第6話

チャックが大枚をはたいてタクシーを飛ばさせヒースローへ到着すると、エリックの姿があった。しかし彼一人だけだ。相変わらずどこを見ているかわからない胡乱げな瞳がこちらに気づく。チャックがエリックのもとへドタドタと走りよっていったので、それに着いていく。

「…君はいつから調査官に?」

影をはらんだグリーンの瞳が疑問を顕に向けられる。俺はさっき着替えさせられたスーツのままでいる。まるでチャックたちと同じような調査官に見える。完全な部外者なのに。

「そういうお前はなんでスーツじゃないんだ?」

チャックが反抗的に返す。そうだ、ずっとそう思っていた。チャックも俺も、「英国超常現象機構の制服」であるダークスーツを着ているのに、目の前の男はチェックのシャツにパーカーを着てダウンを羽織っている。何か入れているのか黒いショルダーバッグまでしており、極めてラフな格好だ。ただの学生のように見える。

「…僕は君と違って、本部直属じゃないんだ。地方所属に制服の強制はないよ。」

淡々となんの感情もないような声音で話す。そこには皮肉も自虐も込められてはいない。エリックと目が合う。夜の森のような瞳が、瞬きをしてゆっくりと開かれる。他人を見る目に、こいつが弟だとは思えなかった。


「…で、犯人は?」

チャックが痺れをきらしたように尋ねた。エリックの平坦な声が返事する。

「マクレーン監査は君たちに聞けと仰った。特に観光客の男のほうが、よく知っていると。」

「…つまり俺から情報をひきだせってことだな」

こくりと頷く。悪意のない皮肉なんて初めてだ。

「確か、…そうだな。スキンヘッドで目付きが鋭いやつだった。色黒だったけど顔立ちはスラブ系…かな?」

「色黒のスラブ系、スキンヘッド……」

エリックは顎に手を当てて、俺の言葉を反芻する。あたりをぐるりと見回して、ショルダーバッグから何かを取り出した。

「…鏡?」

彼が取り出したのは小さな手鏡だった。なんの装飾もされていないシンプルなもの。不思議に思う俺を置いて、チャックとエリックが話し始めた。

「じゃ、そいつは人間じゃないのか?」

「恐らく。彼が言った特徴に当てはまる入国審査官は、今のところいないそうだ。相手は呪いをかけた怪異そのものなんだろう。」

「それで鏡か……」

チャックは納得したようにうんうんと頷くが、話に入れない俺は何がなんだか全くわからない。

「ちょっと待てって、つまり、どういうことなんだ?」

エリックとチャックの顔を交互に見て会話になだれ込む。エリックは顔を顰めるとぼそぼそと説明してくれた。

「……君たちがここに来る前に、空港のスタッフ全員に聞き込みをしたんだ。だけど、全員が同じ時刻の記憶がないと言っていた。それが昨日の夜9時前後、君がここに到着したのも丁度それくらいだろう。」

「……じゃあ相手はスタッフの記憶を消して、どこかへ消えたってことか?」

「いや、この空港のスタッフの数は以前と同じ人数だけいた。ここ数年で人数の増減はあっても、昨日今日で退職したらすぐにバレるだろう。怪異はそんなに馬鹿じゃない。だから逃げた訳では無いと思う。」

「でもさっき、俺が見たやつはいなかったって……」

エリックが頷く。薄い唇が言葉を続けた。

「…君にかけられた呪いは『セイレーンの呪い』といって、進行すれば目覚められなくなるほど強力な呪いだ。だけどそれはセイレーン本人にしかかけられない。彼ら独自の技なんだ。」

「じゃあ、俺が会ったのはその、セイレーンってやつなのか……」

「うん。……セイレーンは伝承上では若くて美しい女性の姿をしていると言われているけれど、その多くは姿を変えることができる。でも、弱点がないわけじゃない。」

「……それがこの鏡なのか」

エリックの手に握られた手鏡を見つめる。チャックが首肯した。

「セイレーンは鏡に写すと、本当の姿を見せるという。これを持ってスタッフ全員を写し出せば、本物が見つかるだろうね。」



一通り話し終えると、エリックはチャックに手鏡を渡した。自分のショルダーバッグからもう1枚を取り出してチャックに向き合う。

「僕はスタッフを集めて確かめる。君たちは出入口を封鎖して、セイレーンが外に出ないようにしてくれ。」

その目には決意の色が宿っていた。すぐさまスタッフルームへ向かおうとする。

「ちょっと待てよ、もしかして、お前一人で化け物と対決するのか?」

走り出そうとしたエリックの腕を掴んで止める。振り向いた彼の顔には、なんだこいつ鬱陶しい、と書いてあった。

「……君にはそんなことさせられない。この場でやつと対決できるのは僕だけだ。」

「でも相手は神話にも出てくるようなやつだろ?俺みたいに呪いをかけられたらどうするんだ…」

「僕は呪いにかからない」

そうはっきりと言うエリックの瞳が一瞬陰った。顔を俯かせ、髪をゆるゆるとふると、俺の手を勢いよく振りほどいた。

「…とにかく2人は、ゲートの封鎖を。頼む。」

そう言うとエリックは今度こそ走り去った。

「……お前の弟、気むずかしいだろ?」

チャックが声をかける。それに答えることもせず、遠のいてゆくダークブラウンの弟を、黙って見ることしかできなかった。


とりあえずエリックの言う通りにしよう、と俺たちは利用客を追い出して全てのゲートを封鎖した。訳も話さずに突然「扉を封鎖してください」と言った俺たちを、警備員らは訝しげに見たが、チャックが胸につけたバッジを見せると快く手伝ってくれた。英国超常現象機構は、その胡散臭い名前とは逆に市民からの信頼は厚いらしい。

扉という扉を閉め、その両端に警備員を在中させると、チャックと俺はホールの真ん中に立ってエリックを待っていた。辺りにはひとは一人もいない。有名なファッションブランドのお店も、カフェテリアにも人がいないのが、なんだか不思議な光景だった。

「…あいつ、大丈夫かな」

思わず口をついて出た言葉に、チャックはにやりと笑って返した。

「大丈夫だって、なんせあいつは腕利きの調査官だぜ。しかもジョージの息子だ、怪異相手にも立ち向かえるさ」

「…あいつも、銀の銃で化け物を殺すのか?」

「もちろん、それがあいつにしか出来ないことだよ」

そう、と気もそぞろに返事した。チャックは、まるで正義をなしているように言っていたが、俺にはそうは思えない。どんな形であれ生きているものを殺すのは、良くない気がする。

はー、とため息をつくと、チャックが顔をのぞき込む。

「ん、なに?」

「…いやぁ、お前その格好だと俳優みたいだぜ」

「なんだそりゃ」

からからと笑うと、扉の方から警備員が歩いてきた。ブルネットの女性だった。

「すみません、トイレに行きたいのですが、席を外しても?」

そう聞かれて、どうぞと言う前にチャックが遮った。

「ダメダメ、あんたら警備員も怪しいんだから、勝手に一人でどっか行くのは駄目だ。エリックが戻ってくるまで我慢してくれよ。」

「…では、そちらの方に着いてきてもらえればいいでしょうか?」

そう言うと彼女は俺の方を指さして言った。

「彼が見張っててくれれば、…BPPSの調査官なのだから、それぐらいはいいでしょう?」

彼女が有無を言わさないように、にっこりと笑って言う。人好きのするような笑みだった。それに押されたのかチャックもじゃあ…と許可をした。彼女には悪いが、何かが起きても助けられないだろう。なんせ自分は調査官ではないのだから。

申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、スタスタと歩く彼女の後ろについて行く。

振り返ると、チャックが恨めしそうにこちらを睨みつけていた。


彼女についてトイレまで到着した。さすがにトイレに入ってまで見張ることはできないので、俺は出入口のそばに立って待っていた。

(……なんでこんなことになったんだろうな)

彼女を待ちながらぼうっと考える。軽い気持ちで弟に会いに来ただけなのに、自分は今化け物退治に協力している。まだ2日しか経ってないのに、体感時間はもっと長かった。少し伸びをしてリラックスしていると、彼女が個室から出てきた。

「ごめんなさいね、待たせちゃって」

そう言う彼女に首を振って否定すると、安心したように笑った。手を洗うために洗面器に手を差し出す。

(そういえばここにも鏡あるな)

手を洗う彼女の前には、大きな鏡があるはずだ。ふと何気なく思ったので、エリックの手間を省かせてやろうと体を傾けて鏡越しに彼女を見た。


そこに彼女は写っていなかった。いや、彼女がいるはずの場所には、骨と皮だけの化け物がいた。目があるはずの場所は陥没しており、深淵が広がるだけだ。手を洗っているはずなのに、水は骨だけの手を通り抜けている。口には魚のように小さい歯が、所狭しと並んでいた。

(……!)

思わず絶句する。どうしてこんな所にこいつが、いやそれよりもエリックはなんで気づかなかったんだ?


「気づいたのね、わざわざ誘ったかいがあったわ」

彼女に声をかけられる。気がつくと目の前にはさっきのブルネットの女がいる。だが俺にはもう、鏡に写った化け物にしか見えなかった。逃げようと思ったが足がすくんで動かない、情けないことに。

「呪いにかけられたのに、またここに来るなんて、本当に馬鹿ね、あなた。ルックスしか取り柄がないのかしら?」

嘲笑うように語る。彼女の白い手入れの行き届いた指が、俺の首に触れられる。上手く呼吸ができない。

「…まあ、そのルックスだから、私はアンタを選んだけどね」

舌なめずりをしながら彼女が笑う。真っ赤なルージュがどんどん色を変えて、しまいには浅黒い歯が現れていた。完全に彼女は、『セイレーン』と化していた。

「私が呪ったのは全て美しい男たちばかりよ、それもとびきりのね。呪って眠らせた後に、夢の中に迎えに行くのよ。みんな私の力で恐怖に震えてるから、魂を取り出すのはカンタン。」

そう言って俺の首に添えた骨と皮だけの手に、力が込められる。気道が圧迫されて、息が苦しくなった。それを見てなお化け物が続ける。

「美しい男の魂は、まさに極上よ…貴方のも、とっても美味しそうね」

セイレーンの顔が近づく。目が陥没してるから、どこを見ているのかわからない。だが時々さっきの女の姿になる。汗が次々と流れ落ちる。はっはっと浅い息を繰り返す俺を、まるで子どもを見るように『女』の顔で微笑んだすると急に眠気が襲ってきた。

(…また呪われて、…!)

意識すると瞼を開けるのも辛くなってきた。崩れ落ちそうになる膝を、無理やり意識で押さえつける。彼女が何かを話しているのも聞き取れない。

ここで彼女に食べられて死ぬのか、とぼんやり思った。エリックやチャックに、お礼もまともに言えてないのに。日本に置いてきた母さんにも、何も伝えられてない。それが心残りだった。

意識がなくなる一歩手前で、男の声が聞こえた。カッと眩い光が視界を覆う。セイレーンの叫び声が聞こえて、締められていた首が解放されたのがわかった。近くに走りよってきた人の気配を感じる。もう視界は真っ暗で目も開けられない。

ケイ、と名前を呼ばれて、俺は意識を手放した。



「…睡眠不足も解消し、特に呪いの後遺症もなく。完治おめでとう!」

Congratulation.と目の前のグレイヘアが美しい女性に言われて、笑っているのか微妙な顔をした。隣にはチャックが泣いたのか目を腫らして何事かを話していた。「心配したぞ」とか「一生起きないかと思った」とか言っている気がしたが、訛りがキツすぎて聞き取れなかった。でも気持ちは伝わったので素直にThanks、と返した。それから扉の傍に立つ弟にも「ありがとう」と言ったら、彼は変な顔をしてどこかへいった。


結局あの後、俺は半分呪われた状態だったが術者であるセイレーンが消滅したので悪夢は見ずにこんこんと眠っていたらしい。昨日も来た客室のベッドで寝かされる俺のそばで、チャックがわんわん泣いていたらしい。

(40のオッサンがすることじゃないだろ…)とそれを聞いた時には引いたが、その心遣いには本当に感謝している。そして俺の命の恩人である弟は、空港の後始末や俺の呪いの完全な解除をしてくれたらしく、ますます兄としての威厳を失った気がした。ただセイレーンがどこへ行ったのかは知らない。エリックが殺したのか、そうでないのかは知りたくなかった。


つい昨日目が覚めたばかりの俺は、どうやらセイレーンと対峙してから2日も眠っていたらしい。

だが人の心がない調査官であるチャックとエリックの報告書のための聴取と、ジェイの訪問で身をもまれ、ようやく今日落ち着いて過ごすことができた。ジェイの部屋に招かれて呪い専門の医者に診てもらい、太鼓判を押してもらったので、未だに男泣きするチャックをジェイに任せて、俺はエリックを探しに部屋を後にした。



見覚えのあるダークブラウンのつむじがこちらに向けられている。エリックはステンドグラスを眺めていたようだった。

「エリック」

と後ろから声をかけると、彼はゆっくりと振り向いて相変わらずの無表情でこちらを向いた。

「その、…ありがとうな。助けてくれて。」

「…日本人はお礼ばっかり言うのが趣味なの?」

平坦な声でそう言う。やはりそこには悪気も何もなく、ただ疑問を呈しているだけだとわかった。

「そうじゃなくて、ほんとに感謝してるんだ。お前のおかげで俺は助かったし、お前が間に合わなかったらきっと…」

「……」

エリックは黙って聞いている。それから頭をボリボリとかいて、ぽつぽつと話し始めた。

「…別に、あんたじゃなくても、助けた。だから、まぁ………気にしなくていいよ」

その目は斜め下の方を向いている。多分照れているのだろう。実の弟じゃなくても微笑ましい気持ちになった。

それから、と真剣な顔で向き直る。

「その、…もしかしたら、マクレーンさんから聞いているかもしれないけれど。俺がここに来たのには訳があるんだ。」

「…?」

突然の話にエリックの顔がぽかんとする。俺は唾を飲み込んで、深呼吸した。

「…実は、俺はお前の義理の兄で、父さんから言われて、お前に会いに来たんだ。その、こんな形になるとは、思ってなかったけど…」

エリックの眠たげな目が限界まで開かれる。口をぽかんと開けた顔はかなり間抜けだったが、それを笑う気分にはなれなかった。

徐々に、理解していくように元に戻っていくが、最後には項垂れてしまった。

「そう…」と一言だけ言ってから、すぐに押し黙ってしまう。

(…知らせない方が、良かったかな)

後悔してももう遅い、とは思ったが、言わない方が不誠実だとも思う。何より俺は、父さんに頼まれて来たのだから、目的を果たさない限りはどの道帰れなかった。

俯く彼を、どうしたものかと悩んでいると、後ろから「エリック!ケイ!」と声をかけられた。振り返るとジェイが小走りにやって来た。

「……マクレーン監査」

エリックはぼそりと言ってその場を離れようとするが、ジェイはむんず、とその腕を掴んで止めた。かなり力が入っているが、「貴方にも関係ある話しよ」と言ってすぐに離した。

ジェイは俺たちを並ばせてその前にたった。

「…エリック、ケイから話を聞いたかもだけど、彼は…」

「はい、聞きました。…父の、もう1人の息子さんですよね」

彼は、『僕の義理の兄』とは言わなかった。少し胸が痛かった。

「そう、聞いたんだね……エリック。君のお父さんは、彼に君の相棒になって欲しいらしい。なぜ彼なのかはわからないが…」

「……父が、僕を見放したんでしょう?だから彼を呼んで」

「そうとは限らないだろう。自分を卑下するな。」

ジェイが珍しく強い口調で言う。エリックは怒られた猫のようにしゅんとした。

はっと息を吐いてジェイは続ける。

「…うちは基本、本部直属の者以外は二人一組で活動するのが絶対だ。だから昨日君を派遣させたのも、本来なら違反行為となる。状況が状況だったから、仕方がなかったが。だがこれ以上単独で活動するのは、私はともかく上が黙ってないだろう。」

「……ですが、」

「君がお父さん以外と組みたくないのは分かる。君は根本的に我々を信用していないのだから。本部に来るのを渋るのも、そうだからだろう?」

そう言われてエリックはまた黙った。ジェイは髪を梳いて肩に流す。それから俺の方を向いた。

「……この前言った件だが、君はイギリスに来てから呪いを受けている。……君はすでに怪異に関わった。このまま何も知らなかった頃には戻れない。だから、君さえ良ければここで働いて欲しいんだ。」

「スカウト、ですか?」

「簡単に言うとね。怪異に関わったものは怪異に好かれやすくなる。要するに狙われやすくなるんだ。このまま日本に帰っても、日本の怪異に襲われたら厄介だろ?それなら自衛の術を学んでおいたほうがいいかと思ってね。」

「……」

「…これは君のためでもある。ただ、決断権は君にある。……ケイ、君が決めるんだ。」

ずるい言い方だ。こういうのに慣れている感じだ。エリックがこちらを見る。その目には困惑と不安がないまぜになっている。

ひと呼吸おく。もう覚悟は決まった。

「やります。」

分かっていたかのようにジェイが笑った。エリックはさっきの表情のままだ。またどこか遠くを見つめていた。

「じゃあ、手続きをこちらで進めておくよ。必要な書類を書く時はこちらに呼ぶから、それまではどこかへ滞在しておいてくれ」

「滞在って……すいません、俺あんまりお金持ってなくて…」

嘘ではなかった。そもそも一週間程度しか滞在しない予定だったのに、急に長居することになったので持ち金はそんなになかった。どこか安いホテルに住むしかないだろうか。

「……では、エリックの家に住まわせてもらいなさい」

「マクレーン監査、急にそれは」

「エリック。君がここ最近家にも帰っていないことは知っているぞ。たまには帰って休息を取りなさい。これは上官命令だ。」

「……分かりました」

エリックは渋々といった様子で頷いた。突然の話に俺も戸惑う。対するジェイはにこにこと満面の笑みだった。

「君らは仮にも兄弟なんだろう?家族水入らずで話して仲良くしなさい!」

エリックのほうを見る。同じタイミングで彼もこっちを見ていたので、不覚にも見つめ合う形になった。

「…よろしく、兄さん」

「………おう」


こうして俺たち兄弟の、共同生活が始まった。

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