寝坊 コハルの場合
・あのままリンが何も起こさずに、四人全員樹の里で穏やかな生活を送っていたらというifストーリー
・シンヤ×コハル
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コハルを起こすようになったのは、さて、いつからの習慣だったか。
薄暗い部屋の中で目を覚ましたシンヤは、自分の意識が攫われる前に、体を引きずるようにして寝具から抜け出した。わざわざ重い瞼を擦って、怠い身体を無理やり起こす。その行為が、寝起きの悪いシンヤにとってはそれなりに体力と気力を必要とする行為なのだが、それを毎日繰り返すのも、彼女のためなら苦ではない。
気怠い感覚を断ち切るようにして立ち上がったシンヤは、小さく息を吐く。
思い出されるのは、この里に来たばかりの自分の素っ気ない態度である。
自分に愛嬌や愛想といった言葉が似合わないことは、シンヤ自身にも自覚がある。そんなものを自分に備えるつもりは毛頭なくて、誰かに媚びて生きるくらいなら孤立したほうが心地いい。そう考えて生きているからこそ、シンヤは自分が他者からどのような悪口を叩かれても気にしない。そもそも興味がなかった。
しかし。
「――失くせるものなら失くしたいものだね」
過去に、彼女に対して吐き出した言葉の全ては、撤回したい。他の誰に悪く言われても気にしないが、コハルだけは対象外だ。コハルがもし過去のシンヤの言葉を思い出して傷ついた暁には、自分の腰に携えた剣で腹を突き刺す自信がある。
シンヤにとって、コハルは特別な異性だった。たった一言の『すき』という感情で納まるような、単調な存在ではない。
後悔先に立たずとは、こういうことを言うのだろう。シンヤは苛立ちを隠さずに声音に込めて、吐き捨てる様に呟いた。
黒い上着を羽織り、シンヤは自室の扉を開け放つ。眩い朝日に包まれた廊下に目を細めてから、自室の左隣に並んだ部屋の扉を無遠慮に開けた。
尚、これに関しては、コハルの双子であるヨルから『異性の部屋に躊躇いもなく入るのはどうなの』と幾度か注意されたことがある。
しかし、コハルはあくまでシンヤの声に起こされるのが好きだと主張した。扉を叩く音で起こしてしまっては、コハルの朝の楽しみを達成できなくなってしまう。寝起きの悪いシンヤがわざわざ早起きの習慣を身に着けたのは他の誰でもない彼女のためなので、彼の注意の言葉は毎朝華麗に無視することにしている。
コハルの部屋は、廊下と同じように朝日の眩さに包まれていた。開け放たれた窓から入り込む空気は澄み切っていて、肌を撫でる神秘的な空気が心地いい。樹の里独特の文化なのだから仕方がないとは思うし、それが齎す利点も理解できるが、その光景を見る度に不用心だと思わざるを得ない。
シンヤの故郷である湖の里は、樹の里ほど治安が良くなかったのだろう。この里は大精霊の結界で守られているのだし、条件は特殊であるのだから、当たり前の話ではあるが。
脳裏を掠めた湖の里という単語に顔を顰めたシンヤは、それを振り払うようにコハルが眠る寝具まで歩いていく。
その言葉は、半年前の記憶を鮮明に蘇らせる言葉だ。その記憶は、自分が湖の精霊であるというどうしようもない事実を破り捨てたくなる程度には、シンヤにとって不快なものだった。それでもシンヤが自身のマナを堂々と扱うことができるのは、それを見て喜ぶコハルがいるからだ。
綺麗なマナだね、と笑うあの眩い笑顔が、シンヤの心を何よりも支えてくれる。
半年前も、今も、コハルはシンヤの心に誰よりも寄り添ってくれる。そんな人物に好意を抱くのも、恩返しをしたいと願うのも、然程可笑しなことじゃない。
「コハル、朝だよ」
だからこそ、シンヤは半年前の自分が憎くて憎くて堪らない。
寝具を覗き込んだシンヤは、一瞬心臓が止まったかのような感覚を覚えた。それが全くの勘違いだということを、激しくなり出した心臓が主張する。早鐘を打つ心臓に伴って、全身の血が沸騰したような感覚がシンヤの体内を巡った。
眠っていると思ったコハルは、既に目を覚ましていた。けれど、明らかに様子がいつもと違う。
見開かれた薄桃色の瞳からは透明な雫が零れ、彼女の白い頬を濡らしている。彼女の表情は暗く、不作法にも寝具を覗き込んだシンヤを呆然と見つめていた。
――コハルを起こすようになったのは、さて、いつからの習慣だったか。
「あ、シンヤくん……」
「……どうしたの」
「えっと、ごめんね」
何故、の答えではなく、謝罪が帰ってきた。コハルがその白い指で目元を拭おうとするのを、シンヤが伸ばした腕が制止する。驚いたように見開かれたその瞳からは、絶え間なく涙が流れ続けていた。
垂れ下がった眉尻と蒼白い頬が、彼女の存在を酷く弱弱しく見せる。コハルとの距離を詰めるために寝具に乗り込んだシンヤを、咎める声はなかった。
黒い手袋を雑に外したシンヤは、素手でコハルの涙を丁重に拭ってやる。ぬるい雫が指先を濡らす感覚に、シンヤの胸が痛くなった。
「怖い夢でも見た?」
怯えさせないように、できる限り優しい声を自分の中で探す。こくり、と頷いたコハルの頭を抱き寄せると、控えめに背中に手が回ってきた。その細い腕に入る力が弱い。それを補うように思いきり抱きしめると、コハルは久しぶりに呼吸をしたかのように息を吐き出した。
「ごめんね」
「謝らないでいいよ。心細かったでしょ。来るのが遅れてごめんね」
「ううん、来てくれて有難う」
シンヤの肩口に顔を埋めたコハルは、小さな声で囁く。その姿が酷く儚く見えるのは、シンヤの加護欲やコハルへの思慕のせいなのだろうか。
コハルは時折、こうして悪夢に魘される。普段は底抜けに明るい少女だが、強い光は濃い影を生むものだ。目に見えるものが真実だとは限らないように、彼女も、表に出ている部分が全てとは限らない。
それをシンヤが初めて知ったのは、いつのことだっただろうか。
半年前、樹の里に連れ戻されて以降、シンヤとコハルの距離は少しずつ縮まっていった。その途中で、シンヤは彼女の影の部分を知ったのだ。
記憶喪失の影響か、或いは彼女の根本の性格の問題か、ともかく、コハルは一人で泣くことがあった。原因は悪夢だったり情緒の問題だったり、様々なものである。
何か理由があって早朝にコハルの部屋を訪ねた際に、過去のシンヤは初めてこの状態のコハルを見つけた。普段の感情豊かなコハルとは相反して静かに泣くコハルの姿を見て、言葉を失ったことを覚えている。
――コハルを起こすようになったのは、それからだ。
「コハル」
「なぁに?」
「泣いていいよ」
シンヤが一言囁けば、彼女の肩が跳ねた気がした。次の瞬間、氾濫を起こしたようにさらに大粒の涙を流し始めたコハルは、抑えきれなくなったように声を上げて泣きだした。
彼女がシンヤの声で起こされるのが好きだと言うから。特別な声で一日を始められるのが好きだというから。だから、眠い目を擦って早起きをする。どんなに気怠くても、そこにある感情の方が遥かに重要だったから。
でも、始まりはそうじゃない。
彼女が人知れず流す涙を掬う手になりたかった。彼女が何も気にせずに泣ける場所になりたかった。彼女が頼れる場所になりたかった。
ただ、彼女の救いになりたかった。
始まりは、それだけ単純なものだった。
「シンヤくん、シンヤくんはいなくならないよね?」
「いなくならないよ。どうして?」
「皆いなくなる夢を見たの。シンヤくんも、ヨルも、スズネちゃんも、リンも、樹の里の皆も。いなくならないよね、いなくならないでね」
「大丈夫。俺は君のための俺だから」
縋るように力が込められた腕に、答えるように抱きしめる力を強くする。シンヤの淀みない返答に頷いたコハルの肩は、酷く震えていた。
「俺は君が頼れる場所だよ。君を守るために生きてるし、君を守るためなら何だってする。君の側を離れるなんて、あるわけないでしょ」
「……うん」
「大丈夫、例え何かあって離れなきゃいけなくなっても、また絶対に見つけてみせるよ。試しに君の悪夢を聞かせてみて。そしたら、俺がなんとかしてあげる。君を襲う悪党も、君の好きなものを脅かす誰かも、全員俺が倒してみせる。そのために強くなったんだから」
安心させるように背を叩けば、コハルは小さく頷いた。涙に濡れて震えた声が紡ぐ地獄のような悪夢を、シンヤの言葉は一つ一つ叩き切る。
彼女のことは、誰にも傷つけさせない。ここ半年間で死に物狂いでマナの練習をしたのはそれを達成するためだし、その覚悟はいつまでも揺らがない。
シンヤはコハルを守るために生きている。半年前、彼女に守られてから、その決意が変わったことはない。
彼女を傷つける全てのものはシンヤの敵だ。だから、消せない過去の自分もまた、敵なのである。
殺せるものなら殺してやりたい。けれど、恐らく彼女はそれを望まないのだろう。
「すごく怖い人がね、私を追ってくるんだ。首に手を伸ばされたり、鋭い剣を向けてきたり。その仲間が、私の大好きな人達を殺していくの」
「じゃあ俺を呼んでみてよ。絶対なんとかする。俺が強いの、君が一番知ってるでしょ?」
「……うん」
「俺が負けそうなくらい、相手は強い?」
「……ううん、シンヤくんの方が強いんじゃないかな」
「じゃあ大丈夫。君のことを守りながら絶対に相手を倒してみせる。そしたら君も、君の好きな人達も、全員無事。ほら、解決。ね?」
シンヤの腕の中で頬を濡らすコハルが、そんな夢物語を聞いて僅かに笑い声を零した。
そうだね、と彼女の可笑しそうな声がシンヤの言葉を肯定する。夢で起きてしまった悲劇は書き換えることができない。だからせめて、現実のシンヤが彼女の手を引いて連れ戻さなければならないのだ。
そのためなら、例え夢物語だろうと何だろうと、シンヤは縋る。彼女の心を守るためなら、そのくらいは容易いことだ。
顔を上げたコハルの目許を親指で撫でる。
「コハル、目閉じて」
「分かった」
「赤くなってるから冷やすね」
手の平に少量の水を浮かせて、彼女の目許に当てる。冷たい水に溶けていく彼女のぬるい涙の感触は、シンヤの指先からは中々消えてくれなかった。
彼女の記憶か、或いは、何かからくる空想の恐怖か。夢の正体は分からない。分からないが、そんなものは関係ない。彼女を傷つけるのであれば、実在か空想かなどは、どうだっていい問題だった。
「いつでも頼っていいんだよ、コハル」
「迷惑じゃない?」
「まさか。君の泣ける場所になりたい。ならせてよ。これは、俺の我が儘だから」
いつも笑顔を振りまくコハルの特別になりたいのだ。いつだったか、コハルはシンヤを独占したいのだと語った。それは我が儘なことだ、と。
とんでもない。彼女が縋れる場所でありたいと願うシンヤの方が、余程我が儘を極めているだろう。独占なんて、いくらでもしてくれて構わないのだ。最初から、シンヤは余すところなくコハルのものなのだから。
目許に当てた手とは反対の手で、コハルの頬をゆっくりと撫でる。涙の痕を隠す様に親指でなぞりながら、シンヤはぽつりと呟いた。
「コハル、無理はしなくていいんだよ。君は君のままでいてくれればそれでいい。大丈夫じゃないときは大丈夫じゃなくてもいい。泣きたいときに俺を呼んでくれればそれでいい。助けてほしいときは、ちゃんと俺を呼ぶんだよ」
言い聞かせるような言葉だった。それは、コハルを気遣うものであると同時に、シンヤの懇願でもあったのだ。
素直にそれを受け入れたコハルが小さく頷くのを見て、シンヤも同じように頷く。恐らく、いつものシンヤとコハルが大広間に向かう時間はとうに過ぎているだろう。
ヨルはまた寝坊かと呆れた顔をしているだろうか。スズネは苦笑を零すのだろうか。
それで構わない。彼女の影を知り、それを支えるのは、シンヤの使命だ。そうでありたいと、シンヤ自身が望んだのだ。
目元から水を外せば、赤みは僅かに引いている気がした。最後の仕上げに瞼に唇を寄せると、くすぐったそうに笑ったコハルの顔が見えた。泣いた後で、無理をせずに笑ってくれるコハルの顔を見るのが好きだ。シンヤも釣られるように微笑んで、彼女の頭を撫でる。
「もう少しここで休んでいこう」
「いいの? もう大広間に向かってる頃じゃない?」
「寝坊したってことにしておけばいいよ」
堂々と嘘を吐いたシンヤのわざとらしい声音に、コハルはくすくすと笑い声を零す。「シンヤくんってば悪いんだ」と揶揄うように呟いた彼女を腕の中に閉じ込めて、シンヤはそうかなと恍けてみせた。
どんな嘘を吐こうと、悪人になろうと構わない。それで君を救えるのなら。
内心呟いた言葉を表に出すつもりはない。きつくコハルを抱きしめたシンヤは、そのまま寝具に倒れこんだ。
今はただ、腕の中にいるか弱い彼女の存在を確かめていたい。そうすることで、少しでもコハルの力になれる気がした。
シンヤはそう思って、縋る様に腕の力を強くする。そこにコハルがいる。それだけで、シンヤは誰よりも幸せだった。
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