手拳の誓い
・二章最終話から一日後のお話。二章を完読してからこちらを読むことを推奨致します。
・シンヤ×コハル。
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ふと意識が浮上した。シンヤが重い瞼を持ち上げると、そこには静寂な暗黒が鎮座している。
――どうやら、まだ夜のようだ。
眠気という霞みが掛かった意識でも、それだけは理解することができた。意識が覚醒する分だけ身体の傷が痛みだし、シンヤは思わず眉間に皺を寄せる。起き上がることは未だ難しい。寝心地の良い寝具の上、シンヤは静かに目を伏せる。
ジンとの戦闘を繰り広げてから、一日が経過した。シンヤの傷は未だ塞がっていない。しかし、初日よりかは随分と楽になった。少なからず出血を補うためにマナ不足に陥って、そのまま死亡、という最悪の事態は回避した。そうなれば、後は回復を待つのみ。四六時中シンヤの状態を観察していた医者は、朝と晩に様子を見にくる、ということで落ち着いた。
見知らぬ誰かの存在が側にいない。それだけで、随分と心境は変化するものだ。楽になったのは傷が回復に向かっているから、というだけではないだろう。僅かに息を吐いたシンヤは、身体の痛みを誤魔化すように周囲へと視線を向けた。
カーテンが閉め切られた部屋の中には光源となるものが無い。けれど、シンヤの瞳は闇の中でも部屋の内装をよく捉えることができた。精霊の特徴か、或いはマナのおかげかは知らないが、シンヤは夜目が効くのだ。例え真夜中でも、活動に支障はない。
そんな瞳を持っているおかげで、シンヤはとあることに気が付いた。自分が寝かされた寝具に、上半身だけを乗せてうつ伏せになっている少女がいる。少女から聞こえてくる寝息は一定で、規則正しい。しかし、その体制では休まるものも休まらないだろう。今にも後頭部の輪郭と闇とが入り混じって消えてしまいそうな少女の存在を確かめるように、シンヤは僅かに手を伸ばす。身体に制止するように走った痛みを無視して、シンヤの指先は少女の柔らかな髪に触れた。
「――シンヤ、くん?」
少女……コハルの声は、か細かった。全てを呑み込む闇の中へと簡単に融けていく、そんな弱弱しい声だった。しかし、原因は寝起きというだけではない。
闇の中、顔をあげたコハルの瞳がシンヤを真っ直ぐに見つめる。平生よりも酷く疲弊した雰囲気を醸すコハルの姿は、見ていて痛々しい。自分の負った怪我などより、余程。
シンヤは自分が出せる限りの優しい声で、静かに言葉を紡ぐ。柔らかい髪を撫でていた手は、「痛むだろうから」と気を遣った彼女の手にそっと握られて、すぐに制止されてしまった。
「おはよ、コハル。起こして悪いけど、そこで寝てると疲れがとれないよ。横になったら?」
「……私は平気。シンヤくん、怪我は?」
「平気」
「嘘、平気なわけない。あんなにいっぱい刺されて、いっぱい、いっぱい血が……」
「昨日に比べてマシになったって意味。大丈夫だよ」
シンヤの惨状を思い出したのだろう。コハルの表情がくしゃりと歪む。恐らく、僅かでも光源があれば、彼女の目許は涙で煌めいたに違いない。シンヤの手はコハルの両手に優しく握られたままで、それを拭ってやる動作は赦されなかった。
大丈夫だと語る言葉に、どれほど説得力があるだろう。否、例え無くとも、シンヤはその言葉を投げかけ続ける。そうすることでしか、目の前の少女が抱いた不安を取り除いてやることはできないのだ。
いつものように少女の華奢な体を抱きしめてやれたら、と、シンヤは自分の怪我を恨めしく思った。昨晩から何十回となぞった衝動は、果たされることなく心の奥へと沈んでいく。それを達成させまいと立ちはだかる怪我、延いてはその原因である褐色肌の商人が憎い。シンヤが呪詛の言葉を知っていれば、躊躇いなく吐いていただろう。それ程までに憎く思う気持ちを胸にしながら、シンヤはコハルに視線を向け続けた。
「私、シンヤくんがよくなるまでここにいる」
「あんまり寝てないでしょ。君、俺が起きるとすぐ起きるから。少しは自分の部屋で横になったら?」
「嫌だ」
「強情」
「私が目を離してる間にシンヤくんが死んじゃうかもしれない」
そんなの嫌だ、と震える声が呟いた。それと同時に、シンヤの手の甲にぽたりと雫が落ちてくる。シンヤの手の甲を伝っていく雫は、無かったことにされるかのように、コハルの指で簡単に拭われた。
死ぬことはあり得ない。寿命のない精霊にとって、有り得るのはマナ不足による消滅のみ。精霊が怪我を負うことで死んでしまうのは、身体の機能を補おうとして過剰にマナが使われた挙句、不足状態に陥るからだ。大精霊による供給を受けていても、マナの消費に追いつけなければ当然死ぬ。けれど、ここは神都である。大精霊を創り出した神のマナが空気中に際限なく漂っている。この中では、このまま死ぬ方が寧ろ難しい。
血を流し過ぎた戦闘直後ならともかく、今は安定している。医者が「大丈夫だ」と言ったのだ。それ以上の心配は無用だ。しかし、誰がどれだけシンヤの命を保障しても、コハルはその顔に安堵を浮かべることはなかった。
死んでしまうかもしれない、の一点張りで、ろくに睡眠もとろうとはしない。食事の方は神のマナで補えるとしても、疲労は溜まる。例えマナで身体の疲労を補えても、心までは補えない。見るからに、コハルは憔悴している。シンヤにとっては、自分の怪我よりもそちらの方が重要であった。
「死なないよ。あんなポンコツに殺されて堪るか、だよ」
「でも強かったよ。シンヤくんいっぱい刺されてた」
「……ちょっと油断しただけ。次会ったら絶対勝てる」
「そこは疑ってないけど、でも、でもね、今のシンヤくんが死んじゃったら意味ないから」
「死なないって。心配性だね、君は」
このやりとりも、最早何度繰り返したか分からない。呆れた声音を出しても、どれだけ平生を繕っても、コハルの瞳は心配と不安の色しか見せなかった。普段から彼女を宥めてやるのは珍しくもない行為なのに、身体が動かないというだけでこうも歯がゆい思いをするだなんて。シンヤは唇を結んだ後、静かに彼女の笑顔を思い浮かべる。
シンヤはコハルのことが好きだ。そこに疑念など不必要である。
何が好きかと問われれば、全てと言う他ない。彼女の笑顔は愛らしく、声を聞けば心が穏やかになり、抱きしめれば愛おしさが増す。本当であれば彼女の涙だって美しいと思う時がある。
けれど、だからといって彼女を泣かせたいわけではないのだ。彼女の涙は見たくない。コハルの涙が嫌いだからではない。シンヤが、愛した人を泣かせるという行為を厭うからである。
シンヤはコハルの両手に握られたままの自分の手を仰向けにして、僅かに力を入れた。指先を動かすだけでも激痛が走る。そのことを承知している彼女は、突然動いたシンヤの手に驚いたようだった。
慌てて自分の手で痛めてしまわぬように力を解いたコハルは、驚愕と戸惑いの視線をシンヤに投げかける。その視線に微笑みを返して、シンヤは静かに目を閉じた。
手の平に波打つような感覚がする。冷ややかな水面を光が走り、煌めく。そんな美しい情景が心の中に浮かぶと、シンヤのマナは自然と発動する。
部屋の中に巻き上がった風はいつもより幾分か控えめであった。身体の治療にマナを割いている分、満足にマナを扱うことはできない。しかし、それで十分である。
マナの発動に伴って放たれた光が闇を取り払い、部屋中を無慈悲に照らし出す。痛覚を刺激されて顔を歪ませたシンヤの表情も、それを見てさらに大粒の涙を零したコハルの顔も、等しくマナの光が暴き出してしまう。それでもシンヤはマナの発動を止めなかった。
「シンヤくん、駄目! 身体が!」
「平気だって。ほら」
激痛の中微笑むのは至難の業だ。けれど、コハルのためならそんなことも容易い。
眉間に皺を寄せながらも、なんとか口角を上げたシンヤは、視線でコハルにそちらを向くように指示を出す。眉尻を下げたコハルは、光に照らされた桃色の瞳を、そろりと動かした。
水の身体を持つくらげの群れとサメが、宙に浮いている。くらげは己の緩やかな半球を描く身体をふわりふわりと優雅に移動させ、コハルの頬に張り付いた。彼女の涙はくらげの身体に吸収されていく。どちらも透明な液体なので、水と涙が混じっても決して違和感はない。
手の平よりも一回り大きいくらいの水のサメは、コハルを慰めるように彼女の周囲を素早く動く。シンヤがうまく動けずとも、彼等の動作に支障はない。身体が動かせないのなら、第二の身体を動かすまでだ。神経を尖らせたシンヤは、くらげとサメの両方を器用に動かす。コハルは、涙で瞳を潤ませながら唇を震わせた。
「シンヤくん、怪我してるのに、無茶して」
「だって君、これ好きでしょ」
「くらげもサメも好きだよ。好きだけど、でも」
「ソイツ等も君のこと好きだってさ。遊んでやってよ」
ほら、と言葉で急かせば、コハルは戸惑ったように水生生物たちに目線を向ける。五匹程度のくらげの群れはコハルを取り囲み、各々気の抜けるような動きで宙を舞う。サメはコハルの手元に頭を寄せ、撫でるのを催促するように体をくねらせる。
コハルはこれが大層お気に入りだった。樹の里にいるときから、ずっと。シンヤのマナを美しいと、楽しいと褒める彼女の笑顔は、何よりも輝かしかった。
湖の大精霊も、湖の里も、シンヤにとっては忌々しい存在だ。しかし、湖のマナまで嫌いにならなかったのは、彼女がそうして、シンヤ自身とそのマナを愛してくれたからなのだ。
彼女がシンヤのマナを拒絶しないことも、乱雑に扱わないことも、よく知っている。それこそが、シンヤが自分のマナを堂々と使う理由なのだから。
コハルは数拍の後、躊躇いがちにシンヤの手を寝具にそっと寝かせた。顔色を窺うように飛んできた視線に僅かに頷いてやれば、コハルはそのままくらげやサメに手を伸ばして、恐る恐ると撫で始める。その優しい手付きが、マナを通してシンヤにも伝わってくるようだ。
「……今は、身体の治療に使うから、マナは無駄遣いしちゃ駄目なのに」
「君に笑ってもらうためのマナだよ、無駄なわけない。俺の怪我を治すより重要」
「ばか、早く治して」
「君が笑ってくれたらね」
コハルの顔がまた歪む。しかし、涙が零れ落ちる前に、その目元にすり寄ったくらげがその雫を吸い取った。指が動かせなくとも、彼女の涙を拭う方法がある。それが、シンヤの心まで安堵させるのだ。
コハルは一頻り泣いた後で、シンヤの顔を覘きこむ。弱弱しいものではあったが、そこには確かな微笑みが携えられていた。
「……有難う。早く良くなってね」
「うん。祭りが終わる前には良くして、君と一緒に行く。デートしようね」
「うん。……ねえ、お祭りは、二人で回りたいな。勿論ヨルとスズネちゃんとも一緒に回りたいんだけど、でも、デートの時は」
「分かってる、アイツ等なんてわざわざ誘わないよ。全員一緒の日と俺達二人の日を用意すればいい。分かってくれるでしょ、あの二人なら」
「そう、だね。うん、そうかも」
「うん。君の欲しいものなんでも買ってあげる。美味しいものでもいいし、服でも髪飾りでもいい。色々見て回ろうよ、久しぶりに二人きりになれるから」
「ふふ、うん。楽しみ」
「待ってな。直ぐ治すからさ」
コハルの力のない笑みを補うように、シンヤが笑顔を零す。そんな顔は滅多にしてやらないが、彼女のためなら別だ。
彼女が笑えない時は、シンヤが代わりに笑うのである。そうしたら、いつか釣られたコハルも笑いだす。そうやって補っていくのだ。これまでも、これからも。
シンヤが断言すれば、幾らか不安が取り除かれたのだろう。くらげを指で突き始めたコハルが、僅かに笑い声を零す。突かれるままのくらげがくるくると宙を舞うのを見ながら、シンヤは静かに目を細めた。
神都に滞在するのは祭りの期間までである。その後、何が待ち受けているかは不明だが、安全が確保されたものではないことは確かだ。
樹の里から彼女を連れだした以上、その責任は果たさなければならない。命を賭しても、絶対に。
シンヤの手が、布団を握りしめる。それに伴って生じた痛みに顔を歪ませないようにしながら、心の奥で何度もその言葉を唱えた。痛みが大きくなるのは、それだけ自分の腕に力が入っている故である。
走った痛みにコハルを守り抜くことを誓って、シンヤはそっと力を抜いた。
手の甲を濡らした涙は、もうとっくに乾いてしまっていた。
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