第2話
飛行機の中で見た映画では、「イギリス人の多くは潔癖ではないがいつも手袋を持っている」と皮肉られていたが、空港に降りた時には持っていないことを後悔した。
10月のロンドンは日本よりも寒い。日本よりも少し北にあるだけなのに、体感温度はもっと差があった。裸の手を擦りながら周りを見渡す。見ると外では雨が降っていたのか、傘を片手に急ぐ人が多かった。
(…本当にイギリスに来たんだ)
母国から遠く離れた雨と紅茶の国にわざわざ12時間もかけて来る、その行動力に我ながら驚いた。
父から手紙が届いたその日、パートから帰ってきた母親と食卓を囲みながら、
「…イギリスに、行きたいんだけど」
と恐る恐る話題にした。向かいに座る母は俺が作った味噌汁を啜りながら、器用に片眉だけをはね上げさせた。お椀から口を離し、まるで奇妙なものを見るように俺を見る。
「どしたの、急に。珍しい。」
「えっ、ああ…別に。」
しどろもどろになりながら誤魔化す。「自分の義理の弟に会いたいから」なんて、口が裂けても言えない。
「その、気になってたんだ、海外旅行。バイトで稼いだ貯蓄も、そこそこあるし…」
「あんた、旅行なんて今まで興味なさそうだったのに」
ますますしどろもどろになる俺を、怪訝そうに見つめる視線が痛い。普段の行いがこれほどまでに裏目にでるなんて。
「…ま、たまにはいいんじゃないの?」
言い訳を捻り出している間に、全く予想もしていなかった台詞が飛び出す。突然のことにきょとん、としている俺を置いて彼女はすらすらと話し始めた。
「圭はいつも頑張ってるし、家のこともちゃんとしてくれてるでしょ?だから、たまにはいい息抜きになるんじゃない?」
母の美しい箸使いで、まだ温かい焼き鮭の身が解されていく。食事をほっぽり出して母の言葉を咀嚼する俺を見かねたのか、母は箸を俺に向けながら、
「もう、そこまで頑固なお母さんじゃないわよ。息子のたまの頼みくらい聞いてあげる。」
と言い放った。
「いやでも、その間母さん1人だし…」
「何言ってんの、働きながら家事ぐらいできるわよ。」
俺に向けた箸が、今度はつやつやと輝く白米へとのびる。許す、と遠回しに言われたのだ、と気づき、思わず顔を伏せた。母の飴色の瞳が緩く細められ、白い腕がのびたと思えば、俺の頭へと吸い込まれていく。
「…行ってきなさい、圭」
母の掛け値無しの優しさに、唇が弧を描くのを止められなかった。
入国審査が長いことで有名なヒースロー空港では、噂の通りかなりの時間がかかった。だが観光シーズンでなかったのか評判よりも人が少なかったこともあり、ネットで目にした口コミよりはマシだったろう。やたら目付きの鋭いスキンヘッドの入国審査官に「ここへは何しに」と聞かれたが、事前に考えていたように「観光」で押し通した。滞在のスケジュール等を示した紙を見せると、ようやく納得したように入国カードを渡された。そこに記入してやっとイギリスの入国スタンプが押されたパスポートを返してもらい、「Have a nice trip.」と彼なりの笑顔を向けられた。開放されたことにほっと一息つく。
荷物を受け取り入国審査場に背を向け、空港の案内所の前に立って、ポケットの中から父の手紙を取り出す。父の手紙には送り先である「London」としか書いていなかった。こんな少ない情報でどうしたらいいんだ。呆れながらため息をつく。
(…まあ、時間はあるし、明日からは観光でもするか)
半ば楽観的に考え、まずはとにかくホテルを探そうと歩き始めるとどこからか声をかけられた。
「Hey!One moment!」
声のした方を向くと、小太りのブロンドの男がこちらへと走ってきていた。どたどたと音が聞こえそうなほど必死に俺の目の前まで走ってくると、ブロンドは疲れたのか肩で息をしている。呼吸を整えるのを待っていると、落ち着いたのか汗を拭いこちらを見上げた。
「あ〜、ケイ・タキザワだろ?」
驚いて目を見張る俺に、てかてかとしたおでこを見せながら男が言う。俺のはるか下にある視線は、探し物を見つけたように輝いていた。
しかし、俺の方はそうはいかない。突然名前を言われたことで、目の前にいる男に対する不信感が一気に募った。少し長いブロンドを靡かせ、自信満々に高そうなダークスーツを着ている。靴はおそらくブランドものだろう。お役所仕事をしているのか、胸元には赤いバッジが着いている。小綺麗な印象のただの小太りの男だと思っていたが、不審者のような気もしてきた。
yesと答えるべきかそうでないか悩んでいると、ブロンドはそのサラサラの髪を梳き、後ろのポケットからスマートフォンを取り出して電話をかけはじめた。
「やあジェイ、彼が見つかったよ。空港を1ヶ月も見張るのは大変な仕事さ…オイオイ、俺の本職がいつからベビーシッターになったんだよ。クビになった記憶はないぜ。……副業なわけねーだろ、とにかく連れていくから、あとはお前がしろよ、ジェイ。」
早口でまくし立てるとブロンドは「ジェイ」との人物との会話を切り上げた。上手く聞き取れたか自信がなかったが、どうやら彼は俺を待っていたらしい。しかも1ヶ月。ブロンドはスマートフォンを戻すとこちらへ向き直り、ごほんと咳き込む。見るからに立派なスーツを(おそらくオーダーメイドだろう、彼のような体格にあうものは少ないはずだ)整えると胸元から名刺を取り出した。
「俺の名前はチャックだ。訳あってお前を待ってたんだよ。」
チャックと名乗った男が渡した名刺を見ると、「Chuck Barton」と書いてあった。
「チャック・バートン…」
名前を反芻してから、彼を見る。満足そうに胸を張る彼を見て、先程までの不信感は消え去った。いかにもアニメ映画に出てきそうなこの小男が悪人なわけがないだろうという気がした。どこの所属なのだろう、と思い名刺をもう一度眺めると「British Paranormal Phenomenon Organization」と書いてある。
「………英国超常現象機構?」
聞いたことの無い組織だ。しかも超常現象?先程までチャックに対して抱いていた不信感が、徐々に元に戻っていく。
「いかにも怪しんでいます」という顔をしていたのか、静かだったチャックが慌てだした。
「違う違う、怪しいやつじゃないって!れっきとした政府公認の組織だ!」
腕を思いっきり振って否定するところを見ると、多分本当なんだろう。それが演技だったらアカデミー賞の主演男優賞ものだ。
(……信用していいの、か?)
なおも怪訝な顔をする俺を見かねたのか、チャックは咳払いすると、
「…俺たちの組織はな、信じられないだろうが超常現象を調査するためにつくられたんだ。」
と言った。
「超常現象って…ドラマじゃないんですから、そんなの……」
「あるんだよ。」
チャックの目は真剣そのものだった。思わず気圧される。
「…この国が何で有名か、知ってるか?紅茶と雨と、ゴーストさ。国民の半分近くが幽霊話を信じてるんだぜ。日本にもあるだろ、そういう話。」
「ありますけど…そんなの噂程度ですよ?」
「何も無いとこから煙がたつか?事実か嘘かどうであれ、本当にそういうものがいないなら、怪談がこの世から消えるぜ。」
思わぬ形で丸め込まれてしまい、押し黙る。そう言われたら確かにそうだろう。
「じゃあ、本当に」
「いるぜ。幽霊も、吸血鬼も狼男も、魔女もいる。」
少なくとも俺は見たことある、と付け加えられて、肝が冷えた。完全に信じた訳では無い。が、彼の真剣な様子を見ると、全てが嘘というわけではないようだった。
「とにかく、詳しいことはあっちで話すから着いてこい。」
乱暴にそう言い放つと、チャックはそのブロンドを靡かせながらすたすたと歩き始めた。
思わず彼を追いかける。横に並んだところで彼に尋ねた。
「あ、あっちってどこなんですか」
「エリザベスタワーさ」
「…エリザベスタワーは確か、改修工事中じゃ…」
「おいおい言葉通り受け取るなよ、俺たちが行くのはエリザベスタワーじゃなくてその近くさ。」
「はあ」
そういうとチャックは、ふんと鼻を鳴らし、さらにペースをあげた。彼の歩くスピードがいくら早くなってもすぐに追いついてしまうことに、申し訳ない気持ちになった。チャックの迷いない歩みを見ると、どうやら地下鉄へと向かっているらしい。
「換金したよな」
「あ、ああ。もちろん」
「じゃあ切符を買って、14分発に乗るぞ」
「今から!?」
チャックはさも当たり前のように言うが、今は夜の9時である。辺りはもう真っ暗になっていた。しかも12時間のフライトのあと、全くと言っていいほど休息をとっていないため、すでに時差ボケの予兆がでていた。
「悪いが、ジェイにお前を預けるまでが俺の仕事なんだ。ベビーシッターは勤労時間を守って早く帰らなきゃいけねーんだ、大人しく着いてこい。」
小柄な体に見合わない鋭い目付きで睨まれる。有無を言わさないその態度に気圧され、大人しくついて行くことにした。もはややむを得ない。今日何度目かのため息をついて、買いたての切符で改札を通った。
楽しい観光だったはずが、訳の分からないことばかり起きている。気を緩めると眠ってしまいそうになる頭をゆるゆると振り、目の前のブロンドの男の背中を追いかけながら、異国の地でのこれからのことに思いを馳せた。
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