プロローグ(2)


 アーリデイズ学園、所有ダンジョン『アリアスレウズ』20階層の通路に二人の学生がいる。

 火神浩一と東雲・ウィリア・雪の二人だ。

 視界を阻害しない程度に淡く発光する真珠色の通路に立つ二人は今後について話しあっていた。

「雪、それでどうする? まだ先に進むか?」

 総合端末たるPADを操作し、現在位置を中心としたマップを宙空に表示させた浩一は雪に問いかける。

「うぅ、どうしよ。私もう魔力ないかも」

「かもってなんだよ」

「かもはかもだよぉ。さっきの魔法はちょっと無理してたんだもん」

 頬を膨らませた雪の甘えた返答に、仕方ねぇなと浩一はPADから探索用の道具を保管している倉庫ストレージを開く。

「魔力回復。一番安い奴だがそれでいいか?」

「うん。それでいいよ」

 生成難度の高い魔力回復用の道具アイテムは高価だ。

 そのため回復力の一番小さいものを調整しながら使うことで過剰な使用を避けることにしている浩一だが、探索資金に乏しい2人が保持している薬の数はそう多くない。

 雪の魔力が枯渇し掛けているなら、効率良く帰還したとしても魔力回復用の薬は1個か2個しか残らない。

(新しい階層の探索とはいえ、目算を誤ったか。次の探索は魔力回復薬を多めに仕入れないとな……)

 2人にとって雪の魔法は切り札だ。

 ミノタウロスに浩一の刀が時間稼ぎしかできないと判明したならなおさらでもある。

 浩一は少しの間考えこむ。

(このまま進むか、それとも戻るか)

 学園より課せられたダンジョンの探索実習では行きだけでなく帰りのことも考えなくてはならない。

 無理をして先に進んだところで得られる物はそう多くはない。無理な探索を行えば、むしろ失うものも出てくるだろう。

 無事に帰りたいなら選択肢はひとつだった。

 気持ちを切り替えるために浩一は強く手のひら同士を打ち合わせた。びくりと雪が浩一を見る。

「よし、新しい階は開拓したし、ミノタウロスを倒すって戦果も得られた。雪、帰るぞ!」

「び、びっくりした。え、えと? もう少しだけなら頑張れるよ?」

 申し訳なさそうな顔をする雪の頭を浩一は抱え込むとそのままガシガシと頭を撫でる。

「疑問系で言うな。帰還するぞ。欲張って死んだら終わりだ」

「う、うん、って、頭撫でないでよ! もう!」

「はいはいはいはい。で、魔力回復な。ほら、出すぞ」

 髪が乱れたと自分のPADのカメラで自身を写し、髪を直す雪。

 そんな雪を横目に浩一の指が軽快にPADの操作ウィンドウを踊るように叩く。

 倉庫項目を開き、現れるのは綺麗にソートされた道具欄だ。その中から的確に魔力回復の項目を呼び出すと素早く該当アイテムの文字表示を指でなぞる。

 直後、軽快な電子音と共に雪の目前の宙空にたっぷりと液体の詰まった瓶が現れる。

 透明な格子ブロックに包まれたガラス瓶だ。

「ちょ、ま、と、とるから待って」

 慌てて髪を直すのをやめた雪が透明な格子ブロックを掴む。

 格子は転移時の破壊を免れる為のものだったが、雪が触れると淡雪のようにそれは解け、中のガラス瓶がその手に落ちた。

「あッ、た、タイミングが! あッ、わッ、わッ!」

 取り損ねたのか、小さな手の中で跳ねるようにガラス瓶が踊った。にょ、にゅわ、なんて慌てる雪の手の中のガラス瓶に、持ち主から器用に逃れるなんて能力はない。雪が間抜けにも掴み損ねているだけだった。

 浩一は呆れたように肩をすくめると、展開していたマップに視線を戻す。

 現在いる場所は迷宮管理及び学生育成機関、アーリデイズ学園の管理迷宮アリアスレウズ地下20階層だ。

 管理された怪物の中でもそこそこに強力な個体が闊歩する、学園都市の学生の中でもそれなりの力量を持つ者たちの鍛錬の場だ。

「帰還ルートは……っと」

 浩一の指が表示された地図から自分たちが探索済みの地点を指でなぞる。罠や障害物の再配置の時間を頭に浮かべ、ウィンドウの上部に配置された時計と照合する。

「時間は、大丈夫みたいだな」

 心中で胸を撫で下ろす浩一。

 定期的な迷宮の構成変更までには十分に時間があった。

 構成変更。それは定期的にダンジョンで行われる構造の改変のことだ。

 ダンジョン探索は学生のために作られた課題である。ゆえに定期的に構造が新しくされ、過去の地図を役に立たなくさせる。

 なので構成変更の確認は重要だった。帰還途中に所持している地図が役に立たなくなるのは、どんな学生でも勘弁してくれと泣きたくなる事態だからだ。

「チェック、まだしてるんだ。アリアスレウズの上層と中層には罠を仕掛ける類のモンスターはいないから大丈夫だと思うけど」

「それでも油断はしないほうがいい。雪も帰還ルートは頭に叩き込んでおけよ」

 魔力回復薬の瓶を片手にうん、と素直に頷く雪。

 どうしたって探索は行きよりも帰る時の方が疲労が溜まりやすい。

 疲労は大敵だ。集中を欠き、消耗していれば簡単な罠すらパーティーを全滅に追い込む致命の一撃と化すことになる。

 浩一は自身の肉体に意識を向ける。

 事前に周到な情報収集をしていたとはいえ、初見で、強敵であるミノタウロスを倒したのだ。

 今は戦闘直後で興奮が持続しているが、気づいていないだけで精神的、肉体的に疲労が溜まっているとみていい。

 この帰還のタイミング。2人パーティーとはいえ、浩一の判断はリーダーとして実に的確なものだった。


 ――だが……。


(……この帰還ルート、結構余裕があるんじゃないのか?)

 常に攻撃的思想を思考の前提に置いてしまう前衛戦士にありがちな思いつきが浩一の脳裏をちらつく。

 帰還のルートを策定し終えた浩一の視線が地図の未探索領域を彷徨うろつきはじめる。

(この階一番の強敵であるミノタウロスは倒せた。その俺と雪の2人ならまだまだ先に進める、のでは……?)

 せっかくここまで来たのだ、という意識が働いていることを浩一は否定しない。ここまで来るのにも結構な時間と資金を消費している。

 やれるならやれるところまでやりたいと思うのは浩一でなくとも当然思い至る思考である。

 もっとも、その思考が悪いというわけではない。いつだって先に・・進めるのは危険を恐れずに踏み込める者だけだからだ。

 そして迷宮探索実習は命の危険があるだけに考課表せいせきに与える影響が大きい。その上で諸々の事情を抱える学園は、学生の迷宮探索を推奨するために成果に応じて少なからぬ褒賞金も支払っていた。

 成績に金。学生であるなら2つとも当然のように欲するものである。

 ただし現在のペースで進むなら、浩一も雪も今期分の単位や生活費は十分に賄える。

 生活や卒業、それだけを考えるならばここで無理をする必要はない。

 しかし、浩一の視線は獲物を狙う獣のごとくに鋭く地図を睨みつけていた。リーダーとしても戦士としても動くときに動けなければ失格だと言わんばかりに思考は常に新しい戦果を欲している。

(ただ卒業するだけならこのまま帰ってもいい。しかし、その上を目指すならこのまま進むべきだ。だが……ああ、畜生)

 面倒くせぇと浩一は呟いた。自らの攻撃衝動に対して、肉体が・・・反発を示していた。

 先ほどよりちりちりと首筋に嫌な予感が走っている。肉体が浩一に警告を発していた。

(うるせぇな畜生――わかってる。帰る。帰ればいいんだろうが)

 その警告は誰でもない浩一自身が発していたものだ。浩一の肉体の奥底に横たわる生存本能が帰れと警告を発していたのだ。

 他の学生と比べて戦闘能力の劣る浩一がここまでこれたのはこの生存本能のおかげである。

 これはスキルや魔法のような明確な能力と呼べるものではない。ただのオカルトだ。勘のようなものだ。

 だが浩一は常にこの感覚を信頼していた。他の学生に比べ、肉体の脆弱な浩一が頼れる数少ない手段の一つだったからだ。

(はッ、よ? 無理をすれば死ぬってか……)

 浩一は自身の考えを脳の奥底に沈め、それ以上は考えないようにする。自身の将来を鑑みれば生活や卒業だけを考えるわけにもいかないが、無理と無謀はまた意味が違う。生存本能が警告を発している以上、無理をして進んだあげくに全滅しては今までの全てが無駄になる。

 死ねば二度と迷うこともできない。先に進みたいなら生きて地上に戻る必要がある。

「畜生。あー、上にあがったら次の探索予定表をダンジョン課に提出、後は……」

 そうして今後の予定をぶつぶつと呟く浩一の隣で、幼なじみの迷いなど気づいてもいない雪はガラス瓶を胸元に抱え込み、うろうろと視線を彷徨さまよわせていた。

「苦いから嫌だなぁ……これ」

 雪の様子に気づいた浩一が「いい加減慣れろ。飲まないと帰路で死ぬぞ」と突っ込みを入れれば「そうだね」と死を決意したような表情の雪がガラス瓶の栓を抜き、瓶の口に唇を添わせた。

 ふぅ、と決意したような雪が小さく艶めいた息を吐き、目をぎゅっと瞑り、瓶を傾ける。

 白く発光する瓶の中身がとろりと雪の口腔目掛けて流れ落ちていく。

 流れる液体は高濃度の魔力だ。

 『下級魔法薬ヴィルサダ』はかつて日本と呼ばれた列島に点在するシェルター群、それを支配する統一国家ゼネラウスにて有数の商社であるギネリウス商会の一部門ラクハザナル薬師連合製の魔法薬である。

 魔力回復薬の中では下級に位置する薬剤のヴィルサダであったが、その効果は値段に比して高い。

 『魔法使いメイジ』や『僧侶プリースト』にとっては必須のアイテムだった。

「うぐぇぇにがぁいよぅ」

「やっぱ慣れないか?」

「こんなの一生慣れないよぅ!!」

 待ってろ、と先ほどの迷いを切り替えるように地図マップから倉庫ストレージに操作ウィンドウを切り替える浩一。

 雪の弱音を聞いてからすぐの動き。いつものことだと言わんばかりの手馴れた操作。

 魔力回復の際の雪の反応を何度も目の当たりにしている浩一からすれば当然といえば当然の動きだった。

 ヴィルサダは魔力結晶の中では安価だが、口当たりが非情に悪いことでも有名なのだ。

 雪曰く魔力は苦い! 更に言えばその中でもヴィルサダの苦さは特別で、人の心の欠如した悪意の籠もった苦さ、とのこと。

 優しさが足りない! なんて、かつての雪の力説を思い出しながら、浩一は倉庫の嗜好品欄から雪の欲しているものを転送する。

 ちなみに浩一は転移品を落とすことがないので格子状の安全装置を使っていない。これらの設定は個人別に設定できるようになっていた。

「あーん」

 浩一は転移した品の包装を片手で剥くと、大きく口を開けた雪の口腔に指を突きこんだ。

「むぐ」

 可愛らしい顔を歪めることでヴィルサダの壮絶さを表現していた雪だったが、浩一がそれ・・を口に突きこんだことで、ふにゃぁと険しさを緩めていく。

 つぷりと雪の唇から指を抜いた浩一は雪に見えないように雪のスカートの裾で唾液を拭った。

 そんな浩一の仕草に気づかぬ雪は、はふぅ、と甘い吐息を零している。

 浩一が雪の口に放り込んだもの。

 それはヴィルサダと同じ会社が製造するギネリウス商会甘味部門製イチゴちゃんキャんでぃーだった。

 駄菓子のような名前のそれはヴィルサダをダースで買うと1袋セットでついてくるもので、そんなものをおまけにする辺りわざと苦くしているのでは? と浩一は考えるのだが、雪のような魔法使いたちの多くは浩一のようには考えない。魔力は苦いものなの! ギネリウスはそんな私たちを助けてくれたの! と主張していた。

 そんな剣幕で強弁されれば浩一とて面倒くさくて疑う思考自体を放棄するというものである。

「それで、魔力は回復したのか?」

 数分ほどの待機時間。摂取させた魔力の馴染みを待ち、雪へ問い掛ける浩一。

「大丈夫だよ。全快してる」

 ころころと頬の中でキャンディーの甘さを楽しんでいる雪は先の戦闘で使用した装備の調整をしながらこくこくと頷く。

 そうか、と浩一は再びマップを呼び出す。雪とのやり取りで攻撃的だった意識は鳴りを潜めていた。

 和んだのか、毒気が抜けたのか、それとも戦意が萎えたのか。

 どちらにせよ無理して死にに行くよりは良い傾向で、だから自分には雪が必要なのだと浩一は密かに考えた。

「道順は来たときと同じだがいいか?」

「うん。浩一に任せるよ」

 そうして2人は帰還するために、真珠色の通路を歩き出すのだった。


                ◇◆◇◆◇


 真っ直ぐに続く真珠色の通路を浩一と雪の2人は軽く雑談をしながら歩いている。

 周囲への警戒は怠っていない。

「それでエンジェル・クリムゾンの新曲がね。ほんと凄いんだよ」

「エンジェル・クリムゾンの新曲? この前におススメとか言って聞かされた奴とは違うのか?」

「うん! 前回のも良かったんだけど、今度の新作も――浩一?」

 浩一の足が止まる。その浩一の動きに合わせて雪の足も止まる。

「あれは、モンスターか?」

 浩一の視線の先、通路の奥に薄っすらとだが何か移動する物体が見えている。

 通路は直線だ。視界を遮る障害などは何もない。


 ――だが距離・・がある。


 浩一が目をすがめ注視すると、視線の先でぼんやりと見えていたものがはっきりと形どっていく。

 人ではない異形。敵性存在モンスターだ。人とは似ても似つかない精神と肉体を持つ怪物達。

 まだ少し距離はあるものの2人の進行方向にいるのは全長10メートルほどの1匹の巨大な大蛇と、その上に跨る狐の頭部を持つ人型のモンスターが4体だった。

 浩一の言葉に応じて素早くPADを操作し、呼び出した単眼鏡を構えて相手を観察する雪は、敵がいることを配慮してか発する声も小さい。

「狐は上の階でも会ったことあるけど、蛇は私達まだ闘ったことなかったよね」

 雪から単眼鏡を受け取った浩一は肉眼では捉えきれなかった細部をさっと観察し終え、単眼鏡を倉庫ストレージのパーティー共有欄へと戻す。

「ああ。この階層じゃさっきのミノタウロスが初戦闘だからな」

 モンスター側も2人の存在に気づいたのだろう。2人が話している間にも、大蛇がゆらゆらと蛇行しながら接近してくる。

 大蛇の上に乗る白い単衣ヒトエを着た狐人の1体がケラケラと嗤いながら手に持っている鉄扇で浩一たちを示した。

 狩りの算段でもしているのか、残る3体の狐人の口角が楽しげに裂け、浩一たちを嘲り笑った。

「亜人は『狐鬼コックリ』だな。ランクBの亜人種、いや、この階層ならBの中でもB+に近い連中だ」

 ランク。モンスターに与えられるランクとはその種族が持つ『強さ』を階級別に分けたものである。

 ただ当然ながらモンスターの中にも個体差というものはある。

 ランク内でも強さはまちまちなのだ。だからモンスターに与えられるランクはその種族の平均値であり、それに合わせて、学園都市のダンジョンでも実習を行う学生たちが安全に実習を行えるよう、学園側でダンジョン内のモンスターについては平均的な強さのモノが投入されるように調整が行われている。

 なのでモンスターが推定のランクよりも大幅に強かったり弱かったりということは早々に起こらない。

 しかし安定は停滞を生む。学園は安定を好むが、停滞を嫌う。そのため時に微調整を行い、ダンジョンに揺らぎが生まれるように適正でない強さのモンスターや、パターンからずれた特殊なモンスターの投入は適宜行われていた。

 案の定、モンスターの姿を見て浩一は眉を寄せた。

「あいつら種族ランクより強そうだな」

「そう、だね。たぶん種族の平均より上だと思うけど?」

「狐の方が他のモンスターを使役してるってことはそれなりに知恵はあるみたいだが。どうだ、雪? なにかあるか」

「う、うん。もしかしたらだけど、シェルターの外で暮らしてた経験があるのかも? あいつらがいつ配置されたのかはわからないけど、実習前に購入した情報にああいう個体の情報はなかったし、大人数のパーティーは避けてたのかも? 私たちが二人だから組しやすいと思って出てきたのかな?」

 情報の購入は基本だ。学生の間でも危険なモンスターの詳細は高値で取引される。

 もちろんあまりに危険な個体は学園の方から存在こそ周知されるものの、モンスターの特徴や使う武器魔法スキルなどは情報を買って調べなければならない。

 情報は高価だが、そういった情報は命綱ともなりうるため、できうる限り購入するか知っている人物から聞くなどしておくのは事前準備の一つだった。

 しかし明らかに種族の平均を上回っているのに、今回の集団の情報は事前情報で得ることはできていない。

「面倒だな。ミノタウロスとの戦闘後を狙われたか」

「うん。どっちにしてもここは帰り道だし、私達の疲労を狙って待ち伏せしてたんだろうね」

 浩一たちとモンスターの接触までは、まだ幾分か余裕がある。

 見た限り狐鬼達は通常の固体よりも体格と知恵が多少あるだけに見えた。

 しかし、通常ならばどこかの大部屋や部屋などに配置される設置型モンスターだったはずの大蛇を手懐けて使役している。

 モンスターがモンスターを使役する、ということ。

 これはダンジョン内では育つことのない概念だ。たまたま自然に覚えた、とは浩一たちは考えない。突然変異的に奇妙な戦術を使うモンスターは当然存在するが、それよりも『外』で培われたものを発揮しているのだと考えた方が自然であった。

 『』。学園の外より更に外。シェルターの外。人類が未だ生存を許されない外界に生存しているモンスター。捕獲され学園迷宮へと送り込まれたのか。

 それともたまたま偶然ダンジョン内で自然と新たな概念を思いついたか。

 『外』か、『内』か。浩一と雪の動きは自然と硬直する。『外』であったなら敗北する恐れがある。

 それは彼らが浩一たちの想定を上回るほどの奇妙な能力を持っているわけではない。

 『外』の世界で生きてきたモンスターは単純に強い・・のだ。

「どうするか……」

 浩一が呟き、雪が指示を待つようにじっと身構えている。

 基本的に、大蛇のようなタイプのモンスターとの戦闘に際して学生たちは通路は避けるようにとの教育を成されている。あのようなモンスターと戦う場合、上下左右の限定された通路ではなく距離がとれて、縦横無尽に動ける大部屋が好ましい。

 もちろん、ミノタウロスと戦闘を行なえたことからもこのダンジョン内の構造や通路は広くできている。

 形も大きさもそれぞれ違っているモンスターが戦闘をやりやすいように幅は広くとっており、高さも十分にあるのだ。

 それはモンスターを利する構造ではあるが、学生たちが自由に動けるようにも作られている双方に利点のあるものだ。

 しかし、その膨大な空間は今や大蛇の蛇行する移動方法によって、大半を占められている。双方に利点のある戦闘域がモンスター有利の場へと変更されてしまっている。

 浩一のような魔法や火器を扱わない前衛戦士の場合、大蛇との戦闘を行なう際は広大な室内でのヒットアンドアウェイが教本や道場で習う基本形だった。だからこそ、このような戦域を作り出した狐鬼の手腕に2人は静かに戦慄する。

 実践的な動き。生命を狩り慣れている。

「雪、撤退はできそうか?」

 浩一の声色は、鉄のような強い意思で固められていた。それは雪が安心を得るいつもの浩一だ。

 この状況に驚いているが冷静さは全く失われていない。雪の返答次第で交戦か撤退を決める、選択を問う声。

「そう、だね」

 魔杖を握る魔法使いゆきの紅眼に敵が映る。恐ろしい怪物たちの配置や特徴を見ながらどうすべきかを思考する。

 大蛇が来たのは浩一や雪が既に踏破し終わっていた道だった。だから大蛇のいない方向に撤退を始めたとしても2人は先程のミノタウロスと戦闘を行なった通路までしか道を知らない。その先のマップを2人は持っていない。

 だから逃げるなら必然、大蛇のいる方向になる。

 もし反対側に逃げたとして、逃げた先にモンスターがいたなら挟み撃ちに遭うからだ。

 ダンジョンで遭遇するモンスターは『内』であろうと『外』であろうと学園側の行った処置により、人間を優先的に襲うような性質を持たされている。

 だからか、挟み撃ちにあった場合の未来を雪は正確に脳裏に描くことができた。

(私達じゃ敵に新しいのが加わった場合絶対に倒せない……死ぬ……よね。うん)

 結論、背を向けて逃げるという選択はとれない。

 さらに言うなら前衛専攻科の浩一ならともかく、後衛専攻科の雪が走って逃げたとしても大蛇が這う以上の速度は出せない。

 戦闘を回避したところでいずれ疲労して追いつかれるのだ。

 しかし、敵を突破して逃げるという選択は更になかった。通路のほぼ全てを、身体を使って封じている長大な大蛇の胴体と尻尾を避けながら長い長い通路を走り抜ける。当然、途中で邪魔をしてくるであろう狐鬼の攻撃をも回避する。そうして逃亡を成功させる。

 ため息が漏れる。どれも雪には無理だった。

 雪は浩一へと自身の判断を申し訳なさそうに告げた。

「だめ、かなぁ。私じゃ無理だよ。後ろは論外だし。前に逃げるにも敵の数が多すぎる」

「そうか。うん。ならば是非も無し、だな」

 雪は心の中にある弱音と弱気をぐっと飲み干すと傍らの男を見上げた。黒い着流しに刀を一本だけ佩く黒髪黒瞳の戦士。自身の長年の相棒パートナー

 彼は敵を見ると嬉しそう口角を釣り上げて嗤う。

 戦うことが好きな幼馴染。強敵に怯えるでもなく心を震わせて楽しみを見出す男。

 目の前の敵に勝てるのか。勝てないのか。不安は心の底より際限なく湧き上がる。それでも、雪は浩一の笑顔を見ると、自然と勇気が湧いてくるのだ。

(浩一と一緒なら大丈夫……かなぁ?)

 その心ほど浩一の身体が頑健ならばもっとずっと安心ができるのに、という言葉だけは苦笑と共に心の内に飲み下した。


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