剣戟は遠く、剣閃は高く(3)


 卑怯者のように隠れている臆病者に何ができる道理もなかった。


 だがそれは正しいことだ――己の命を優先させるだけならば。

 そうだ。隠れることは正しい――後生大事に己の命だけを大切に護るならば。


 火神浩一の戦場よりも数段上の領域ステージにいる者たちが勝てなかった相手に、たかが『刀だけイクイップス・ワン』が勝てる道理はないのだから。


 浩一の脳が囁く――己の未熟を悟れ、と。


 そうだ。普通とはそういうことだ。

 助けられなかった者に対して生きている・・・・・という絶対の高みから哀れみを与えろ。

 そして助けなかった自分を嘲笑え。助けられなかった、と。どうでもいい・・・・・・感傷に浸れ。

 歯が軋る。筋肉が懇願する。内臓が求める。

 肉体が浩一に反抗する――言い訳をするな! 戦わせろ! と。

 心が、呻きながらも熱量を発する――ここで逃げてどうする! と。

(ああ、畜生……)

 気づけば足が動いていた。肉体がを見つけて歓喜していた。

 浩一にとっては助ける助けないじゃなかった。戦える戦えないの問題だった。

 浩一の思考は肉体が動き始めた時点でとうに諦めていた。どうして俺はこうなんだ・・・・・と諦めていた。

 自分はいつもこうだ。を前にすれば、思考が消し飛んでしまう。おさななじみがいないとこうなってしまう。


 ――当然、助けたいなんて微塵も思っていなかった。


 技能となるまでに鍛え上げた精神鍛錬『侍の心得』は発動していた。

 それだけの時間を犠牲になったものたちが浩一に与えてくれたから。

 だから、敵が発する強者の威圧に負けずにこうして平常心を保てている。

 勝利・・は恐怖からは生まれない。活路は悲壮から見出すものでもない。

 ただこの肉体に漲る戦意だけが、強敵を打倒することができる。


 ――勝利とは、確固たる戦意だけが生み出すことができる。


 今の浩一に黒いミノタウロスミキサージャブに勝てる力はない。

 それでも、ただただ強固な意思だけを持った浩一は気軽にそれ・・に声を掛けていた。

「よう、ミキサージャブ。初めまして」

 闇夜のような黒瞳、重油のような色の皮膚、赤黒い鮮血に染まった腰布。

 闇色に染まった怪物の白目だけが異質な光を放っている。

 黒い巨大な戦斧を手にした巨大な黒色のミノタウロス。名称『掻き混ぜ喰らう者ミキサージャブ』。


 ――Sランクを瞬殺した怪物ミキサージャブと、B+ランクの侍こういちはこうして初めて対峙した。


 浩一は雲霞くもがすみ緑青ろくしょうの柄に手を掛けながら、気軽を装って歩いていく。

 恐怖は侍の胆力が抑え込んでいる。

 恐れとは戦闘前に敵を探るためのものであって、戦闘中には微量以上に必要はない。

 死線を潜る際の指針のひとつに過ぎない恐怖も、形を為すほどに覚えてしまえば己を縛る枷となる。

(肉体反応として、少しは残してあるが……)

 刀の柄を握る手を少し震えさせることで恐怖の確認を浩一はする。

(ここまでくれば、もはや不要か)

 これだけの死地に自ら踏み込みながらも残る生き汚さに苦笑を覚えつつ、浩一は侍としての矜持で、最後に残っていた微かな恐怖を殺しきった。

 踏み出したときに、逃げられる最後のチャンスを踏み潰したときに、ミキサージャブと殺し合うと決めたのだから。

 生きて帰れるとは、微塵も思っていない。

(なんで、とか。どうして、とか。そんなことはどうでもいい)

 ぎょろり、とミキサージャブが突如現れた浩一を睨みつけた。

 それは肉ではなく、死体にたかる羽虫を見る眼光だ。

 当然だが、この獣にとって火神浩一には何の価値もない。障害にもならない。


 ――今殺した二名の戦士よりも火神浩一は格下である。


 獣の感知力は正確である。だからそれは正しい認識のはずだった。

 だから獣は思う。邪魔だな、と。今から最上の肉メインディッシュを食らうところだったのに水を差されたな、と。

 火神浩一は硬い鎧も分厚い盾も持っていない。戦闘用のインナーの上に黒い着流しだけを身に着けたこの侍は、獣の目にはとても脆そうな生き物に見える。

 獣の口からグルルルゥ、というつまらなそうな唸りが漏れた。

 対する火神浩一は平常心のままだった。

 ただ、ミキサージャブの背後に棒立ちになっている、追い詰められた二人の少女に視線で逃げろと告げるだけだ。

「全く、酷く度し難いな。どうせ闘うなら最初から出りゃよかったんだ。そうしたら四人とも逃げれただろうによ」

 だが浩一は嗤う。生き死にはどうでもよかった。アリシアスのときと同じだ。別に己は人助けに来たのではない。

 ただ、己が弱者のように振舞うことが許せなかっただけだ。

 隠れ、見逃してもらおうなどと考えていた性根が許せなかっただけだ。


 ――戦いた・・・かっただけだ・・・・・・


 火神浩一は徹頭徹尾自分のことだけを考えていた。他人のことなどどうでも良かった。

 自分は善人ではない。今日は殺戮しかしていない。ただ戦士として、気分が悪くて血迷っただけだった。


 ――断じて、助けようなどと思い上がっちゃいないのだ。


 浩一が何かを言ったが、ミキサージャブには人間の言葉はわからなかった。

 獣の認識にあったのは、浩一が現れ、自分がそれに意識をとられたことで獲物が逃げていくという事実だけだ。

 逃がすわけにはいかなかった。あの二匹のメスはこの迷宮に閉じ込められてから初めて見た最高の獲物だ。肉だった。

 しかし追撃のために身体を反転することはできない。

 ミキサージャブにとって、新たに現れた軽装の戦士は脅威なのかそうでないのかの確信・・が掴めなかったからだ。

 見た限りでは何の障害にもならない。肉体の強さ、手に持った武具、先程殺した戦士たちの方がよっぽど脅威だった。

 だが、この侍がこうして現れたのには何らかの目的があってのことではないかとミキサージャブは浩一を警戒してしまう。


 ――ミキサージャブはただ獲物を刈り殺すだけの凶暴なモンスターではない。


 敵の戦力を考え、効率的に殺し、残酷に喰らうことのできる、最も恐ろしいタイプのモンスターだ。

 もちろんミキサージャブは最初からそうだったわけではない。学んだのだ・・・・・。この獣は。

 外の世界・・・・にいたころ、こんな四方を石に囲まれた空間でない場所で、一度だけこの黒い獣は苦渋を飲まされたことがある。

 あの原初の密林で暴れていた自分に対し、襲ってきた白衣の女の記憶が蘇る。身体の大部分を抉られた経験はミキサージャブにとって、とても苦い記憶だった。

 あれも、最初は獲物に擬態していた。

 そうして掛かったミキサージャブのような怪物を、逆に追い詰める正真正銘の化け物だった。

 目の前の侍はどういう生き物なのか。獲物なのか。狩人なのか。ミキサージャブは思考する前に吼えた。

『ヴォォオオオォォオオオオオオオォオオォオオオオオオオ!!』

 ミシミシと空気が軋む。世界に皹が入る。ミキサージャブほどのモンスターなら、ただ吼えるだけで空間を殺意で汚染することができる。


 ――獲物であるなら怯え、竦み、動けなくなるはずだ。だが、狩人ならば。


 火神浩一は立っていた。侍は毒の刀を手に、ただ立っていた。

 そしてその身体は半身を前にし、腰を落とした。


 ――居合の構えだった。


 だから火神浩一はミキサージャブにと認識された。

『ヴォォォオォッォオォオオオオオオオオオオオオオ!!』

 刹那、ミキサージャブが踏み込み、攻防が交わされた。

 神速の居合いと颶風の一撃がぶつかる。

 片方は生物の肉を容易く斬り裂き、敵対した生物の神経を悉く破壊する毒の一閃。

 片方は触れずとも衝撃のみで人間の身体を木っ端のごとく吹き飛ばし、当たれば肉片をぶちまけ、生命を跡形もなく消失させる重撃。

 迫り来る重刃を目にしながらも浩一の意識はぶれなかった・・・・・・

 浩一の一閃はミキサージャブを一撃で殺害できるわけではない。

 反して浩一はミキサージャブの一撃を受ければ死ぬしかない。

 両者は真正面から対峙し、同時に攻撃を放っていた。

 お互いに、お互いの攻撃を回避する手段などない。ゆえに手を尽くさなければ浩一は一瞬にして挽肉だ。


 ――だがこの瞬間、侍は嗤っていた。


 肉体が死闘に浸かり、愉悦にがっていた。だから・・・、自身の状況を全く不利だと思っていなかった。

 そもそも勝てる勝負というのは一体何だ? 疑問が浩一の思考の奥で瞬く。

 毎年毎月毎週毎日傷つけ破壊し殺しているモンスターたちとの闘いと今の闘いになんの違いがあるのか。

 殺意をもった者同士が全身全力全霊の力と意志と感情をぶつけ合っているこの状況はそれとなんの変わりがあるのか。

 ならば、やることは何もかもが最初から決まっていた。

 防御に意味がないのなら、今ここに攻撃・・以外の要素など介在する余地はない。

 斬、と浩一の一撃が深く黒沼のような穢れた皮膚を切り裂いた。

 肉体が死闘に浸るのはいつものことだ。

 だから真正面からの切り合いでは勝利できないと確信していた浩一の思考・・は、獣の最大の急所たるその極厚の首ではなく、巨大なミキサージャブの腕目掛けて最速の一閃を打ち込んでいた。

 戦斧を握った手首を深く毒刀が傷つける。が、直後に威力も速度も減じてない一撃が浩一の身体を木っ端のごとく吹き飛ばす。

「がッ! あぁぁッ!!」

 侍が苦鳴を上げながら吹き飛ばされる。戦斧が直撃・・していたならば、浩一の五体は無残にもばらばらに破壊されていただろう。

 しかし浩一がミキサージャブの手首に与えた傷によって戦斧の軌道がズレたため、直撃だけは回避できていた。

 それでも戦斧が地面に直撃した余波だけで浩一の肉体は吹き飛ばされていたが。

 意識を途切れさせることなく、転がりながら体勢を整えた浩一は敵を視界から外すことなく立ち上がった。

「な、に……?」

 ミキサージャブによる犠牲者二人の残骸によって、血と肉に塗れた乳白色だった床は赤く染まっている。

 浩一の身体から零れ落ちる血の雫が、床をさらに赤く染める。

 今の攻防で失われていく生命力を測りながら、浩一は自身の限界を推測した。

 なるほど、自らの弱い肉体では、直撃の余波すらもう喰らえない。これ以上は喰らえば立てなくなる・・・・・・

 だが、問題はそこではない。

「なぜだ?」

 ミキサージャブは珍しそうに自身の傷跡を見ていた。手首に斬撃を打たれたことで自らの攻撃の軌道が変わったことを珍しがったのだ。


 ――ミキサージャブが学んでいる・・・・・


 だが浩一の驚愕はそこではない。

 なぜ、その傷跡から血の一滴も流れ出ないのか。

 いや、浩一の視覚はそれを捉えている。ミキサージャブの血は止まっていた。神経破壊の毒刀『雲霞緑青』で斬り付けた傷の周辺に、固まった血液が見て取れる。

 しかしもう血は流れていなかった。

 浩一は混乱の極地にある。何故即座に治癒している。ただのミノタウロスですら傷痕からの大量の出血で、失血死を懸念されたのに。


 ――なぜ、必殺の毒刀が効いていない?


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