剣戟は遠く、剣閃は高く(2)


 火神浩一は踏み出した。だが、それはそのまま修羅の気配を漂わせる戦場へと踏み込んだわけではない。

 彼はまだ境界線を越えただけだ。元の道に戻れる余地はまだあった。

 そこに、浩一以外の獲物がいたからだ。


 ――ォォオオオォオオオォォオオオォォォォォ。


 殺気に満ち溢れた通路を進み、浩一は立ち止まった。

 臆したのではない。疲れてしまったからだ。

 感じる圧力と殺気はまるで泥の中を進むようで、精神的に立て直したものの、覚悟だけで進んでいた浩一の身体を留まらせるには十分だった。

(正常じゃなかったか)

 首を掴まれたように止まっていた呼吸を浩一は正常に戻すと、立ち止まり、心胆を落ち着けようと――ふと自分が通路の角に立っていることに気づく。

 周りが一切見えていなかった。命取りだろうと浩一は自分に向けて心中で怒鳴りかけ、息を整える。

 スキルと認定されるまでに精神を鍛え上げることで習得した『侍の心得』もこんな状況ではまともに発動できるわけがない。

 まずは周囲を確認し、精神と肉体を落ち着け、万全の――『ヴォオォオオオオオオオオオオオオ!!』

 激震が走ったかのような獣の叫びに浩一の思考が硬直した。空気が引き裂かれたかのようなビリビリと振動に息が止まる。

(なん……だ? なにが……)

 角から先の様子を確かめるべく浩一はPADから小型カメラを転送するとそれを通路の先へ転がした。

 顔を出す勇気はある。だがその前に何もできずに殺されないためにも、何が起きているかの確認は必要だ。

(この先でなにが起きている?)

 今まで浩一が生きてきて一歩も進みたくないなんて思わされた記憶はあまりない。

 それこそ、この都市に来ることになったときのことか。

 つい先日のアリシアスの――(こいつは……この顔は……)

 浩一はPADから出力されたカメラの映像に思わず口から出そうになった声を抑えた。


 ――映像の中にアリシアス・リフィヌスがいたからだ。


 浩一がいる角を曲がってすぐの距離にアリシアスがいる。あの美しい青い髪の少女が、仲間と共に絶望・・に立ち向かおうとしていた。


                ◇◆◇◆◇


 その禍々しさは、人間が想像できる脅威がそのまま形をなし、モンスターと化したかのようだった。

 アリシアスの所属するSランククランにしてSランクパーティー『勝利の塔ア・バオ・ア・クゥー』の四人が学園から依頼され、討伐に向かった先で接触した賞金首モンスター。

 『掻き混ぜ喰らう者ミキサージャブ』の名を冠された黒いミノタウロス。

 火神浩一が聞いた悲鳴の主だろうか、一人の人間が怯えるようにしてミキサージャブに対峙している。


 ――ミキサージャブ。


 闇色の皮膚を持ったミノタウロス。だがその身体は通常のミノタウロスよりも一回り以上に大きい。

 ミキサージャブの握る巨大な黒鉄の巨大戦斧は暴力の化身の如くだ。

 手足のどれもが大木のようであり、歩みの一つで地が揺れたかのように錯覚させられる。

 獲物を前にして雄叫びを上げたそれに対し、四人の学生は凍りついたかのように動けない。

 あの傲慢なアリシアスまでもが棒立ちになって立ち止まっている。

 いや、そうではない。

 立ち止まりながらも、逃げ出そうという動きを彼らは見せていた。

 そう、実際にここまで逃げてきたのだろう。そして追いつかれて殺されそうになっている。


 ――衝撃的な光景だった。


 四人のSランクが、何もできずに、逃げ出そうとしているなどと。

「追いつかれましたわ! 気をつけてッ」

 浩一が出会ったときの余裕など欠片も見えない絶望的な表情で、だが生存の道だけを執拗に探り続けている『青の癒し手』アリシアス・リフィヌス。

「気をつけるも何も、こんなの! こんなの! どうしようもないわよ!!」

 杖を構えつつも、防御魔法の一つも発動させていない『百魔ひゃくま絢爛けんらん戦霊院せんれいいん那岐なぎ

「わ、私は、私はこんなところで死ぬ、のか?」

 巨大な槍を背負うも、それを構えすらしていない全身鎧で身を固めた重騎士『怪物騎士』ドライ・炎道えんどう・ソレイル。

「畜生ッ! 畜生ッ! り、リフィヌスッ! 戦霊院ッ! なんとかしやがれ! てめぇら八院だろうが、は、八院ならなんとかできるだろうが!!」

 片足を引きずり、恐怖に全身を震わせ、暴言を吐き続ける『暴風』リエン・滅道めつどう・カネキリ。

 十七学年から二十学年、計四学年の主席を集めたアーリデイズ最強の学生クランだ。

 彼らはこの学園都市で最も強力な学生を集めたと謳われるクランで、Sランクのモンスターすら単独では彼らに抗し得ることはできないとまで噂されていた。

 実際に処分ができないほどに強力な何体ものモンスターが彼らによって倒されている。

 ミキサージャブの討伐も、その評判を受けてのことだ。

 だが、今は彼らが狩られる側に回っていた。

「逃げますわよ。とにかく身体強化に魔力を回して――」

『ぐるるるるるるるぅぅぅうう』

 アリシアスが言い切るよりもはやく、ミキサージャブが動いていた。

 突っ込んできた黒色のミノタウロスに対し、主席パーティーは全員一致で即座に回避行動に移る。

「く、来るな。くるな。クるな。く、クるなぁぁぁぁアアァぁああ!!!!!!」

 だが片足を負傷していたリエンが回避しそこねた。

 絶叫が響く。闇色の豪腕が振るう戦斧に巻き込まれ、人間が一撃でぺしゃんこ・・・・・にされる。

 だがリエンは生きていた。骨や筋肉、皮膚などを金属と同程度の硬度のものに改造していたのだろう。

 轟音と共に迷宮を揺るがした一撃を喰らっても未だリエンは生きていた・・・・・

「あ、あああああ、お、俺の、身体、身体が、あ、アリシアス……ち、治療を」

 切れ切れの言葉が、仲間であるはずのアリシアスに向けられる。だが、アリシアスはリエンになんの感情も向けず、ミキサージャブを注視した。


 ――もはや無駄だからだ。


「ひッ!? や、やめろ! やめろぉおおおおおおお!!」

 足と腕が奇妙な方向にねじり曲がったリエンを、ミキサージャブは片手で持ち上げていた。

「やめてくれ! ああ! ああ! 嫌だ! 嫌だぁあああああああ!!」

 まるで甲殻類の殻でも剥くかのように砕けた鎧がバリバリと剥がされる。

 リエンが叫ぶ。痛い痛いと叫ぶ。Sランクゆえの生命力が原因で、死ねない戦士の悲鳴が迷宮を震わせる。

 そして、リエンの身体は生きたまま・・・・・肉団子のように丸められる。

「うごえ。いぎ、あぎぎぎ、い、嫌だ、嫌だぁあああ! 喰われて死ぬなんて嫌――」

 絶叫――そして、大口を開けたミノタウロスによってリエンの身体が喰われていく。

 ぐちゃりぐちゃりと、人間一つを使ってできた肉団子がモンスターによって咀嚼され、消費されていく。

 死者蘇生は学園都市の技術でも未だ到達できていない領域だ。死んだら終わりだ。

 いかな四鳳八院であろうと、主席であろうと覆らない事実。例外は旧世界の神の子だけだがそんな人間はこの場にはいない。

「ああッ。くそッッ、リエンッ! リエンッ! わ、私は、お前のようにはッ!!」

 仲間を喰われたドライは悲痛と憤怒に身を焼かれている。

 全身鎧【滅亡せし御門】鬼に縊り殺される戦士の図画が背面に描かれた全身鎧を着込んだドライは、親友を殺された憤怒で、ようやく背負っていた巨大な突撃槍を構えることに成功した。


 ――全身を縛っていた恐怖・・を振り払えたのだ。


 だがドライは迷っていた。ここまで追い詰められてなお、ミキサージャブに向かって突撃することを戸惑っていた。

 この一瞬、刹那が大事な場面だというのにドライは自身の激情に従うことに躊躇していた。

「わ、私は、や、やはりおび、怯えている。あ、アリシアス……」

「精神保護は無駄・・ですわ」

 再確認・・・のようなやり取り。だが、彼らがそんな無駄なことをしている間に獣は食事を終えていた。

 怪物の口の中でリエンの遺体は丹念に咀嚼され、誰ともわからぬ肉へと変じ、飲み下されていく。

「り、リエン!? う、うぁああああああああああああ!!」

 如何に主席とて、如何にSランクの強者とて、その心は未だ年若い青年だった。

 友の仇を討つ。自身の危難を退ける。彼の心の中で、目的は見事なまでに合致した。


 ――覚悟を決める。


 全身に悲壮感を漲らせたドライは眩いほどに視覚化された生命力オーラを振りまき、地を蹴る。

 『重騎士突撃ヘビーナイトチャージ』と呼ばれる、重騎士専攻科コースでも大槍系装備を身に着けた重騎士だけが使える攻撃を開始したのだ。

 『勝利の塔ア・バオ・ア・クゥー』と呼ばれる彼らはこの国の支配者たる四鳳八院系列の主席の学生のみで構成された超人の集団である。

 四人が四人とも、戦技Sランク以上の戦闘能力を持つ学生。

 身体能力も技の冴えも一般学生が見上げるしかないほどの頂点に到達した、すぐに前線で働けるほどの超ランク学生。

 身体測定ステータスの値も全てがSやSSで固められた超人たちだ。

 ただの人間とSランクの人間との間には比べることすら烏滸がましい生物的な隔たりが存在する。

 それはまさに天と地、霊長類と微生物以上の差だ。

 努力して努力して努力しても絶対に届かない差だ。

 彼らの域に達するには才能と運、財力、そして生まれつきの特殊なスキルまでもが必要とされる。

 まさに人類が生み出した生粋のエリートである。

 そんな人間がまともに抗えずに殺されたというのは一体どういうことなのか。

 悲壮をにじませて闘わなければならないというのはどういう状況なのか。

 突撃したドライの背後で、残りの二人も戦闘体勢を整える。

「おおおおおぉおぉぉぉぉおおおおッッッッ!!!!!」

 目前の何もかもを踏み潰す重騎士の全力疾走が、眼前に立つミキサージャブを突き倒さんと激震する。

 Sランク重騎士による、最大最強の一撃。

 これで貫けないものなどないと思えるほどの、理想の重騎士突撃。

 雄叫びと共に、ドライの身体を覆うオーラが錐のように鋭く先鋭化する。それは空気と接触して赤熱化するほどの熱量を蓄えている。

「おおおおおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」

 ドッッ!! と爆発したかのような激震が迷宮内に走った。

 戦斧を構え、ドライを待ち構えるミキサージャブの前でドライが更に加速したのだ。オーラによる爆発的な多段式走法。手にもつ突撃槍は所有者に重さを一切与えず、内部の非魔導機関により、敵のみに蓄えた重さと熱量を解放する工匠ハルイド製Sランク突撃槍『解体されしベルッツァンネル』。

「くうううううたぁぁぁあぁばぁっぁあぁぁぁれぇぁぁぁぁぁぁ!!!」

 ズズンッ!! とドライが歪んで見えるほどのオーラが追加で発生した。

 ドライを覆う炎のようなオーラは周囲を焦がしつつミキサージャブを捕捉する。

 たった一人、何故か誰も援護を行わないなか行われた悲壮な攻撃だったが、その技の冴え、速度、威力、どれをとっても一流の名に恥じることはないものだった。


 ――だが結末は決まっていた。


 後方のアリシアスはつまらなそうな顔でフードを被ると一歩後退する。

 那岐もまた、自身の眼前に精神守護系下位の魔法『心盾』を無詠唱で展開していた。

『ヴォォォオオオオオォオオオオォオオオオオオオオオオオ!!』

 ドライの攻撃に、ミキサージャブは吠えた・・・

 そして、ズズン、と静かな音を立ててミキサージャブの眼前でドライは停止する。

 貫いたわけではない。ドライが纏うオーラはミキサージャブの表皮を焦がすまで近づいていた。だが、本命の突撃槍は射程ギリギリの位置でドライと共に停止していた。

 槍先に込められた力は発散されず、ぶるぶると、何かに抗うように震えている。

「が、く、ち、くしょうッ!? やはり無駄なの、か――ッ!?」

 ドライの被る兜の隙間から最大の無念を思わせる表情が垣間見える。

「こん、なッ。わ、私は怯えて・・・なんか――ッ」

 『怪物騎士』とまで呼ばれた青年が叫ぼうとした。心を支配し、肉体を停止させる恐怖に抗うべく、槍を持ち上げようとした。

 だがその身体が掴まれた。黒いミノタウロスミキサージャブの、人間の胴体を片手で掴めてしまうぐらい巨大な手に。


 ――彼女たち・・・・は、それ・・を黙ってみていることしかできなかった。


 がしゃり、と主を失った全身鎧がその末路を顕す血色の床にひしゃげながら転がった。

 鬼に縊り殺される勇者を描いた鎧の持ち主は、絵のごとく黒牛鬼ミキサージャブの贄となり、その命を消失させたのだ。

「さて、那岐先輩。いかがいたしましょうか? わたくし、有効な撤退手段を有してはおりませんわ」

 不仲ながらも彼女たちが頼りにした前衛が死ぬ前に稼げた距離は僅かだ。

 それはミキサージャブが全力で追撃を開始した際には一秒も経たずに踏破させられてしまう距離だ。

「とはいえ、魔力殺し・・・・相手に後衛が二人ってのもね。アリシアス、アレを留めることは」

「全力で半秒、いえ、なんとか一秒、といったところですわね。ただ、わたくしの死亡が前提ですけれど」

 学園都市の、いや、人類の頂点の一人『怪物騎士』ドライ・炎道・ソレイルを腹の内に収めたミキサージャブは二人の獲物を前に悩む様子を見せた。

 アリシアスは嗤う。どうせどちらがより柔らかいか悩んでいるのだろう、と。

 アリシアスの矜持が舐められたままを許さない。ここで死ぬわけにはいかないが、それはそれとして腹が立つ・・・・

「ドライを含めた四人じゃ無理だったけど、二人なら大丈夫ね……よし、アリシアス。私がなんとかするから。三秒稼いで」

「無理、とは言えませんわね。はぁ」

 アリシアスは大きくため息を吐くと、貧乏くじを引くために前進を開始しようとし――ふと運命・・に呼び止められたかのように立ち止まり、背後を振り返った。


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