花香る

・現パロ。四人共ただの人間で、本編にない設定を盛り込んでいます

・ヨル×スズネ

・お題箱より「スズネとヨルのお花屋さん話」というリクエストをいただき、それに従って書かせていただいたものです

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 いつからだったか、花を見つけると、無条件で少しの間立ち止まるようになってしまった。

 歩道橋を彩るように設置されたプランターの中で揺れる黄色いパンジー。地面に青空を創り出す様に公園の一角を埋め尽くすネモフィラ。お洒落な一軒家の庭に美しさを添えるように植えられたピンク色のペンタス。

 どんなに急いでいても、視界の片隅に花を見つけてしまえば、スズネの足は次の一歩を踏み出す前に動きを止める。それはスズネ本人の意思によるものではなく、無意識の行動だった。

 周囲には不思議な癖だと笑われるが、本人にとってはあまり笑い事ではなかった。幸い、指定された時間の三十分前に家を出る質なので、その癖によって遅刻をしたことはない。だからこそ周囲はその不可解な癖を軽く笑って流せるのだが、原因に心当たりがあるスズネは、その癖を繰り返す度に己の分かりやすさに頭痛をさせることになる。

 花の香りがすると心臓が跳ねるようになったのは、いつからだっただろう?

 生憎、スズネは植物を愛している人種ではない。否、目で楽しむのは好いている。無意味にちぎったり燃やしたりする、憎んでいる、という話ではなく、それそのものの美しさや愛らしさを理解していても、崇高するほど魅了されてはいない、ということだ。

 つまり、スズネは花を見かけて逐一足を止めるほど花を好いてはいない。可愛いなと思いながらも通り過ぎるのが常であったというのに、それが明確に崩れてしまった。

 その理由は単純明快である。スズネは花に関連付けて、いつも『彼』のことを思い出してしまうのだ。

 植物独特の青々しい香りが鼻孔を擽る。視界を埋め尽くさんばかりに飾られた花々は、赤、ピンク、黄色等の色、或いは花弁の大きさなどで自身の存在を主張している。

 ここはスズネがよく知る近所の花屋だった。

 受験を終え、無事大学生となったスズネは、数年先に迫った就職に向けて社会経験を積むべく、アルバイトをすることになったのである。コンビニ、スーパー、文房具店、本屋等、様々な選択肢があったのにも関わらずこの花屋を選んだのには、徒歩十分の職場という利便性故――ではなく、幼い頃からよく知るこの花屋と『彼』の結びつきが、非常に強いためであった。

 ブリキの花桶に飾られた花を眺めながら、スズネは己の騒がしい心臓を胸越しに撫でつけた。落ち着かなければ、と言い聞かせる度、その言葉を裏切る様にして、心臓はさらに早く脈を打った。

 深呼吸をする度、濃い植物の香りが肺を満たしていく。本日何度目かも分からなくなった深呼吸を止めたのは、とある少年の一言だった。


「――スズネ?」

「はいっ!?」


 名前を呼ばれて、声が裏返った。

 肩を大袈裟に跳ねさせたスズネは慌てて振り向く。いつの間にそこに居たのだろう。意外そうに目を見開いた少年の姿を視界に捉えた瞬間、スズネの心臓が今までで一番速く鼓動した。


「よ、ヨル、くん。おはようございます」

「え、あ、うん、おはよう。……え、なんでうちにいるの?」


 戸惑ったような声を出した少年――ヨルの姿に、スズネは肩を竦める。ヨルは、スズネが知っている彼よりも、幾分か大人びた顔立ちになっていた。

 彼は、スズネの幼馴染である。うち、というのは、この花屋のことだ。この花屋を経営しているのは彼の母親なので、スズネのアルバイト先であるこの花屋は、彼にとっての実家なのである。

 実家が花屋なものだから、彼はいつでも花屋独特の香りを身に纏っていた。近所に唯一存在している花屋な上に幼馴染の自宅なものだから、この花屋のことはスズネもよく知っている。花屋でアルバイトをしようと思えば、自然と足が向かうのはここだった。

 ふわふわとしたアッシュグレーの髪の毛の下で、青みがかった緑色の瞳が何度も瞬きを繰り返している。その優しい色味の双眸とじっくり見つめ合うのは久方ぶりだった。それが妙に照れくさくて、スズネは慌てて目を伏せた。

 灰色のコンクリートと自分の足元を見ながら、スズネは声の震えを抑えて説明の言葉を辿った。


「ええと、アルバイトを、ここですることになりました」

「……うちで? キミが?」

「そ、そうです」

「何時決まったの、それ」

「ここ最近です。私だからって、ヨルくんのお母さんが即採用してくれたので……」


 ヨルの声には未だ、多少の驚きと動揺が滲んでいた。それを聞いていると心臓が高鳴ってしまって仕方がない。

 久しぶりに彼の声を聞けた、という事実と、それが嫌悪から来るものではありませんように、と祈る感情が綯い交ぜになっている。羞恥か焦りか、頬に集中する熱が増していくのを感じながら、スズネは震える手を握りしめて体を縮込めた。

 スズネよりも二つ年下のヨル、彼と双子のコハルと、そんなコハルを愛して止まないシンヤ。シンヤだけはスズネと同い年だ。この三人は『いつものメンバー』と称されるほど仲が良い幼馴染だった。遊ぶといえばこの四人、という暗黙の了解があった幼少期は、毎日が明るく輝かしいものだった。しかし、子供の内は二歳というのが非常に大きな差異となる。

 小学校は二年我慢すれば四人で遊べた上、登下校も共にできた。しかし、中学校からはたった一年しか同じ場所で学べない上、登下校も中々共にはできなくなっていた。

 無邪気に顔を合わせて、そのまま手を繋いで遊びにいく、という年代はもう終わってしまったのである。本人たちの意向はともかく、周囲がそれを囃し立てる時期になっていた。

 休み時間中、わざわざ同年代の輪から抜け出して他学年の階層に向かえば、それを見た生徒達は『恋人に会いに行っている』と信じて止まなかった。普段から大人しく特別な行動をとらないスズネ、周囲に馴染まず単独行動を好むシンヤ。そんな二人がそういった特異な行動をとれば当然のように目立ったし、ヨルとコハルが三年生の階層に来ようにも、学年が違うためすこぶる目立つ。どんな手を取ろうとも、四人が学校内で会うのは人目を集めた。

 男女が丁度二人ずつだったため、誰と誰が付き合っているのかなんて話題もよく上がった。ただ会って話をしているだけで揶揄われることは当然で、それを笑って受け流せるほど、当時の自分達の精神は成熟していなかった。周囲と同じく、スズネ達は思春期だったのである。

 シンヤとコハルはいつの間にか恋人になっていて、そんな噂話や揶揄いに受ける傷はそう大きくなかったようだが、ヨルとスズネはそうではない。目立つのが得意ではないスズネがヨルの元に会いにいけなくなり、その流れでヨルもスズネに会いにくることが少なくなった。学校内で話せなくなると、それ以外で話す機会も失われてしまったのだ。高校はそもそも通う場所が違ったために、ここ数年間、スズネとヨルはまともに会話をしていない。

 接点がまるで無い訳ではなかった。顔を合わせれば「久しぶりだね」と会話をすることはあったのだが、それも以前のようにはいかなかったのである。中学時代、周囲の目を気にしすぎて思わず癖をつけてしまった敬語は今も抜けきらず、ヨルもそれを指摘しようとはしない。当時作ってしまった絶妙な距離感は今も健在で、今はもう、昔のように無邪気に彼と接することはできない。

 だから、スズネが自分の家でアルバイトをするなどと聞いてヨルが驚くのは当然のことだった。申し訳なくて、スズネは顔を上げることができない。申し訳なさついでに、久しぶりに見る彼の顔が大人びていて、記憶の中にいる彼よりも数倍恰好よくなっていて、気恥ずかしさが勝った。もう周囲に囃し立てる誰かの声はないのに、自分の一挙一動が気になって仕方がない。だからこそ、スズネは平生とは程遠いこの心理状態でも平生を装わなければならなかった。


「ヨルくん、ご迷惑だったら、その、ごめんなさい」

「いや、迷惑なんてそんなことないけど……無理に頼まれてない? 僕、今から抗議してこようか?」

「抗議?」

「幼馴染の好だからとかなんとかって言われて丸め込まれたんじゃない? だって、キミがここを選ぶとは思えないし。キミ、嫌なものを嫌って言えない質だから、代わりに僕が言ってくるよ。人手が足りないなら僕が手伝うし、キミに迷惑を掛けるわけにはいかないから」


 本気で心配そうな色を帯びた声が次々と投げかけられる。邪険にするどころか、非常に気遣われているようだ。スズネは慌てて両手を振って、店長――つまり、彼の母親が待機している店の奥へと向かおうとしたヨルを引き留めた。


「違います、私が働かせてくださいって頼んだんです!」


 思うよりずっと大きな声が出た。その声は辛うじて震えていなかったが、代わりにその場に数拍の沈黙を齎した。

 声は裏返らなかったか? 怒鳴りつけたわけではなかったけれど、煩かったのでは? 騒がしい、なんて、思われていない? もっと他に適切な言葉はなかった?

 様々なことが頭を過り、スズネは今にも砂になって消えてしまいそうな感覚に襲われる。自分の背後で美しく咲き誇る薔薇の影に隠れたい。そんな衝動に負けそうになった頃合いで、立ち止まったヨルが後ろを向いたままポツリと呟いた。


「この店、僕がいるけど、いいの?」

「え」

「……話すの嫌じゃない?」


 記憶の声よりも少し低くなった声が、確かめるような調子でスズネの鼓膜を撫でる。ゆっくりと振り向いた彼が僅かに不安そうに表情を翳らせているのを見て、スズネはぱちくりと瞬きをする。

 それはこちらの台詞なのだが。

 口からそんな言葉が零れかけるのを、寸でのところで呑み込んだ。その代わりぱくぱくと動いて声を発せないままでいることになったスズネの姿を、ヨルの垂れ目がちな瞳が真っ直ぐと見据える。


「避けてたでしょ、僕のこと。中学時代」

「……さ、避けてたというか。周囲から揶揄われるのが恥ずかしくて、ヨルくんにも迷惑だと思って」

「急に敬語とか使いだすし。一緒に帰ろうと思って迎えにいったら先に帰ってたりしたし」

「そ、それは、だって、あんまり親しそうにすると付き合ってるって言われて、ヨルくんに迷惑がかかるから」

「僕、それが迷惑って言ったことあった?」


 弁明を言い終える前に、ヨルの声が割り込んできた。それを聞いて、スズネは丸め込めていた背中を思わず伸ばす。

――そういえば、そんなことは一言も言われたことがない。

 周囲に揶揄われても、少し気恥ずかしそうにするだけで、結局彼はスズネの元に通うことを止めなかった。ヨルがスズネと距離をとるようになったのは、スズネが彼の迷惑になると考えて距離を取り始めてからである。

 一緒にいるとヨルの迷惑になる。その感情は、他でもないスズネが、勝手に自分に植え付けたものだった。


「……まあ、気持ちは分からなくもないけど。あんな調子じゃ上手く話せもしないから、仕方ないとは思うけど。でも……寂しかったんだよ。急に大事な幼馴染に距離とられて」


 もう昔のことだけど、と付け足された言葉が、鋭利なナイフとなってスズネの胸元を抉る。後悔か、罪悪感か、どちらともいえるような感情に顔を歪ませたスズネは、思わず胸を抑えてしまう。

 花の香りが充満した店内に、重い沈黙が走った。それを破ったのは、とうとう震えを押し殺せなくなったスズネの声である。


「ご、めんなさい」

「別に、本当にもういいんだけど。でも、どうして今アルバイトここに決めたの? キミがわざわざ僕と近いところに来るとは思ってなかったよ」


 ヨルは特に怒った様子もなく、表情を穏やかなものにして尋ねた。そこに偽りの影は感じない。ただ意外だ、と言いたげな彼の様子に、スズネはちらりと視界の隅の花々を見つめる。

 この家に来る度、ヨルが店先の花の名前を教えてくれた。それに添えられて教えてもらった花言葉はどれも愛に纏わるロマンチックなもので、昔のスズネはそれを聞くことが大好きだった。

 ヨルはただ、本に記述された内容を読み上げているだけに過ぎなかった。それでも、それを聞くのが好きだったのだ。例え自分に向けられたものではない愛の言葉も、ヨルの声で、自分の隣で読み上げられているという現状に、淡い夢と期待を抱けたからだ。

 つまり、スズネはヨルのことが好きだった。ずっと昔から、彼のことが好きで好きで仕方がなかったのである。花を見て彼を思い出す度に、彼への好意が胸の内で音を立てるのだ。


「さ、最近、花を見ると無条件に立ち止まってしまって」

「うん」

「――ヨルくんのことを、思い出すんです」


 花の香りが漂ってきたとき、花を見たとき、ヨルが明るく花言葉を口にしていた記憶が蘇るのだ。その度に、今の自分の隣に彼の姿がないことに酷く落ち込んでしまう。

 距離をとったのは自分だった。周りが言う通り、彼のことが好きだった。だからこそ、その揶揄いの言葉を厭うヨルの姿は見たくなかったし、自分の存在によって彼に迷惑をかけたくなかったし、その気持ちを悟られるのが恐ろしかった。

 支給された緑のエプロンの裾を握って、スズネはぽつぽつと呟いた。あなたのことを思い出す、だなんて告白染みた言葉を投げると、案の定、ヨルは目を見開いた。その表情が単なる驚きであって嫌悪ではないことを祈るしか、スズネにはできないのである。


「……何で僕のこと? 花屋の息子だから?」

「そ、そうです」

「それだけ?」

「……それだけじゃないです」

「なら、なんで?」


 半ば確信を得ているであろう彼の声は、スズネのその先の言葉を誘導する。ヨルはこういうところがあった。自分が分かった答えも、スズネの口で言わせるまで満足しない。多少の意地悪さえ懐かしくて、スズネは、赤らんだ顔を静かに持ち上げた。

 やけに真剣な顔をして、その瞳に期待を帯びたヨルと視線が絡まる。十秒ほど見つめ合ってから、スズネは、その場に纏わりつくようにして落ちていた沈黙を、静かに取り除いた。


「私は、ヨルくんが」

「うん」

「……ヨル、くんが」

「うん」

「……ヨル……くんが……ヨル、くん、に」

「……うん?」


 好き、とたった二音続けばいいものを、中々踏み出せない。真剣な顔をしていたヨルが小首を傾げたのを見て、早く言わなくてはならないと焦ったスズネは、早口で次の言葉につなげた。


「花が! 花が好きなんです!」

「え?」

「あの、花が、立ち止まるくらい花が好きで、その花を好きになった要因がヨルくんで、ええと、ヨルくんに昔みたいに花言葉を教えていただきたくて、そう、私あれが好きだったんです。いつもロマンチックな花言葉を教えてくれて、あれで花が大好きになって、だからまた聞きたいなぁだなんて、ああごめんなさい厚かましいですよねごめんなさい! 私やっぱりここで働く権利ないですごめんなさい、私がヨルくんのお母さんに説明して頭を下げてくるのでっ、ヨルくんの平穏な生活を侵害するわけにはっ!」

「ちょ、ちょっとスズネ!」


 貴方が好き、と言うつもりが、全く違う場所に着地してしまった。思わず泣きそうになりながら、今度はスズネが慌しく店の奥へと姿を隠そうとする。ヨルの隣を勢いよく通り過ぎようとしたとき、彼の手がスズネの手首を簡単に捕まえてしまった。思うよりずっと力強いその手は、いとも容易くスズネをその場に引き留めてしまう。


「待って」

「……早急に、この場から、逃げたいです」

「逃げたい理由は何?」

「久しぶりに会ったヨルくんにこれ以上ご迷惑をおかけしたくないです」

「僕は迷惑なんて思ってないし今の話の続きがしたいよ」


 この言葉の意味を正しく汲み取るのであれば、スズネにとってこれは『逃がさない』という無慈悲な宣告になる。告白をしようとして誤魔化しきれない下手な言葉を並べたスズネに対する最上級の死刑宣告だ。

 目尻に涙を溜めて、スズネはおずおずとヨルの顔色を窺った。嘲笑も嫌悪も滲まないヨルの瞳は、未だスズネを真っ直ぐに捉えて離さない。


「キミは花を見る度に僕のこと思い出すの?」

「……そうです」

「それで立ちどまっちゃうの? 僕のことを思い出すから?」

「……そうです、よ」


 少しずつ言葉で追い詰められる感覚に、スズネは目を伏せる。手首を握る力が僅かに強くなったのを感じて、スズネは小さく肩を震わせた。実質、あなたが好きだと遠まわしに言っているようなものだった。

 数年越しに明かしてしまった自分の内側に、スズネの全身を巡る血が沸騰しているかのように熱くなった。今にも融けてしまいそうな熱に侵されて、スズネは唇をきつく結ぶ。ヨルはただ、噛み締めるように呟いた。


「そっか。キミがそんなに好いてくれてるとは思わなかった」

「……びっくりしました?」

「そりゃあね」

「迷惑では……?」

「ないよ。嬉しいくらい」


 穏やかな喜びを謳うその声に、スズネの心臓が大きく跳ねる。眼前にあるヨルの表情は、数年前と変わらない、酷く優しげな微笑を湛えていた。


「キミがそんなに花を好いてるなんて、知らなかった」

「はい、実はずっと前から好きで――え、花?」

「え? 花。……好きなんだよね? 花」


 違うの? と言いたげな顔に、スズネは瞬きを繰り返す。

――確かに好きだけれども。本当に好きなのは、ヨルの方なのだが?

 告白同然の言葉を吐いたにも関わらず、ヨルは照れる様子を特に見せず、ただ理解が及ばないといった顔で小首を傾げていた。その愛らしい仕草を久しぶりに見たことによる喜びよりも、スズネの脳内はクエスチョンマークで埋め尽くされる。

 数秒を経て、スズネはやがてとある結論に辿りついた。

 変に誤魔化したせいで、ヨルにスズネの気持ちが伝わっていない。あの告白もどきは、どうやらヨルの中では『スズネが心底花を愛している』という風に解釈されたらしかった。

 安心したような、残念なような。肩から力を抜かしたスズネが、思わず大きく息を吐く。口から零れ落ちた盛大な溜め息を聞いて瞬きを繰り返すヨルに、スズネはただ無言で頷いて、誤解への肯定を強いられたのだった。


「この辺りじゃ花屋なんてうちしかないし、そりゃあアルバイト先も自然とここになるよね」

「……そう、ですね。はい、そうです。そういうことにしておきます」

「しておく?」

「そういうことになります、の言い間違いです」


 スズネの声からは魂が抜け、抑揚が消え失せた。未だ不思議そうな顔をしているヨルも、少しすると普段通りの穏やかな顔つきに戻っていく。久しぶりに顔を合わせた幼馴染は、思うよりずっと手強い相手となっていた。


「キミ自身の意思でここを選んだのなら大歓迎だよ。花屋、始めはキツいかもしれないけど、僕もちゃんと手伝うから。一緒に頑張ろうね」

「有難うございます……」

「うん。あと、キミがご所望の花言葉も教えるよ。ここ数年で僕もまた詳しくなったから、楽しみにしててね」

「わ、わーい……やったぁ……ははは……」


 どれだけその行為が好きでも、告白が空ぶった後では喜べるものも喜べない。心の内側で涙目になりながら下手な喜んだフリをするスズネの目の前で、ヨルはただ口角を上げて微笑むばかりだ。

――否、その微笑みが見られるだけで、今は良い。

 数年越しに真っ直ぐ目を見て会話をすることができたのだ。告白をして恋人になる、というのは、最終目標である。焦らず、こうして側にいられるだけで、十分幸せだ。

 そう思えば、この花の香りのように安堵や喜びが胸の内に充満していく。落ち着きを取り戻したスズネが改めてヨルと向かい合うと、彼は一瞬悪戯っぽく目を光らせて、それからわざとらしく「そういえば」と話題を切り換えた。


「花言葉って、別に良いものばっかりじゃないよ」

「え? そ、そうです、ね?」

「なんでわざわざロマンチックな恋愛系の花言葉ばっかり読み上げてたと思う?」


 唐突な問いかけに、スズネは目を見開いてから小首を傾げる。その反応に、ますます笑みを深いものにしたヨルは、静かに呟いた。


「キミの隣で堂々とそういう言葉を口にできるタイミング、そこしかなかったから」

「……ヨルくん?」


 何かを予感した心臓が、落ち着きを取り戻した矢先に再び駆け足になる。スズネがじわりと頬を赤らめたのを見届けて、ヨルは近くの赤い薔薇を指差して、囁くように呟いた。


「赤い薔薇の花言葉は『あなたを愛しています』だよ。覚えててね、スズネ」


 何処か挑戦的な視線が投げかけられて、スズネは思わず口をぱくぱくとさせた。悪戯っぽい笑みがヨルの端麗な顔に浮かぶ。

 周囲の花々の香りが一層濃くなった気がした。その中でも一際甘い香りを漂わせている薔薇の香りと共に、ヨルが口にした花言葉がスズネの脳裏にしっかりと刻み込まれる。

 赤薔薇は、己と同じ色で頬を染めたスズネのことを、静かに見つめながら凛と咲き誇っていた。

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