第五話『天孫東子』

 聖玉学園の校舎を出ると、もう空の色は深い紺色に染まっていた。いかな魔鉄器時代とはいえ、東京の明かりの強さは改善しない。見上げても、星の瞬きはそれほどはっきりとは見えなかった。これが数十年前までは工業煙で余計に隠されていたというのだから、一応文明開化の効果はあったのだろう。

 最早過去の話となった、そんな時代に想いを馳せながら、天孫東子は小さな靴のかかとを鳴らす。応えるようにかつかつと響く舗装タイルの音。齢十五の己は、本物のタイルの音をほとんど知らない。だから魔鉄が擬態したこの床と、かつてこの街を蓋っていたものが、どの程度違う音を立てるのか……それは想像の域を出ないものだ。

 

 要するに。

 見上げる空の色も、昔と今で違うのかは、正直な話分からないのである。

 東子がこの空に思うことは多くはない。しいて挙げるなら、最初に雄二と逢ったときも、こんな時間だったかな、と、記憶の引き出しを開けるくらい。


 もう、十年以上も前になる。最初はまだ自分の方が背が高かったのに、見る見るうちに追い抜かれてしまった。それは十一歳の冬、東子の外見年齢が変わらなくなるよりもずっと前。雄二は自分の背がそんなに高くないことを気にしているらしいけれど、東子からしたら彼だってずっとずっと大きいのだ。


 そう、大きい。

 隣を……厳密には半歩ほど前を歩く雄二の背中は、初めて逢ったときよりずっとずっと大きくなった。あの頃の彼は、自分の身長なんて意識することもなかったのだろうから、知っているのは自分だけ。秘密を独り占めにしている見たいで、ちょっとだけ楽しい。

 

 同時に、ちくりと胸の奥が痛む。正体は一抹の、それこそほんのひと摘まみ、そのくらいに僅かな寂しさだ。神凪雄二はすぐ隣にいるはずなのに、何故か彼が、自分を置いて先に行ってしまっているような……そんな錯覚を覚えてしまう。

 魔女体質の女性に特有の感覚なのだと、昔聞いたことがある。魔女は思春期の途上で成長が止まるから、周りとの差を意識しやすい。些細なことで、「取り残されているような孤独感」を味わうのだ、と。


 魔女の寿命は、普通人のそれよりも長い。一般的には、平均して百二十年は生きると言われている。寿命が長い生き物は、短い生き物と比べて時を感じる速度が違うらしい。

 時折、不安になる。今は揃っているこの歩調が、ある時を境に、急に違って見えてしまうのではないか、と。

 雄二は自分を置いて、どこか遠いところへ、先に行ってしまうのでは――。


 ふと、雄二の脚がとまる。彼はそっとこちらを振り向き、東子が真横に並ぶのを少しだけ待つ。気が付かないうちに、あ、と声が出た。見透かされた? まさか。この鈍感・朴念仁・唐変木と凡そ考え付く限りの類縁語を投げつけてもまだたりないような奴に、そんな気が利くとは思えない。

 多分、ただの偶然。あるいは戦闘者としての若干使い処が限られる直感だ。戦いの間であれば、雄二も東子も、相手の考えていること、相手に願うことが手に取るように分かる。以心伝心、とはまさにああいう状態をいうのだろう。

 

 とはいえ、今は違う。雄二はただの鈍感野郎で、東子は素直な気持ちを言えない臆病者だ。当然口に出したわけではないし、雄二が東子の内心を読み取って、歩く速度を合わせてくれたわけでは決してない。


 ……そんなことだから。なんだか、雄二の気遣いが余計に嬉しくて。

 ちょっと不自然かな、と自分でも思うタイミングで、小さな笑みをこぼしてしまった。


「どうした?」

「……なんでもない。さっさと歩きなさい、馬鹿雄二」

「何も言ってないのに罵倒が返ってくるのは流石に酷くない?」


 照れ隠しよ、と素直に言えないのはご愛敬。いぶかし気に首をかしげる雄二を置いて、東子はずんずん皇国道の先を行く。あっ、おい待てよ! と焦った声が後ろから。やーよ、と、わざと意地悪な返事をして、東子はまた、足を進める速度を上げる。


 舗装の種別が変わってきた。元々の材質は同じ魔鉄のはずなのに、擬態に合わせて馬鹿正直に、踵は違う音を奏でていく。

 街灯の装飾や、立ち並ぶ家々も、鉄暦中期……十九世紀から二十世紀を思わす、所謂「モダン」というやつに姿を変えていく。ざっと計算すれば三百年近く前のはずなのに現代的モダニックとは中々洒落た名前だな、と常々思う。建築用語というのは不思議なものだ。


 聖玉区の中央、学園都市から少し外れた場所にあるこの一帯を、一部の人は『貴族街』と呼称した。名前に違わず、建築物はどれも『屋敷』と言っていい、豪奢でずんぐりした造りをしていた。いかに皇国貴族が特権階級としての立場を殆ど持っておらず、せいぜいが由緒ある家、大金持ち程度の意味へと変貌した時代だといえども、その住まいにはこれくらいの風格は求められるだろう。


 だが、本当の意味は別にある。より正確に言うならば、このエリアに住んでいたのは、皇国貴族とは別の『貴族』だったのだ。そして実際、十年ほど前までは、ここにその『貴族』たちが住んでいた。


 ――統一貴族グロリアス、と、人は呼ぶ。

 その名が暗に示す通り、彼らはこの国、日本皇国古来の貴族階級ではなく、外部の存在から位を与えられた、特別な存在だ。

 そして『統一』の称号を冠するならば、その大本は必然的に、一つの勢力へと限定される。


 ラバルナ帝国。

 全世界を手中に収めた空前絶後の大超国家ドミニオンは、「この星そのもの」という余りにも広大な領域を支配するため、傘下の国家たちには自治を認めていた。そもそもの話、超国家という体制をとった理由自体が、下した勢力をそのままの形で取り込むためだったから、とも推測されていると、以前ルートヴィーゲから聞いた覚えがある。

 

 だが、いくら自治を認めるとはいえ、全く中央政府と連携がとれないのでは困る。そこでラバルナ帝国の統治者――『皇帝ラバルナ』は、直属の家臣たちや、現地の有力者を貴族と言うかたちで冊封し、支配領域内の安定を図ったのだという。


 それが統一貴族。

 前人未到の統一超国家ワールドエンド・ドミニオンが地球全土に放った、その王権の証明にして象徴。


 今でも統一貴族、あるいはその血を継ぐものは時折姿を見せる。フランス・エリアの統一貴族だったオリヴィア・グロリアーナ・フランクスなどは未だにパリに居を構えていようだし、東欧には自治領域を持った統一貴族がいると聞く。


 彼らの存在は貴重だ。ラバルナ帝国に継いで世界を支配せんとする勢力が睨みあう魔鉄暦三〇年の今、もしも統一貴族の支持を得られれば、それはそのまま『支配権』を獲得したことと等しくなる。逆にラバルナの血筋を好ましく思わない者からすれば、統一貴族は抹殺対象だ。厄介な勢力から命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされる貴族の話を小耳にはさんだこともある。


 ――それを聞いてると、少し、ほんの少しだけど、不安を覚えてしまう。

 自分が隣にいるせいで、雄二がいつか……そういう、世界の悪意を相手にした、壮絶な争いに巻き込まれてしまうのではないか、と。

 雄二と東子は、殆ど海外の製鉄師と切り結んだことがない。ルートヴィーゲも言っていたが、ガルム・ヴァナルガンドと戦うには不十分に過ぎるほど、強力な海外勢との戦闘経験が不足しているのだ。


 そんな状態で、本気で世界を獲ろうとしている勢力と戦う場面を想像してみるがいい。どれだけ東子が雄二のことを信じていても、彼がこの国はおろか、全世界で見ても最強クラスの製鉄師に成長する可能性を秘めていると知っていても、それでも――いまだ、勝利の未来が欠片も見えない。

 

 何故、そんな心配をしているのかと問われれば……答えは明白だ。

 そもそも帰路についているはずの自分が、『貴族街』に足を向けている時点で、理由なんて一つしかない。


 視線の先に、巨大な邸宅が見えてきた。少し古びた外観のそれは、果たしてこの国で最も古い魔鉄建築の一つだ。かつて日本皇国がラバルナ帝国の傘下にあった際、あの屋敷に、この国に派遣された統一貴族の一家が住んでいた。


 そして今は、東子の自宅でもある。


 ――


 厳密には、東子の母親が統一貴族の血を引いていた。ラバルナ帝国の統治時代、六皇爵家のとして名を連ねたグロリアス・ジパング、その最後の娘が、東子の母親にして、先代天孫の妻だった。

 今はもう、彼女はこの世には亡く、東子自身、統一貴族としての地位は欠片も持っていないが……この体を狙って何かしらの刺客が放たれる可能性は、全くのゼロではない。


 そんなとき、自分は雄二とどう行動するべきなんだろう、と、時たま考え込んでしまう。

 勝ち目のない戦いに立ち向かう?

 手を執り合って、終わりのない逃避行に身を投げる?

 それとも――あなただけでも逃げてほしいと、そう叫ぶ?

 どれも嫌だ。雄二には生きていてほしいし、可能な限り、自分もその隣で一緒に生きていきたい。……その、できれば、一生。


 けれどきっと、本当にそういう戦いが起こったときには、どれかを選ばなくちゃいけない。雄二に生きて、安全に過ごしてもらうためには、きっとどれかを――。

 

「……ここまで、だな」


 はっ、と、彼の声で思考が途切れる。いつの間にか、厳かなつくりの門構えの前にいた。知らないうちに到着していたようである。

 自分が上の空でも、転ぶことなく辿りつけたのは、雄二が細かく気を配っていてくれたおかげだろう。この男、鈍感なくせにこういうところばかりはやたらと器用なのだ。


「……ありがと」

「おう」


 一応、お礼を言っておく。短い答えが返ってきた。こういう短いやりとりで意思が伝わると、どうしてかいつもより嬉しくなる。


「じゃぁ俺、帰るな。玄関まで気を付けていけよ」

「最後まで送りなさいよ」

「えっ、それはちょっと……貧乏人には建物の重圧が厳しいというかなんというかですね……」

「別に入ったことないわけじゃないでしょ」

「馬っ鹿お前、変になんか触って壊したら弁償できねぇから怖えんだよ分かれよ」


 これだから金持ちは……などと口にしながらも、雄二は結局その場を離れようとしない。うん、素直でよろしい。


 ぎぃ、と錆の浮いた――ように魔鉄が姿を変えた――門を押し込む。流石に重くて、東子の身長では開けにくい。見かねて雄二がさっと位置を変わってくれた。何も言わないあたりが、こいつらしいというか……駄目だ、変なことを考えていたせいなのか、今日は雄二のことをいつもよりも意識してしまう。


 門の閂を倒してから、広大な敷地を歩いて行く。玄関までの距離が、長いような短いような。何か雄二と話がしたい、と思っていたのに、結局何も言葉を交わせなかった。


「今度こそここまでな」

「ん」


 返答は一言だけ。すると東子の銀色の頭に、ぽすん、と雄二の手が置かれた。そのままゆっくり、彼は東子を撫でていく。どうやら自分がへそを曲げていると勘違いしたらしい。

 ……気持ちがいいので、このままにしておく。大昔の少女漫画で見て以来気に入っている、この「自分の落ち着かせ方」。どういうわけか癖になってしまって、雄二が平謝りしてくるたびに要求してしまう。


 聞くところによれば、人間の体の中で一番『触れていると安心する』のは手、とくに掌なのだという。触れ合った面からじんわり伝わる温かさが、不思議と心臓の鼓動を早くした。


「じゃぁ、また明日。お疲れ」


 そっと掌が離される。静電気のせいで僅かにくっついた髪の毛が、名残惜しさの証明みたいで、思わず声を上げてしまう。


「雄二、待って……!」 

「ん?」

「……あ」


 ……話が、続かない。

 なんだろう、なんでだろう。

 いつもならこのまま雄二を帰してしまうのに。呼び止めたとしても、どうでもいい軽口の一つか二つで、場を持たせることができるのに。


 今日の自分はなんだかおかしい。

 珍しい相手との戦闘を控えて、知らない所で考え込み過ぎているのかもしれないし……もしかしたらルートヴィーゲに、変な勘違いをされたことが尾を引いているのかもしれない。


「どうしたんだよ。真っ赤だぞ」

「え、っと……」


 細い声が漏れる。雄二の黒い瞳がすぐ近くにあった。彼はぴくりと眉を震わせると、長めの前髪の下、目つきのわるいその顔を歪ませて、東子の額に手をあててくる。


「まさかお前、熱でもあるんじゃないだろうな!? 魔女は風邪ひきにくいけど引いたらおおごとになるって言ったのお前だぞ」

「そう、じゃなくて……っ!」

「じゃぁなんだよ」

「う、ぅぁ……」


 ちょっと乱暴な問いかけが、本気の心配からくるものなのだと分かってしまって。その衝撃に、脳がオーバーフローを起こそうとしていた。

 どうしよう。というかどうしたんだろう。本当に自分の状態が分からない。前後不覚というかなんというか、雄二になんと言葉を返せばいいのか分からない。

 そもそも自分がどうして彼を引き留めたのかも理解できていないのに、この状況に答えを出す方が無理……!


 いよいよ本格的に、東子の思考がパンクし始める。ぷしゅー、という音さえ聞こえてきそうなほど。


 そのときだった。


「まったく、お嬢様は本当に奥手ですね。『今夜は一緒にいたいから泊っていきなさい。ついでにあんなことやこんなことも済ませて行ってよね、だ・ん・な・さ・ま♡』くらい言ってしまえばよろしいでしょうに」

「――ッ!」


 くすくすくす、と、幽かな笑い声が耳に届いた。それは例えるならば、山肌に伸びた桜の木の先、蕾がふわりとほころぶような、そういう微笑の声。

  

 反射的に、びくりと肩が震える。そんな馬鹿な。何故こいつの声がするのだ。家の中にいると思っていたのに。

 今外に出てきた? いいや、後ろの扉は閉まったままだ。ということは、最初からずっと外で自分が帰ってくるのを待っていた……?


 信じがたいことだが、しかしそれ以外には考えられない。

 なにせ――この世に、自分を『お嬢様』と呼ぶ人間は、『彼女』一人をおいて他にはいないのだから。


「そんな為体ていたらくでは、わたくしの方が先に雄二様のハートを手に入れてしまいますよ?」


 宵闇の中から、目の覚めるようなホワイトブロンドが現れた。ポニーテールに纏められたその髪を、鎖のようなアクセサリーで纏めたその人物は、見た目十九歳かそこいらの少女。けれども彼女は、もっとずっと長い時間、東子、ひいては天孫家に仕えてきた人物なのだ。少なくとも東子が物心ついたときからこの外見なのだが、理由は全く分からない。少なくとも魔女ではないことだけは確かなのだが……。


 腹立たしいほどにスタイルのいいその体を、雄二に言わせれば「異常に上質」な女中服で包み、上からまっしろいフリル付きエプロンを纏った彼女は、妖精みたいな光を宿した瞳をそっと細めた。


「括理……!」

「お帰りなさいませ、お嬢様。お風呂の用意はできておりますよ」


 彼女の名前は白峰しらみね括理くくり。天孫家直属の女中メイド隊、その長たるメイド長であり、現天孫にして東子の兄、天孫青仁の秘書代わりであり、そして――

 

 ――東子の身の回りの世話を担当する、専属女中でもある。


 東子はこのメイドがどうにも苦手だ。嫌い、というのとはちょっと違う。感謝はしてるし、話していると落ち着く。大切にも思っている。

 でもなんというか……こう、トリックスターというか、場を引っ掻き回す性質があるというか……とにかく括理が関わると、いろんなことがややこしくなるのだ。今みたいに混乱している状況で出てきてほしくない。本格的に。


 それからもう一つ、東子には、己の専属女中が気に入らない理由があって。


「ご機嫌麗しゅうございます、雄二様。本日もお嬢様を無事送り届けてくださったこと、心より感謝申し上げます」


 すっと伸びた背筋、この国で最も格式高い家に勤める者としてこれ以上ないほどの丁寧な所作。括理はそれだけで目の保養となるような恐ろしく綺麗な動きで、雄二に向かって一礼をする。東子も一応は貴族の端くれとして、こういう作法は学んではいるのだが……よっぽどこいつの方が貴族だと思う。


「っす。白峰さんもお疲れ様です」


 雄二も呑まれて、彼にしては珍しい敬語の応答を返していた。


 そのぎこちない返答に、括理はふふっ、と優しく笑う。

 ――それから、驚くほど淫靡な微笑みを、そっと浮かべた。


「もう。私の事は遠慮せず『括理』と呼んでくれ、と申し上げていますのに……ああ、私が雄二様、と呼ぶからいけないのですね? ではこうすればよろしいでしょうか、だ・ん・な・さ・ま?」


 これがもう一つ、東子が括理の事を苦手とする理由。

 

 白峰括理は、神凪雄二を異性として狙っているのである。

 冗談なのか本気なのか、彼女の捉えどころのない言動からは全く想定のしようがないのだが、少なくとも彼女が雄二をからかって愉しんでいることだけは確かである。


「う、ぉ……」


 雄二の方も雄二の方で、括理のようなタイプの女性とは縁がない。呆けたような顔をして、一歩、二歩と後退していく。


「……何デレデレしてんのよ」

「いたっ、痛いっ! デレデレしてない、してないってば! いてててっ」


 不愉快だ。実に、実に不愉快だ。

 何故だかは分からない。分からないけれど、雄二が括理に対して鼻の下を伸ばしていると、どうしても胸の奥がむかむかしてくるのだ。


 当の括理の方はと言えば、そんな東子しゅじんの反応すら、楽しみの内に入れているようで。


「ああ、そういえば旦那様。お嬢様のお風呂が終わり次第、晩御飯にするのですけど……少々、豪勢に作り過ぎてしまいまして。よろしければ、食べていかれませんか?」


 この女、仕掛けるつもりだ……! というかこの雰囲気、最初から計画していたと思われる。外に出ていたのも恐らくそういう意図。東子が雄二に「玄関まで送っていけ」とせがまなければ、括理自らが、雄二を誘う腹積もりだったのだろう。


 そう気付いた時にはもう遅い。夕方ごろにはいつでも腹を空かせている苦学生、成長期なのに昼飯を節約しているような雄二には、その言葉はあまりにも効く。


「豪勢」

 

 現に彼は、これまでの混乱、困惑、一切の無駄を削ぎ落した真顔で、ぼそり、と一言だけ呟いた。


「ええ、それはもう豪勢に」

「…………いっけね、唾が」

「なんなら、そのままお泊りになってくださいませ。お嬢様も喜びます」


 いや、でも流石にな、と遠慮がちに一度は辞退する雄二。それに対して括理は、言葉巧みに夕餉の席へと誘っていく。徐々に徐々に雄二の表情が和らぎ、「じゃぁ、お言葉に甘えて……」という言葉が、今まさに喉の辺りにあるような顔に。


「駄目。雄二は帰って」

「まさかの拒絶」


 いいじゃねぇかちょっとくらい、とでも言いたそうな目線が癪に障る。括理の料理一つで、こいつを家に上げ、あまつさえそのまま一晩を過ごせるかもしれないだなどと……。


 まったく、腹立たしいにも程がある。

 どうして括理のではなくて、自分の力で雄二を引き留めることができないのか。

 どうしてそんなことだけで、こんなにイライラしてしまうのか。


 この感情の名前が分からない――その事実が、吃驚するくらい東子の心をかき乱す。


「さっさと! 帰りなさいって! 言ってるの!!」

「分かった、分かったから庭の石を投げるな!」


 今は魔鉄の加護無いんだぞ! と悲鳴を上げながら、一目散に門の方へと逃げていくパートナー。やりすぎた、と気付いたときには、もう彼の姿はどこにもなかった。


 玄関のドアを閉める。シャンデリアの透明な光が頬を撫でれば、はぁ、と低いため息が漏れた。


「お嬢様。お言葉ですが、態度を急変させ過ぎでございます。あれでは旦那様に嫌われてしまいますよ?」

「うるさい。誰のせいだと思ってるの」


 セーラー服のリボンを外させながら、東子は括理に文句を言う。そうだ、雄二を夕食に誘うくらい、自分だけでもできたはずなのだ。それをこいつが邪魔したから、あんな態度をとってしまったわけで。

 

 もう一度脳裏に相棒の姿を描く。

 でもそれが、例のデレデレした顔を、まだ直していなかったものだから。


「ばーか」


 小さく、ここにはいないあいつに罵倒を飛ばすのだった。

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