただの病室だ。おそらくは学園の医務室。

 そこに四鳳八院で、更にそれぞれ学年の主席で、Sランクの優秀な学生である彼女らが気にするようなものなどありはしない。

 いや、気にするべきはそうじゃない、と浩一は思い直した。

 何を悠長なことをやっているのだ俺は。

 今からミキサージャブを殺す手段を思いつかなければならない。ミキサージャブを殺す手段を手に入れなければならない。

 再び出会い、闘い、殺し合い、味あわされた屈辱を拭わなければならない。

 でなければ。

 でなければ……。

(立ち直れない敗北は、一度で十分だ)

 己を駆り立てる熱のままに動こうとする前に、浩一はきょとんとしたような那岐の姿に正気に戻る。

 相手は四鳳八院で、治療をしてくれたのだ。

 急いでいるからと言って粗末には扱えない。

 那岐は、じろりと浩一を睨んでいた。悪意ではなく、不機嫌そうに彼女は浩一を見ている。

 目的は浩一だと言わんばかりの視線だが浩一に心当たりはない。

「普通に考えて八院たる私たちがこんなチンケな施設に用事なんてあるわけないでしょう? ええ、私たちが残ってるのはあんたに礼を言うため。そして、ね。本当に、あくまで、礼を言いにきたついでに……ついでよ? ……ついでに、ね。あんたの使ったトリックを聞きたいわけ。ねぇ、火神浩一」

 浩一に向かって身を乗り出すようにして問う那岐の腰で、赤と黒の金属が捻りあった魔杖が揺れていた。

「トリックって、つまり小細工ってことか? 見当が付かないが。いや、そもそも何のことだ?」

 那岐は言葉とは裏腹に、真摯な視線で浩一と目を合わせると問いに答えようと口を開くも、答えたのはアリシアスが先だった。

「Sランクの戦士であり、八院の分家たるドライやリエンですら生き残ることができなかったミキサージャブ相手に、浩一様が、無様で、なんの痛撃も与えていなかったとはいえ、生き残れた理由をお聞きしたいのですわ……ですが、その前に那岐先輩。義務・・を果たしますわよ」

 少女二人にとってパーティーメンバーだった二人の人間の名を出されても、浩一には答えようがない。

 火神浩一にとって、死とは弱者が受けるものだったからだ。死んだのは弱いとしか言いようがない。

「浩一様、少々お待ち下さい」

 アリシアスが検査器具をベッド脇の台に置いた。

 そして浩一に向かって腰を曲げようとしたのか、かすかに前傾姿勢になるが、ぴたりと前傾が途中で停止した。

 数秒、誰もが声を出さない中、ギリギリとアリシアスの骨が軋むような音がし始める。

 なんだなんだと浩一が慌てて立ち上がろうとして、アリシアスが手で押し留めた。

「コホン。えー、浩一様……」

 その姿になんとなく想像がつく。浩一に向かって、アリシアスは頭を下げようとしているのだ。

 あの、アリシアス・リフィヌスが。

「あー、頭下げたくないなら無理してわざわざ下げなくても」

 那岐の押し隠したような忍び笑いが病室に響く。浩一も釣られて口角を上げそうになるが、ジロリと下げた頭越しにアリシアスが見ているような気がしたので急いで無表情を浮かべた。

「長年の習性が身体に染み付いちゃって大変ね。『唯我独尊』」

「その名で呼ぶのはおやめください。それで、那岐先輩は下げませんの?」

「いいのよ。戦霊院は実をとる家、形だけの礼など示さないわ。ま、私の命一つと釣り合いが取れるとも思わないけれど、最大の感謝は示すわ」

 穏やかに会話をしていた二人が真面目な顔で浩一に向き直った。そのときにはアリシアスも腰を戻していた。

 しばし沈黙が落ちる。

 そうして二人の少女は、浩一に向かって膝を落としていた。

 片膝をつく、姿勢。まるで騎士か何かの宣誓のような姿。

 この国の最上級階級にいる少女たちがとる姿勢ではない。動揺のままに浩一はベッドから転がり落ちそうになる。

「な……あ……!?」

 アリシアスがそんな浩一の手をとった。そして誓うように、歌うように言う。

「火神浩一様。わたくしの命を救っていただきありがとうございます。ここにアリシアス・リフィヌスは、四鳳が八翼のひとつ、聖堂院の名を継ぐリフィヌスの家名に誓い、浩一様の要請があれば、わたくしの命ひとつ分、力を貸すことをここに誓いますわ」

 アリシアスが手を離す。戸惑ったままの浩一は動けない。直後に再び手を取られる。那岐によってだ。

「火神浩一。私の命への助勢、感謝するわ。四鳳八院がひとつ、戦霊院の家名に誓って。貴方から私に頼みごとがあった場合。私は私の命の価値の分だけ、ひとつ、貴方の願いを叶える」

 二人の言葉の意味が脳に浸透し、浩一の手が震えた。四鳳八院の二家に恩を売ったのだ。それは、浩一が考えるよりもずっとずっと重いことだった。

(俺は、嫌だ……これは、嫌だ)

 浩一は意地を張って、不敵に微笑んでもよかった。

 何かを企むような含みのある笑顔を浮かべてもよかった。

 だが、どうしてもそういった気分にはなれなかった。

 子供じみた我を張るには、どうにもこれは重すぎる・・・・

「そうか。ああ、重い。重いな」

 那岐がするりと手を離した瞬間、浩一は素直に降参する気分で両手を挙げて手の震えを少女たちに示した。

「あんたら八院は重すぎる。俺には・・・必要ない・・・・

 やせ我慢はしない。純粋な本音だ。

 火神浩一にはアリシアス・リフィヌスの誓いも戦霊院那岐の誓いも重い。背負うことすらしたくなかった。

 浩一は、火神浩一以外の人間の命を背負えない。背負わない。恩だろうがなんだろうがそれらもいらない。


 ――浩一には生涯の目的がある。


 二人の提案は確かにそのための近道になるだろう。そのための、手段にもなるだろう。

 だが浩一はまるで侮辱を受けたような気分だった。自分の人生の上に泥を塗りつけられた気分だった。


 ――俺は、別に助けたくてやったわけではない!!!!


 この恩を、金を払って使えるなら使った。きちんとした対価を払えるならば使った。

 だが、これは駄目だ。偶然だ。棚から牡丹餅どころではない騒ぎだ。だから、使えない。

 使ったならば雲霞緑青と同じことになる。火神浩一は慢心と油断をする。

 そう浩一は固く信じた。これは恩ではない。己を腐らせるだと。

「そ? ま、それならそれで構わないわ。私は私で勝手に誓いを果たさせてもらうから。火神浩一の命の危機に立ち会ったなら、戦霊院の名に懸けてそれを救うわ。これは、私の義務よ」

 しかし、那岐は真っ直ぐに浩一を見詰め、宣言する。

 アリシアスは薄く、不気味に微笑んでいる。

「……そうかよ。好きにすればいい」

 けして引かないと感じられる二つの瞳に、これ以上何を言えるわけもない。

 吐き捨てるように浩一は言葉を返した。

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