第3話

規則的な揺れに身を任せ、夢への入口に船を漕ぐ。あともう少しで意識を手放せる、その一歩手前で激しく揺さぶられた。


「おい起きろ、そろそろ着くぞ」


隣から早口の英語が聞こえ、一瞬ここがどこ忘れかけたが、見覚えのあるブロンドと自分よりも老けた男の顔を見て思い出した。


(えっと…今は確かチャックと、エリザベスタワーに向かってるんだっけ…)


あまりの疲れで恐らく眠ってしまったのだろう。地下鉄の緩やかな振動が、遠く離れた母国のものを思い出させた。

ぼーっと考え込んでいると目の前で指を鳴らされた。


「Hey?大丈夫か?次で降りるから、準備しとけよ」


隣でチャックが心配そうに顔を覗きこんだ。この男がさっきは「ベビーシッターなんてごめんだ」と言ったのにも関わらず、まだ出会って間もない自分を心配してくれることになんだか気恥しくなる。「Yes,I'm OK.」と言うと、チャックはわかりやすく安堵の表情をもらした。結局彼は、根はいい人なんだろう。アナウンスが「Westminster」と言っているのが聞こえる。ここがエリザベスタワーの最寄り駅なんだろう。手持ちのトランクを握りしめポケットから切符を取り出す。


「そういえば、バートンさんはこの後どうするんですか?」

「チャックでいい。…そうだな、お前をジェイの元に送り届けたら、大人しく帰るさ」


さっきから何度も聞く、ジェイという人物は誰なのか。そもそもなぜ、自分なんかに会う必要があるのだろう。自分の中で謎はますます深まるばかりだった。ドアが開く。

「Mind the gap,please」


僅かばかりの人が降り、俺たちもそれに続く。改札をくぐり抜け、チャックについていく。行政の中心部であるウェストミンスター区は、地下道も入り組んでいる。目の前の彼に着いていくことだけが、この迷路をスムーズに抜ける方法だろう。


(…今更だけど、本当についていっていいのか…?)


イギリスは良い国だと聞くが、それでも犯罪がないわけではない。拉致誘拐や強盗だってあるだろう。特に、ここに来たばかりの外国人は格好の餌になる。なんだかんだ言ってチャックの人柄を信じてついては来たが、やはり「英国超常現象機構」という胡散臭い組織は信用しきれなかった。


「…信用出来ないか?」


少し前を歩くチャックが不敵に笑う。また表情に出ていたのだろうか。その笑みがおそらく自虐をはらんでいることに気づいたが、こればっかりはどうしようもない。出会ってすぐの人間を信用出来ないのは、多分普通のことだ。


「まあお前の言いたいことは分かるよ、ジェイも言ってた。お前が『こっちの世界』に馴染むのは時間がかかるだろうって。」

「…ジェイって人は、俺に何をさせたいんですか?」

「さあな、俺にもわからん。詳しくは本人に聞いてくれ。」


階段を上り、地上へと上がる。雨が降ったあとの湿った空気がまとわりつく。重いトランクを抱え階段を登りきると、夜のイギリスの光景が目に飛び込んできた。


(…イギリスに、来たんだ)


ほう、と息を漏らす。本来の予定と違う成り行きで来たとはいえ、生まれて初めて外国へ来た感動は計り知れないものだった。それはもう、旅の疲れも取れるぐらいには。

近くの通りには、乗っている人は少ないがあの二階建ての赤いバスが走っており、古びた橋が川を挟んでかかっている。いかにも「古き良き街」という雰囲気に年甲斐もなく興奮した。トントンとチャックに肩を叩かれ、振り返って親指でさす方を見る。


「これが目的の場所だぜ」


目の前には改修工事が行われている、大きな大時計の姿があった。実物で見るのと写真で見るのとは違うが、やはり荘厳な雰囲気を醸し出している。工事が終わるまで鐘を鳴らさないらしく、観光地としては少し残念だった。そう思うと途端に忘れたはずの疲れがどっときた。

項垂れている俺を置いて、チャックはスマホで電話をしだした。


「ああ、ジェイ。今着いたよ。……そうだな、もう遅いし俺も寝る時間だぜ……ベビーシッターか?もうこりごりだ、次からはもったマシな副業を当ててくれ、それじゃ。」


話終えると、チャックはずかずかと近づいてきて俺を見上げながら言った。


「ジェイが、夜も遅いし今夜は休めってさ。また明日出直してきてこいってよ。」

「じゃあわざわざ急ぐ意味無かったよな…」

「まあな、あいつは気まぐれなところもあるし。」


そう言うとチャックは再度スマホを取り出して何やらサイトを開いた。ポチポチと慣れた仕草で文字を打ち込む。検索すると、そこに現れたのはいかにも高級そうなホテルの予約画面だった。


(…!? チャックのやつ、ここに泊まるのか…?)


チャックに対する見方が180度変わるかもしれないことに慌てている俺の目の前に、「booking」の文字が現れる。


「ジェイからの『お詫び』だそうだ。ここからそんなに遠くないから、タクシーでも拾って休んどけよ。明日の朝10時に迎えに行くからそれまでに起きとけ、いいな?」


そう言うとチャックは下手くそなウィンクと不敵な笑みを浮かべた。

余りの驚きに意味が理解できなかった。訳が分からないまま突っ立っていると気がついた時にはモダンなタクシーに押し込められ、チャックが運転手に金を払い終わっていた。


「ちょっと、あんたはどうすんだよ!」


はっと我に返りそう叫ぶも、チャックが窓から顔を覗かせうるさそうに顔を顰めた。ちょうどドライバーもそんな顔をしている。


「俺には愛しのマイホームがあるんだよ、ガキ。ああ言い忘れてたが、お前の名前で予約してあるからな。あと金のことなら気にすんな、全額こっち持ちになってるから。まあせいぜい楽しめよ」


でも、と言葉を続ける前にタクシーのエンジンが唸る。ドライバーのおじさんは既にしびれをきらしていた。容赦なく発進する車体に揺らされながら、チャックの姿が見えなくなるまで手を振った。


疲れ切った体を押してやって来た俺を迎えたのは、ほぼ真上を見あげなければ全貌が見えないホテルをだった。ネットで名前を検索すると恐ろしい額の値段が書いてある。タクシーのおじさんには少し多めにチップを渡しておいた。


チャックに指定された通り自分の名前でチェックインすると、スイートルームと書かれたキーを渡される。自室に向かうエレベーターの中で、ディスプレイに表示される階が上がれば上がるほど、一緒に魂も昇っていきそうな気がした。


人生で1度も泊まったことがないような豪華な部屋に1人で取り残されると、緊張が取れたのか疲れが急に襲いかかってきた。照明を付けると、見たことも無い大きさのベッドが目に付いた。おそらくキングサイズのものだろう。上品なベージュのベッドシーツにブラウンのクッションが置いてある。その近くには小さなテーブルとリクライニングチェアが2つ並べられており、向かいには大型のテレビが居座っていた。広すぎる窓から覗くロンドンの街並みは、人工的なオレンジの光と古びた建物と夜のコントラストで美しく映えていた。


だが部屋を見るのにも体力がいる。自分にはもうその体力はほとんど残っていなかった。かろうじてシャワーを浴びる元気はあったのでいそいそとシャワールームへ入る。いつもより早くに上がり、トランクから適当なシャツを出し髪を乾かすのもなあなあにしてベッドへ潜ると、あまりの疲れにすぐに眠りにつけた。イギリスに来てからの、初めての休息であった。

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