第5話
思いがけない弟との対面に、全身水浸しの俺は絶句した。こんな形で会うなんて、とか、ファーストコンタクトが吐いてる姿なんて恥ずかしい、とか。とにかく俺はパニックになっていた。石像のように動かない俺をどう捉えたかは知らないが、ジェイが「着替えを用意するから着いてきて。」と俺を手で招いた。
彼女に続いて扉を出る際すれ違ったエリックを覗き見ると、やはり彼はどこか遠いところを見ている。木漏れ日のようなグリーンの瞳が何を写しているのか、俺には分からない。
その様子からして恐らく俺の事を知らないんだろう。
は、と短く息をはいて、目の前のグレイヘアを追いかけた。
機構というので国会議事堂のような所を想像していたが、どちらかというとハリーポッターの世界にありそうな内装だった。扉は全てずっしりとした木製で、ドアノブは薄汚れた金色のもの。天使や母子が描かれたステンドグラスが多く飾られており、どこか神聖な雰囲気を醸し出していた。ここに入ってくる時に見た螺旋階段をのぼり、案内されたのは客室のような部屋だった。
くたびれた白いベッドと小さいテレビ、トイレと浴室が一緒になったシャワールームを見ると、アメリカのモーテルを思い浮かべた。浴室のドアを開けるとジェイに何かを投げられた。白のワイシャツと、ダークスーツ。
「それ、ここの制服だから。汚さないでね」
なるほど。こくりと頷いて浴室へと入った。
生暖かいシャワーを浴びてから受け取ったスーツを着る。誂えたのかと思うほどピッタリだったそれを着て鏡を見ると、スパイ映画の主人公になった気分だった。
1人でファッションショーをしていると、ガチャリと重い扉が開いてジェイが入ってきた。
俺を値踏みするようにじろりと見て、「Good.」と一言いう。
「ジェームズ・ボンドになった気分は?」
と問われたので、にやりと笑って応えた。
着替え終わってからジェイに自室に招かれた。いわく、「内密に話したいことがある」らしい。ジェイの細い手がドアノブにかけられ、古そうな木製の扉が音をたてて開く。彼女の自室だというそこは、まるでセレブ作家のような部屋だった。
部屋の中心には扉と同じ木製の机が、まるで主役のように佇んでいる。後ろには天井までぎっしり本が詰まった棚が2台、その傍には大小様々な瓶が中身も色々にサイドテーブルにのっかっている。高そうな絨毯の上を歩くことに若干の抵抗があったが、主である彼女が躊躇いもなく歩くのを見てようやく自分も動いた。
「どうぞ」とジェイにソファに座るように催促される。ノックの音がして、侍女のような人が入ってくる。ジェイと俺の前に温かい紅茶をいれると、静かに去っていった。
紅茶に口をつける。温かいアールグレイは冷えた体に十分な温もりをくれた。
「…では、本題に入ろうか。」
向かいに座ったジェイが、手を組みながらそう言った。その貫禄に気圧され、俺も座り直す。
「ケイ・タキザワ。先程も言った通り、君をここに招いたのは私だ。チャックに1ヶ月の間ヒースローを見張ってもらってね。」
「はい。……あの、どうして俺が来ることがわかって…?」
「…君のお父さんさ。頼まれたんだよ。『日本から俺の息子が来るから預かってくれ』って。」
父が彼女に頼んだ?眉を寄せて疑問の表情を向けると、ジェイはカップに口をつけた。
「ジョージは私の同僚さ。以前はここで働いていたんだ。だが、1ヶ月前に突然いなくなったのさ。…エリックを置いて。」
切なげにそう言うと、ジェイはカップの持ち手に指をなぞらせた。薄い唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…ジョージがいなくなったのと君に手紙が届いたのは同じ頃だろう。あいつはそういうことをする男だからな。」
「…なぜ父は、俺をイギリスにやったんでしょうか?」
「……多分、彼がいなくなったポストを、君に埋めて欲しいんだろう。エリックの相棒として。」
父のポスト、ということはここで働くことを示す。つまり父、ジョージは俺に、この英国超常現象機構で仕事をしろ、と言ったのか。
「…ひどい男だろ?自分勝手で、無責任な父親だ。だが、彼はこの仕事に人一倍熱意を傾けていたんだ。それこそ寝食を忘れるぐらいにな、ワーカホリックなんだよ。それが急に消えた。私達も困っていてね。」
そう言うとジェイは困ったように笑った。
「……どうして俺なんかに…」
なぜわざわざ日本にいる俺に押し付けたんだろう。現地の友人では駄目だったのだろうか。父親のあまりの自分勝手さに、なんだか暗い気持ちになった。
力なく項垂れる俺を見かねたのか、ジェイは俺の肩をぽんぽんとたたいた。
「まあ、これは君のことだ。私は無理にここで働け、とは言わない。そもそも超常現象のことも今日知ったばかりなんだから、無理もないさ。」
「……」
「…帰りたいなら、そうしなさい。君が決めることに、我々は一切干渉しないことを約束する。」
柔らかいトーンで話す彼女は、顔をあげた俺の頬に手を当てた。温かいその手の温度に、無性に泣きたくなった。
ジェイの部屋から出ると、チャックが扉の前に立っていた。相変わらずサラサラなブロンドヘアを一撫でし、俺の元へと歩いてくる。待っていてくれたのだろうか。
「あー、似合ってるな、それ」
チャックが俺のスーツを指さして言う。馬子にも衣装という感じだが、別に褒められて嫌な気にはならないので、「ありがとう」と返した。
「…ジェイは、なんて?」
その言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をした。素直に話した方がいいのかわからなかったが、この心配性な男には話しておいたほうがいい気がした。
「……俺の父さんが夜逃げしたから、その尻拭いをするかってさ。」
「父さんが夜逃げって…まさか、お前の親父って、ジョージ・トンプソンか?」
父のラストネームなんて知らなかったが、多分そうだろう。夜逃げした、ってだけで伝わることにますます気持ちが落ち込んだ。
「そう。父さんのこと、知ってるのか?」
「ああもちろん!ジェイの昔の相棒で、エリックの親父だろ?すごく優秀な調査官で本部でも有名だったんだ。」
そう言ってふと気づいたのか、「あれ、エリックって確か一人っ子じゃ……」とチャックが呟く。途端に顔を青くして慌て始めた。
「ちが、悪い!すまん!」と手を振り回して見事に慌てるチャックは、まるで大きなハムスターのように見えて思わず笑った。ひとしきり笑うと気分がスッキリした。チャックがこちらを不審気に睨んできたので、ごほんと咳払いをして向き直る。
「……そう、俺とエリックは腹違いの兄弟だ。」
経緯を話すと長くなりそうだったので、「とりあえずお茶でもしない?」と誘って俺たちは近くの喫茶店へと入った。
「……つまり、親父さんはお前にエリックとコンビを組んで欲しいってわけか」
アイスティーのストローをずずずっと啜りながらチャックが言った。俺は注文したショートケーキを咀嚼しながらこくこくと頷く。
「は〜、腹違いの兄弟ね〜……ジョージ、そんなことしなさそうだったけどなぁ」
「わからないだろ。いくら仕事バカだといえ、一夜を共にするとか、それぐらいあるかもしれないし。」
チャックは被りを振る。
「そうじゃなくて、ジョージには確かに愛する女性がいたんだよ。黒髪のアジアンビューティのさ。」
「……?」
どういうことだ?父が日本に来たということだろうか。それとも母より以前の女性関係のことか?
「だいぶ前にな、女性の留学生の失踪事件があったんだ。一人二人じゃない、かなりの人数が突然消えたんだ。しかもいなくなったのはみんなアジア系ばっかり。それで俺たちは、これが超常現象…怪異絡みの事件だとふんだんだ。」
「…その事件に父さんが関わってた?」
チャックが指を鳴らす。アイスティーを飲み干すとさらに続けた。
「ジョージはその日、日本人の女の子を保護してた。次に狙われる可能性が高いと思ったんだろうな。そしたらジョージの予想通り女ばっかり狙うアーヴァンクだった。奴はビーバーの姿をしていたから誰も怪しまなかったんだ。で、やってきたところを銀の銃弾でズドン!てワケ。」
指をピストルの形にして打つ真似をすると、チャックは恍惚とした表情になった。
「うちはあんまり荒っぽいことはしない主義でさ。当時も『話し合って解決』なんて無茶なことをしてた。だけどジョージは自分で銃と弾丸を用意して、危険な怪異と戦ってたんだ。…上はあんまりよく思ってなかったからしょっちゅう怒られてたけど。でもめちゃくちゃかっこよかったなぁ」
「……そんなことを」
まるで英雄譚のように語られたが、父はそんな危険なことをしていたのか。自分が抱いていた想像の父は、ガラガラと音をたてて崩れ落ちた。
「だけど助けた女の子はそりゃあもう、カンカンに怒ってた。『どうして銃を持つなんて危険なことをしているんだ』って。可愛い顔を真っ赤にしてさ。ジョージも面食らってた。まさか助けた相手に怒られるとは思いもしなかったからな」
その女性に同感だ。実弾を使わねばならないほど危険な相手と平然と戦えるのは、どう考えてもおかしいことだ。それは普通の人間には出来ないことなのだから。
「…でもジョージには、なんか響いたんだろうな。その日からその子に首ったけよ!毎日会いに行ってプレゼントなんかしたりしてさ。彼女も、最初の方はなんの反応もしなかったけど、そのうちほだされたのかジョージとデートしだした!結局彼女が日本へ帰るまで、ジョージはずっと一緒にいたな。指輪もあげてた気がする」
「…その人の名前は?」
「え〜っと、たしか、ミ……ミツ、ヨ?ミツコ?だったかな」
はっとして顔を上げる。チャックの記憶が正しくて、名前が「ミツコ」だとしたら間違いなくそれは母だ。
「じゃあ父さんは、母さんのことを…愛してたんだ。」
椅子の背もたれへぐっと体重をかける。いきずりなんかじゃなかった。ちゃんと父と母は、愛し合っていたのだ。それだけで十分だ。母がつけていた指輪は、父が彼女にあげたものだった。
「!お前のおふくろさんだったのか!?」というチャックの驚きの声を無視し、顔を手で覆う。はー、と安堵のため声が漏れる。
では、問題はエリックのほうだ。仮に父と母が愛し合い、母の帰国の関係で結婚はしていなくとも、2人は恋人関係であるはずだ。なのに今の2人はまるで逆だ。俺を板挟みにし、お互いに会わないようにしているように感じる。俺が生まれて20年近くの間に何があったんだろうか?
思案に耽っていると、チャックの携帯がなった。チャックが慌てて電話をとる。
「はい、……え、今いるけど……おいおいそれはさすがに無理だ。第一こいつは一般人だぞ!」
紅茶の残りを飲み終わると、チャックはため息を着きながら電話を終えていた。
「…ジェイが、お前に呪いをかけたやつの捜索に協力しろ、だと。現場にはお前しかいなかったから、術者の顔を覚えてるやつがいない。だから…」
「…術者なんて、検討もつかない。俺には多分わからない」
肩をすくめてそう返事するが、チャックは真剣な顔で見つめる。そのブルーの瞳には、不安と覚悟が込められていた。
「呪いをかけるのは、大抵人に触れるか目を見つめて声をかけたりしてからだ。つまりかなり長い間その人と接触しなければいけないんだ。…お前がここに来てから、そんな長時間話すやつはいたか?」
真剣な顔で話すチャックに押され、順番に出来事を思い出していく。空港へ行って、地下鉄に乗った。それからホテルにいってここへ……
(長い間話す…)
1番長く話したのは恐らくチャックだが、彼は調査官だからないだろう。彼以外なら………
「……空港の、入国審査官」
「…ヒースローのか?」
こくりと頷く。そうだ、入国審査が長いと悪名高いヒースローの空港で、あのスキンヘッドの入国審査官とは長い間話した。パスポートや入国カードの受け渡しもしてるから、何かよくないものに触れさせられても分からない。なかば確信めいた目付きでチャックの目を見る。
「…お前は、一般人だ。いくらジョージの息子だって言っても、こっちのことは素人だろ」
「わかってる」
今更巻き込まれても何も言わない。それに俺の不手際で皆に迷惑をかけてしまった。弟にさえ、助けられたのだから、その後始末は自分でやらなければならない。覚悟はとっくにできていた。チャックもそれを感じ取ったのか何も言わなかった。
「…ヒースローへ行こう」
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