全部酒のせい シンヤ・コハルの場合

・あのままリンが何も起こさずに、四人全員樹の里で穏やかな生活を送っていたらというifストーリー

・シンヤ×コハル、ほんのりヨル×スズネ

・甘ったるすぎて糖分を吐き出しそうなほどにいちゃいちゃしてる、ただそれだけの話。なんでも許せる人向け

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「何、この地獄絵図」

「皆様、お酒に酔ってしまわれまして」


 シンヤが思わず呟けば、隣に立っていたリンが無表情を保ったまま的確な返答を零した。その涼やかな声とは相反して、目の前に広がる光景は、まさに地獄絵図と呼ぶに相応しいものだった。

 普段シンヤを含める四人の精霊が食事をする大広間は、変わり果てた姿に成り下がっていた。塵一つなかったはずの床には酒瓶が何本も転がり、部屋中に充満した酒の匂いが容赦なくシンヤの鼻孔を突く。普段は慇懃に職務を全うする使用人達が、顔を赤くして何人も床に寝転び、気を失っている。その酷い有様に、シンヤは大広間の入り口で入室を躊い、足を止めた。

 しかし、シンヤが分かりやすく顔を顰めたのは、それらの要素よりも目につくものが他にあったからだった。


「ヨルくん、ヨルくん、ヨルくん。あはは三人もいる」

「僕が三人もいるはずないでしょ。ふふ、可笑しいんだから……あれ、スズネが二人。キミも双子だったの? そっくりだね、言ってくれればよかったのに」

「あはは」

「ふふふ」


 明らかに平生ではない様子のスズネとヨルが、その顔を真っ赤に染めながら互いの姿を見てケラケラと笑い声を零していた。その笑い声は協奏曲のように重なり、シンヤの鼓膜を不愉快に撫で去っていった。

 酒瓶を抱えたスズネがヨルの頭を撫でまわし、お返しにとヨルがその頬を両手で挟み。二人はそうして、吐息が交わりそうな距離感で戯れていた。

普段の二人であれば決して見ることができないであろう光景だったが、生憎とシンヤは他者の恋愛事情に死ぬほど興味がない。二人がどうなろうと知ったことではないが、明らかに浮わついた気分でいられると、妙に不愉快になる。どうしてかは分からないが。

 眉間に深く皺を刻んだシンヤは、この惨状に頭痛すら覚えた。


「どうしてこうなるまで放っておいたの、リン」

「いえ、私が少し席を外して戻ってきたら、既にこうだったのです」

「どんな速度で酒を飲めばこうなるの。浴びたんじゃない? 馬鹿じゃない?」

「まさか、ここまで盛り上がるとは」


 予想外でした、と、感情の突起を見せない平然としたリンの声が呟く。それを隣で聞いたシンヤは溜息を吐いて、頭痛を訴える蟀谷に手をやった。

 事の発端は、スズネの善意による提案だった。

 彼女が樹の里にやってきて数ヵ月。食事や寝床を整える使用人達に世話を焼かれ続けたスズネは、とうとう我慢ができなくなったようで、こんなことを言いだした。


『今度、皆さんでお酒を飲みましょう』


 曰く、気遣われすぎると肩が凝るのだそうだ。せめて無礼講があってもいいじゃないか、という彼女の提案は、思うよりずっと容易に容認された。

 スズネの意見を支持したのがコハルだった、というのが大きかった。シンヤはコハルが言うならと二つ返事で頷いたし、元々感謝の気持ちを疎かにする性格をしていないヨルも、当然断ることをしなかった。精霊四人の意見ともなればリンも断ることができず、彼女が断らないのであれば、それに仕える身分である使用人達が独断でその提案を却下できるはずもない。

 結果として、滔々と流れる川のように素早く円滑に、宴会の予定が取り決められた。

 それがつい先週の出来事である。ここまでなら決して問題にはならないはずなのだが、どうしてこうなってしまったのか。

 日課であるマナの特訓につい熱を入れ過ぎて、宴会の時間に遅れたのはシンヤの落ち度だ。そこは素直に認めるとしても、それ以上の落ち度を、短期間でここまで酔いつぶれたこの場の全員が持っている気がする。

 シンヤは眉尻を吊り上げて、呆れた声で言った。


「感謝を伝えるどころか仕事を増やしたね。片付け大変だよ、これ」

「まあ、たまにはこういった催しも大事なのでしょう。皆疲れが溜まっていたからこそ、ここまでお酒を堪能したのかもしれませんし」

「堪能しすぎでしょ。俺は今日呑まないほうが良さそうだね」


 肩を竦めたまま、足元に転がる酒瓶を拾い上げた。決して小さくはない酒瓶は、既に中身が空である。床に転がっている瓶を集めて並べれば、シンヤの寝具がすぐに埋まりそうだ。おびただしい量の酒瓶を眺めて、シンヤは目を細める。

 使用人の殆どは床に転がっていて、ヨルとスズネはあの調子。辛うじて意識がある者は壁に寄りかかって座っていた李、机に顔を乗せて何かを呻いていたりする。後片付けや介抱をできる人間が何処にもいないのだから、その役をシンヤが務める他なかった。

 本来であればそんな役には――コハルのため以外には――絶対に納まらないが、この有様では仕方がない。宴会に遅れた自分への諫めとするとしよう。

 そう自分に言い聞かせたシンヤは、そこではたと目を見開く。彼女が、コハルが部屋の何処にも見当たらなかった。


「リン、コハルは?」

「ああ、コハル様でしたら――」

「あーっ! シンヤくんが漸く私の名前呼んでくれたーっ!」


 リンが答えを口にする前に、背後から勢いよく放たれた声がシンヤの鼓膜を劈く。予想していなかった声の登場に一瞬肩を揺らしたシンヤは、思わず飛び退きながら振り向いた。すると――いつの間に背後に回ったのだろう――そこには頬を仄かに赤らめながら微笑むコハルの姿があった。その手には、巨大な酒瓶が一本握られている。既に、中身は空のようだ。

 ふふふ、と頬を緩め切ったコハルは、シンヤが飛び退いたせいで空いた数歩分の距離を、ふらふらと覚束ない足取りで埋める。酒の匂いを漂わせた彼女は、その桃色の丸い瞳を僅かに細め、何処か妖艶な雰囲気を漂わせて微笑んだ。


「シンヤくんのこと待ってたのに全然来ないから、心配してたんだよぉ」

「……俺が来ない間の三十分で、こんなになるとは思わなかったんだよ」

「寂しかったんだからねぇ」

「……ごめん」


 普段よりも間延びした彼女の声は、鼓膜を執拗に撫でるような速度でゆっくりと紡がれた。纏わりつくような甘さが込められたその声も、当然嫌いじゃない。しかし、普段のコハルの声はどちらかというと溌剌とした活発さがあるので、酒混じりの妖艶さは酷く違和感があった。

 心配していた、と語りながら眉尻を下げたり、かと思えば拗ねたように頬を膨らましたり。コハルの表情はいつもながら非常に豊かだった。普段と違うことをあげるなら、その頬が常に赤いことと、強い酒の匂いを漂わせていることだ。


「君、それ全部飲んだの?」

「これは皆に呑ませてあげたやつだよ。シンヤくんの分とっておけなくてごめんね、でもまだあるからね」

「いや、俺は今日呑まないからいいけど……ああ、そう。この使用人の山は君が作ったんだね」

「コハル様はシンヤ様が到着するまで呑まないと仰って使用人達に酒を注いで回っていらっしゃったのですが、その内の一人に酒を押し付けられたようで、一杯飲んだら酔ってしまわれました」

「一杯でこれ?」

「こちらのお酒は、神が好んで飲んだと言い伝えられる、最高の度数を誇る代物ですので」

「なんでそんな物引っ張り出してきたわけ、君は」


 リンから飛んできた冷静な補足に、シンヤは肩を竦める。コハルの肩越しに見えるリンの表情からは、反省や後悔、或いは愉悦の色ですら読み取れない。彼女が何を考えているのか、半年間樹の里に滞在した今でも、理解に苦しむ。

 シンヤの視線を受けて、リンは僅かに黙り込んだ後、目を伏せて呟いた。


「無礼講、とお聞きしましたので、つい」

「その無礼講は死人が出る」


 そこで初めて、リンは僅かに頬を赤らめた。彼女なりにはしゃいだということか。

 彼女がはしゃいだ結果がこの死屍累々の惨状なのだが、まあ、里の代表という立場上滅多に羽目を外さないリンが楽しんでいるのなら、それも悪くはないのかもしれない。必要な犠牲という言葉が世の中にはある。

 シンヤが大凡の状況把握を終えたその瞬間、眼前にあったコハルの表情が見る見るうちに翳っていった。上機嫌の色は失せ、代わりに分かりやすく眉間に皺が寄る。彼女の瞳の中でシンヤが困惑を浮かべた瞬間、コハルは低い声で呟いた。


「ずるい」

「え?」

「またシンヤくんリンとお話してリンのことばっかり! 私のことも見てーっ!」

「ちょっ」


 まるで氾濫した川の如き勢いで叫んだコハルが、その場で勢いを付けてシンヤに飛び付いてくる。コハルの全身で体当たりをするような形で抱き着かれたシンヤは、不意打ちだということもあり、いとも容易く後ろに重心を崩してしまう。

 咄嗟にコハルの頭部に手を回して庇ったシンヤは、後頭部を強く床にぶつける。急激な痛みを頭と背面に覚えて顔を歪めたシンヤのことを、体の上に乗っかったコハルが不服そうに見つめていた。


「内緒のお話してたり、他の女の子より距離近かったり、何気なくすごく信頼してたり、別に仲良しなだけなら悪いことじゃないけど、シンヤくんはリンのことも特別なんでしょ?」

「いや、特にそう思ったことはないけど」

「嘘だぁ、だってシンヤくん私以外の女の子とあんなに親しそうに話さないもん!」


 嘘吐き、と糾弾されたような気分だった。眉を吊り上げたコハルの耳には、シンヤの主張など届いてもいないらしい。酒で赤らんだ顔色をそのままに、コハルは酷く恨めしそうな顔をして、その目尻に涙を溜めた。

 その光景にシンヤが一瞬目を丸くしたのは束の間のことである。その涙を拭おうと伸ばしかけた手を、コハルの柔らかい手が素早く制した。


「シンヤくんは私のだよね?」

「――そうだよ」


 疑いを掛けるような問いかけに、シンヤは一拍置いて返答する。

 シンヤの体に覆いかぶさる様に体を密着させたコハルは、それを聞くと僅かに表情を緩めた。酒を飲んで、普段よりもさらに感情が表に出やすくなっているらしい。ころころと変わっていく表情を見つめながら、シンヤは静かに瞬きを繰り返す。

 紅潮した頬の色は柔らかく、瞳は何処か熱っぽかった。酒を飲んで体温が上昇したのか、普段よりも緩められた服から覗く肌は、日の光を知らないと言わんばかりに真白い。

 酒を飲むと、コハルは前面に色気が出てくるらしい。普段の彼女はどちらかというと愛らしい雰囲気を纏っているので、こういった一面を見るといつもの対応をするのに一拍間を空けてしまう。


「よかった」


 花が綻ぶような笑みを浮かべたコハルを見て、シンヤは硬く口を結んだ。

 顔が近い。脳内を埋める言葉がそれであることは、珍しいことだった。

 シンヤとコハルの距離は普段から近いので、わざわざそれを意識することなどないのだ。

 しかし、酔っ払いを相手にしているせいか、何処かいつもと様子が違うコハルを目の前にすると、その感覚が聊か曖昧になる。普段からコハルを異性ではないと認識している訳ではないのだが――寧ろその逆だ――前面に押し出される女性らしさに、シンヤの心臓は、自ずと速くなった。

 それを悟られてはいけない。コハルの前で、シンヤは何処までも格好良く有りたいのだ。それを、こんなところで崩されるわけにはいかなかった。

 ぎこちなく微笑みを浮かべたシンヤは、普段通りの声音を装って囁く。


「当たり前でしょ。俺にとって君より大事な女の子なんていないし、君以外に特別な人なんていないよ」

「本当?」

「うん。本当。俺が君に嘘吐くはずないでしょ」

「じゃあキスして」

「……ん?」

「キスして」


 さらりと零された衝撃的な発言を、思わず聞き返す。酔っ払いのくせに明瞭に発音された強請りの言葉に、シンヤはその微笑みのまま硬直した。

 キス。所謂口付けのことである。唇同士を触れあわせるという動作で愛情を伝える手段であり、恋人や夫婦といった関係性の人間がする愛情表現のことである。

 知っている。別にするのは初めてではない。こうして強請られることも、自分からすることも多々ある。既に唇を合わせた回数は覚えていない。最早慣れたものだ。

 でもそれは、二人きりの場合に限るのだ。


「コハル、ここ大広間。人いるんだけど」

「リンの前ではできない? やっぱりリンも特別?」

「いや、特別云々じゃなくて人目の問題」

「シンヤくんの浮気者……」

「人の話を聞いてくれない? 普通に人前ですることへの抵抗感だって、ねえ、コハル?」


 即座に潤んだコハルの瞳を見て、シンヤは慌てて言葉を付け足した。しかし、それが彼女の鼓膜には届いていないらしい。否、届いていても、理解されていないの間違いである。

 床に寝そべったシンヤの胸板に顔を埋めたコハルが、「嘘吐き」や「浮気者」といった心外すぎる罵りの言葉を並べるのを、シンヤは冷や汗を垂らして見守る。その冷や汗が流れたのは、自身の上に乗るコハルの背後で、静かにこちらを見下ろすリンの視線があったからだ。

 リンは目の前で繰り広げられる二人のやりとりを沈黙して見守っていた。立ち去るわけでもなく、気まずげに目を逸らすわけでもなく。感情の読めない萌黄の瞳は、シンヤと目が合った瞬間に細められ、彼女の口元に微かな笑みが浮かんだ。

 そして、右手の親指を立てられる。その行為への無言の肯定、或いは応援。リンの言いたいことを言語化するならば『いいぞそのままやってしまえ』だろうか。彼女は存外馬鹿なのかもしれない、という言葉がシンヤの脳内を横切る。顔色も態度も普段と全く変わらないので気が付かなかったが、リンも相応に酒に酔っているらしかった。

 この場には酔っ払いしかいない。それを悟ったシンヤは、困惑を露わにしつつ、コハルの背を撫でた。


「別にするのはいいけど、せめて場所変えようよ。俺の部屋来る?」

「ここがいい」

「何で?」

「シンヤくんは私のだって見せつけてやるんだもん」

「見せつけなくても俺は君のだよ」

「見せつけるの!」


 コハルの断固とした主張は揺るぎそうにない。勢いよく顔をあげたコハルの表情から読み取れる決意は固かった。


「んんー? あれ、シンヤさん、いつの間にいらしてたんですか?」

「ほんとだ、いつ来てたのキミ」


 そのコハルの大声に反応したように、遠くで戯れていたスズネとヨルがこちらに視線を向けてきた。それに呼応するようにまだ意識のある使用人達の視線が一斉にシンヤとコハルに浴びせられる。さらに悪化した状況に再び頭痛の気配を感じ取ったシンヤは、小さく息を吐いた。

 目の前で懇願するように揺れた桃色の瞳がシンヤを熱心に射抜く。彼女は意味もなくこんなことを言う質ではない。普段から何かしら心配させるような要素があって、それが酒によって溢れ出ている状態なのだ。

 彼女を不安にさせるのは、本意ではない。それを取り除けるのなら、シンヤは何だってする所存だ。


「……分かった。すればいいんだね」

「してくれるの?」

「うん。君が特別って証明すればいいんでしょ」


 口付けという行為そのものに対する障害はない。環境が整っていないだけで、することは普段と変わらない。多少込み上げる羞恥を押し殺せば、問題はない。格好いいままの自分を保てるはずだ。

 そう自分に言い聞かせながら彼女の提案を呑み込んだシンヤは、コハルの淡く色付いた頬に手を伸ばす。丸みを帯びた輪郭に手のひらを滑らせれば、コハルは酷く嬉しそうに口端を持ち上げて目を細めた。その顔が見られただけ、この宴会に価値はあったということだ。

 床に肘をついて体を持ち上げたシンヤは、目を閉じたコハルの顔に額を寄せる。それだけで何をするつもりかを察するには十分な距離だった。

 精霊二人と数多の使用人達が酔っぱらった勢いのまま遠くで囃し立てる声を上げたが、シンヤはそれを聞こえないふりで全て無視した。耳を傾けていてはいつまで経ってもコハルの願いを叶えてやることができない。

 自分達を包む好奇の視線から逃れるように、シンヤは目を伏せた。本来であれば恋人同士の愛情確認であるこの動作に煩わしい視線を向けることは無粋だと怒る場面だが、今回は場所を選べなかったこちらに責任があるので、口にしたい文句は全て押し殺しておく。

 鼻先が触れあう距離で首を傾げれば、その先の距離に進むことが赦される。長い睫毛が照明を浴びて輝くのを間近で見届けたシンヤは、互いの唇に残された最後の隙間を、埋めた。

 触れあった唇はいつもより熱を帯びていて、やはり酒の味がする。頬がやけに熱いのは、彼女も羞恥を持っているのか、或いは単純に酒の飲み過ぎか、シンヤには判断を付けることができなかった。

 視界が暗転している間は、耳障りなほどに騒がしかった大広間は静まり返っていた。彼女の熱と女性的な柔らかさだけが世界の全てだった。

 一拍置いて彼女から離れれば、真っ先に目に入ったのは先ほどよりも赤くなったコハルの顔だった。静かに目を開いたコハルの情緒的な視線が真っ直ぐにシンヤへと向けられる。それに魅入っていれば、一瞬静まり返った大広間は謎の拍手喝采で満たされ、あっという間に騒がしさが戻ってくる。

 その賑やかさは、最早雑音と呼べる域に到達していた。流石シンヤだの、人目を気にしない辺りがすごいだの、羞恥を理解していないだの、称賛とも貶しとも取れるような言葉の大雨を浴びながら、シンヤは肩を竦める。

 心臓は周囲の音にも負けない程度に一層煩くなったが、まだいつも通りを装えているはずだ。押し殺したように息を吐いて、シンヤは小さく呟く。


「はい。これで俺が君のものだっていうのはよく理解してもらえたでしょ? 水とってくるから、そこで大人しく――」

「足りない」

「……何て?」

「シンヤくんはいつももっと長く沢山してくれるもん!」


 どうしてしてくれないの、と言いたげな言葉だった。上半身を起こしたシンヤの両肩に手を置いたコハルは、そのまま力任せにそれを床に押し付ける。再び床に転がされたシンヤの顔を上から覘きこんだコハルは、赤くなった頬を膨らませていた。


「もっといっぱいしてほしい」

「……コハル、ここ人目があるから」

「いつもいっぱい、私がやめてって言ってもしてくるのに」

「コハル、ねえ、二人の時の話はその辺りで」

「恥ずかしがってる顔も可愛いねって無理やりにでもしてくるのにぃ!」

「コハル!」


 大声で晒される恋人の事情に、シンヤはとうとう叫んだ。限界である。コハルのことは誰よりも愛しているし、彼女は間違ったことなど何一つも言っていないが、だからこそ限界である。シンヤが人前で羞恥を噛み締めずに熟せるのは精々が抱擁くらいなもので、口付けの域ともなればそれなりの感情が付き纏うのだ。当然だ、シンヤにも当然感情がある。好いている女性を相手にするならば尚更、羞恥などの感情は大きく揺れ動くのだ。

 コハルとシンヤが恋人同士であることは周知の事実である。しかし、二人が何をしているのか、詳細な情報を知っている者はいないだろう。こうして大勢の前で口付けた挙句、様々な事情を暴露されれば、いくらシンヤでも平然とした顔を保つことは難しい。

 限界だった。本当に限界だった。

 必死に押し殺していた熱が、一気に顔に集中する。こちらを覘きこむコハルの瞳が丸く見開かれたのは、シンヤが浮かべた表情が珍しかったからだろう。

 彼女の前でだけは、格好悪い姿を見せたくなかった。常に冷静で落ち着いている、欠点のない男でありたかった。

 コハルと触れ合う際にどれだけ心臓が騒がしくとも、それを隠し通してきた。顔が熱くなるのだってどうにか誤魔化し続けた。結果として、コハルは余裕綽々の態度を貫くシンヤしか知らないはずなのだ。

 彼女は知らないのだ。いつだって自分と触れ合っているシンヤが、その実それなりに大変な想いをしているということを。破裂しそうな心臓の存在を隠しているだなんて、きっとコハルは夢にも思わないだろう。

 まさかこんな形でその像を崩されるだなんて、誰が思うだろうか?


「……シンヤくん、照れてる?」

「……照れちゃ悪い?」

「シンヤくんの顔が赤い」

「赤くなることくらいあるよ。生理現象だから」


 シンヤが苦し紛れに呟いた言葉を聞いて、コハルが瞬きを繰り返す。一度放たれた熱は中々収まらず、押し殺したいと思えば思うほど、頬に集中している気がしてならない。

 全身が熱いのは、全身を刺す数多の視線か、或いは、目の前にいる愛しの少女が真っ直ぐな視線で射抜いてくるせいである。

 たった一度の口付けで赤面をすることになるとは、不覚である。今すぐにでも自室に戻って籠りたいのだが、腹部に乗りあげたコハルがそれを許さない。コハルを押し退ければ実行は可能だが、彼女に対して乱暴な手段をとれるシンヤでは、勿論ない。

 沈黙が落ちた。シンヤが顔を背けても、コハルの熱心な視線の気配は撤回されない。シンヤにとってはこの上なく気まずい沈黙を破ったのは、他でもないコハルの、酷く愛おしそうな囁き声だった。


「シンヤくん」

「……何?」

「可愛い」


 この上なく不服な褒め言葉を紡いだ彼女の唇が、シンヤの目許に落ちた。驚いて肩を跳ねさせたシンヤを押さえつけるように、コハルの白くて柔い手が胸板に滑る。彼女の細腕でシンヤが抑え込めるはずがないのに、彼女を傷つけてはならないという意識が働くものだから、そうされてしまえばシンヤの抵抗の手段は奪われたも同然であった。


「ちょっと、コハル?」

「シンヤくんがしてくれないならもういいよ、私がするから」


 耳元で囁かれた言葉に、思考が停止する。その隙に目元、瞼、額、鼻先、と執拗に落とされる唇の感触だけが鮮明で、それがまたさらにシンヤの脳内を白くした。

 自分のものではないように、シンヤの体が硬直する。全く身動きがとれなかったのは、コハルに押さえつけられているから、という理由だけではないだろう。

 目を伏せたコハルは目を細めて妖艶に微笑むと、お返しと言わんばかりにシンヤの唇を自らの唇で塞ぐ。先ほどの一瞬の触れ合いよりも長く続いた口付けは、呼吸と思考をシンヤから簡単に奪っていった。

 熱が融けて混じり合う感覚がする。脳がくらりとしたのは、酸素不足だけが原因ではないはずだ。

 苦しくなって零した声はくぐもっていた。それを聞いたコハルが、静かシンヤの唇から距離をとる。呼吸を整えるシンヤの前で、コハルもまた乱れた呼吸を零していた。息が交わる至近距離で、コハルは嬉しそうに瞳を細めている。


「シンヤくんがやめてって言ってもやめない理由がちょっとだけ分かったよ。可愛いね、シンヤくん」

「……嬉しくない……」

「だってシンヤくんが赤くなってるところ全然見れないんだもん」


 この際だから堪能させて、と告げられて、再び唇が塞がれる。こうなってしまえば、彼女を止められる手段はない。止めようという意識すら削がれてきた。

 周囲から向けられる視線の雨も、囃し立てる声も、自身の顔の熱も、もうどうだっていい。

 自棄になったシンヤは、降参を言い渡すようにコハルの腰に腕を回した。コハルが触れあった唇の隙間から零した笑い声がやけに嬉しそうだったのは、きっと聞き間違いではなかっただろう。

 全部酒のせいだ。

全ての責任を酒に押し付けたシンヤは、現実逃避でもするかのように目を閉じる。執拗に押し付けられる唇は、もう既にどちらのものかも分からない体温に染まりあがっていた。



◆ ◆ ◆



 翌日、シンヤは自室に朝から籠って一歩も外に出なかった。否、コハルを起こすという日課だけは熟したものの、廊下で偶然顔を合わせた使用人達がシンヤのことを見て気まずげに赤面した後に視線を逸らす、という反応を見て、部屋に引籠らざるを得なかった。

 あれだけ泥酔していた元酔っ払いの癖に、昨晩の記憶を持ちこした者が大半だったのだ。自棄になった自分がやはり恨めしくなる。周囲をマナで気絶させてやればよかった、という物騒な後悔を抱いたシンヤは、寝具に身体を横たえて遠い目をしていた。


「ご、ごめんねシンヤくん。まさか私、お酒で酔ったらあんなになるなんて知らなくて」

「いいよ、大丈夫」

「全然大丈夫って顔してない! ごめんなさい!」

「平気だよ」


 シンヤの部屋にやってきてからずっと謝罪を繰り返しているコハルもまた、立派に記憶を持ちこしていた。その頬は、今日は正しく羞恥の感情によって赤らんでいる。眉尻が下がり、今にも泣きそうな顔をしたコハルもまた、今日は屋敷の中を出歩けないのである。

 何よりも彼女の記憶が消えてほしかった。ああいう形で弱点を晒されるとは思っていなかったシンヤは、微かな頭痛を覚えて目を細める。

 シンヤが普段以上に沈黙を選ぶせいか、コハルは謝罪を繰り返すごとに肩を落としていった。分かりやすい反省の態度を浮かべる彼女に、シンヤは小さく呟く。


「君、今後酒禁止ね」

「……はい……」

「飲むなら二人きりのときにして」


 それならいいよ、と付け足せば、コハルの表情がパッと明るくなった。聡明な彼女は、その一言がシンヤなりの許しであることに気が付いてくれたらしい。

 有難う、と微笑んだコハルは、安堵したように肩から力を抜いた。たったそれだけの動作で、自分の矜持を揺るがす出来事ですら、簡単に許せてしまう。恋愛は好きになった方が負けと言うが、正しくその通りだった。

 自分の真なる弱点を目の当たりにしたシンヤは、小さく肩を竦める。それすら愛おしいと思えてしまう辺り、酒よりも恐ろしいのはコハル本人だった。

 まあ、彼女にはたっぷり仕返しをすればいい。それで手を打つことを決めて、シンヤはその口端を小さく持ち上げる。そんな企みを知らないコハルは、無邪気に上機嫌な笑みを零していた。

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