The Beautiful Journey

ヤマアラシ

A cat may look at a king.

第1話

「母さん、誕生日おめでとう」

そう言いながら、母にプレゼントを渡す。大人っぽい紺色の包装紙と、少し派手な紫のラインが入ったダークブルーのリボンで美しく包まれた袋が、ゆっくりと開けられる。


その手つきがまるで小さな生き物にするような、慈愛に満ちた触れ方だったので、なんとなく緊張した。母の細い手で開けられた袋の中には、こじんまりとした黒い箱が入っている。宝箱を見つけた子どものような瞳が、一瞬こちらをいたずらっぽく見つめた。ゆっくり、ゆっくりと箱が開けられる。


母の飴色の瞳が、いつもよりさらに大きく見開かれた。中には、小さなジルコニウムのネックレスが、人魚姫のように慎ましやかに眠っていた。

「圭…これ、まさか自分で買ったの?」

母が、口元に手を当てて震える声を誤魔化そうとしていたが、あまり意味はなかった。

その仕草が、母にしては幼すぎるような気がして、思わず俺は息をついた。

「うん、自分でバイトして、稼いだ分で…」

言うのは恥ずかしくなって、頭をかく。なんだこれ。たかが誕生日プレゼントを渡すだけなのに、人生でも珍しいくらい緊張している。ゆるゆるとかぶりをふって、真っ直ぐに母を見つめる。


「母さん、俺、大学卒業したら、大学院に行かないで就職するよ。ちょっとでも母さんの助けになりたいんだ。」


特別改めて言うことではなかっただろうが、それでも言いたかった。母は、父が家を去ってからずっと俺を女手一つで育ててくれたのだから、精一杯感謝を伝えたかった。それを聞いて母が驚いたように顔を上げる。

「圭、いいの?研究室の先輩が、教授に掛け合ってくれるって…」

「いいよ、あんまり研究に興味なかったし。」

正直に言うと、退屈だった。思っていたのと違う環境に二年も放り込まれ、すでに神経は摩耗していた。大した希望もないまま大学院で過ごすより、社会へでて役に立つ方がよっぽどマシだと思えるほどには。


でも、と食い下がる母を遮るように抱きしめた。こんなことするの何年ぶりだろう。幼な子のような行動に、ちょっとだけ恥ずかしくなって後悔した。

「…今まで、母さんに迷惑ばっかりかけたんだ。これぐらい、いいだろ。」

腕の中で、自分より小さな体がもぞもぞと動いた。細い腕が背中へまわる。宥めるように背中をさすられると、ふいに目頭が熱くなった。


「…ほんとにありがと、圭…あんたは、お母さんの誇りだよ。」


小さな声でそう呟いた後、母は勢いよく離れ、

「さ、ご飯が冷めちゃうよ!早く食べようか。」

ず、と鼻を鳴らしながらキッチンへと向かった。その後ろ姿を見ると口元が緩んだ。気を緩めると綻んでしまう口を慌てて閉じると、ふいに父親のことを考えた。


今年も父は、母の誕生日を祝いには来なかった。


父親というものを、よく知らなかった。それはそうだ、なぜなら自分の一番古い記憶にすら父の存在がないのだから。母に尋ねても、あまりいい顔はされなかった。それどころか、俺が父について聞くことを嫌がっているような素振りをする。そんな状況では、自分の元妻と息子の誕生日にすら、電話どころかメッセージカードも送ってこない父親のことなど、知ろうとすら思えなかった。


ただ、母のもとにはいつも手紙が送られてくる。毎年毎年、新年のときには必ず、イギリスから無記名のものが届く。俺の中ではそれが自分の、見たことも無い父親からのものだと勝手に断定されているが、真実は分からない。彼女のことを考えると、知らない方がいい気がした。


それに、ふと思い立って父のことを尋ねたときの母の顔がどことなく苦しみを堪えているような気がして、止めようと思った。

(…母さんのあんな顔、見たくもないしな)

目の前でころころと変わる表情を見ながら、ぼんやりとそう考えていた。母が作ったタンドリーチキンは、相変わらず味が濃かった。


母の誕生日パーティをしてから一週間がたった。いつもの通り大学での講義が終わり、レポートも早めに完成させることが出来たので、真っ直ぐに家に帰った。

住宅地の端の方の、ベージュの小さな我が家の鍵を開け、郵便受けを覗く。いつもは広告や不動産のペーパーが少し入っているだけだが、今日は違う。

毎年になると見る、あの手紙が入っている。


(…まだ9月なのに)


早すぎる。取り出してみると、いつもより4ヶ月も早い謎のエアメールには、やはり「London」「United Kingdom」と記されている。しかも変わったことに、この手紙の宛名は母の名前である「Mitsuko」ではなく「Key」になっているのだ。つまり、俺宛のものになる。

(なんで俺の名前が……)

疑問に思いながらとにかく部屋で開けようと思い、急いで家へ入った。


母がパートでいないので、べつにコソコソする必要はないのだが、なんとなく後ろめたい気持ちになったので自室で開けることにした。レターオープナーでゆっくりと開ける。

中には質素な白い手紙と、2枚の写真が入っているようだった。手紙を開く。丁寧な筆致の英語で書かれている。送り主はイギリス人のようだ。


『君にこうして手紙を送ることは、おそらくないだろうと思っていた。私にはそういう、父親としての資格などないのだから。だが、どうしても君でなければならない頼み事がある。この写真の男に会って、そして彼の仕事を手伝ってほしい。彼はとても困っていて、私の代わりに相棒が必要なんだ。その男の名前はエリック・キャンベルと言って、私の息子にあたる。つまり、君の義理の弟だ。よろしく頼む。

ジョージ』


慎重に読み進めていくと、とんでもないことが書かれているではないか。情報が多すぎて、脳みそが沸騰しそうだった。

落ち着いて深呼吸をひとつする。整理すると、俺の父親はジョージという名前のイギリス人で、彼にはあろうことかもう1人の息子がいて、日本にいる俺にわざわざイギリスへ向かって手伝えと言う。いくらなんでも無茶苦茶ではないか?そもそもエリックという男がどんな人物かも分からないのに、急に弟だ、と紹介されても…。


(そういえば、写真が入ってるって)


そう思い出して、便箋の中から写真を取り出した。1枚には、夜の街に大きな時計台が浮かび上がっているような幻想的な写真だった。ビッグ・ベンではなさそうだったが、それでも十分な大きさのものだろうと推測できる。


もう1枚には、人物が映っていた。ダークブラウンのボサボサの髪にヘーゼルグリーンのタレ目が特徴的な青年だった。いや、青年と呼べるかギリギリな印象を受ける。もしかしたらまだティーンなのかもしれない。着ている服装は明らかに大人のものだが、どことなく幼さを感じさせた。


(こいつが、俺の弟…)


実感は湧かなかった。ついさっき弟だと分かった赤の他人など、急には認識できない。当たり前のことだ。しかし、今まで一人っ子だったので弟が急にできたことに喜びも感じていた。そんな困惑と歓喜を綯い交ぜにした心情に戸惑ったが、この先どうするかを考えると気が重くなった。


(父さんは、イギリスに行けと言うけど)


だが急に言われてもすぐには行けない。しがない学生には金がなく、まして忙しいのである。俺は留学体験もホームステイもしたことはないし、英語は読めても話せるかは別だ。しかし、血の繋がった弟に会いたい気持ちもある。俺の心情は複雑だった。


(…母さんを置いては行けないよな)


母のことを考えると気が咎めた。母は、俺と違って父の記憶がある。正直に話すにしても、自分の知らないところで父が別の女性を愛していたことを知れば、少なからずショックを受けるだろうし、何より俺が日本から離れている間は彼女は1人になる。しかし好奇心はますます膨れ上がるばかりだった。もはや行かないという選択肢は、ないような気がしてきた。金は、貯金をかき集めれば、少しの間滞在することが可能な分があるだろう。


では、問題は残り一つである。

正直に話すか、隠しておくか。母からの信頼を天秤にかける行為に少なからず罪悪感が伴ったが、どうしてもイギリスへ行きたかった。いや、あのエリックという男に会いに行きたいのだ。自分と同じヘーゼルグリーンの瞳を持つ、血をわけたあの野暮ったい青年に。

そう認めると、気が楽になった。


(……イギリスへ行こう)


そう決意すると、銀行の預金手帳を探しに向かった。足取りは軽かった。

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