寝坊 シンヤの場合

・あのままリンが何も起こさずに、四人全員樹の里で穏やかな生活を送っていたらというifストーリー

・シンヤ×コハル

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 シンヤという精霊は、何処までも無愛想で、無慈悲で、冷静。そんな性格の持ち主だった。

 湖のマナを使いこなし、圧倒的な戦闘力を誇る彼は、他者を寄せ付けない冷ややかな雰囲気を常に放っている。半年間樹の里に身を置いても尚、彼が親しく話す相手は片手で数えられる程度の人数しかいない。

 皆は彼のことを誤解しているのだ、と、コハルは常々思っている。

 自室で目を覚ましたコハルは、大きな欠伸を零した口元を両手で隠す。光が差しこんだ部屋の明るさを眠気の靄がかかった頭で確認して数拍。コハルの意識は徐々に覚醒していって、寝具の穴からひょこりと顔を覗かせる。自分の部屋に誰もいないことを確認した彼女は、その愛らしい顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かばせた。

 樹の精霊、コハルには、毎朝の楽しみが二つあった。

 一つ目は、シンヤの声で目覚めること。これを言うと大抵の人間が目を見開いて驚くが、シンヤはコハルにだけ特別甘い。その理由はこの際置いておくとして、彼がコハルにだけ聞かせてくれる優しい声音で夢の世界から現実に迎えられるのは、酷く心地が良い体験なのだ。目が覚めて真っ先に視界に入り込むのが愛おしい彼の姿であること、その彼が穏やかに笑っていること、コハルだけの特別な声で起こしてくれること。

 コハルの細やかな独占欲は、シンヤの朝の挨拶で簡単に満たされてしまう。その記憶を思い出すと、コハルはどんな時だって我慢できずに顔を綻ばせてしまう。

 しかし、それに負けない二つ目の楽しみがある。その二つ目の楽しみは、シンヤがコハルよりも先に起きていると成り立たない類のものだった。


「よぉし」


 寝具から飛び降りたコハルは、物音をたてないように、できるだけ静かに、できるだけ迅速に朝の支度を済ませる。軽い素材の寝間着からワンピースに着替え、上着を羽織り、リボンと造花で飾られたヘアバンドを装着すれば、いつも通りのコハルが完成した。

 コハルは躍る様な軽やかな足取りで部屋を飛び出して、右隣の部屋に、確認の声もかけずに入った。

 樹の里では、夜間窓を開いたまま寝るのが主流である。そうすると、窓から風が吹き抜けて心地よいのだ。しかし、この部屋の主はどんな時でも夜間に窓を開けようとはしなかった。この里はこの上なく安全だというのに、『敵が入ってきそうで落ち着かない』のだそうだ。樹の里出身ではない精霊に、樹の里独自の文化は肌に合わないのかもしれない。

 窓が閉め切られて薄暗いままの部屋の中、スズネは足音を殺して寝具に近付く。天井から吊り下げられた球根型の寝具の中で、黒髪の少年が深い眠りについている。コハルはそれを確認して、その頬を緩めた。

 二つ目の楽しみ。それは、シンヤを自分の声で起こすことだ。


「シーンヤくん」

「……んん……」

「シンヤくん、朝だよー。起きて起きて」


 今更躊躇うことはない。コハルは自ら寝具の上に入り込んで、シンヤの肩を揺さぶる。低い声で呻いた彼が逃れるようにシーツに顔を埋める様子を、コハルは愛おしい気持ちで満たされながら見守った。

 無愛想で、無慈悲で、冷静。彼と対面した誰もが、彼に対してそのような評価を下す。確かに初対面の人間にはそういった一面しか見せないのが彼の尖ったところだが、その先にある別の側面を、誰も知ろうとしない。コハルは、それが不思議でならなかった。

 彼の肩を揺さぶっていたコハルの手に、ゆっくりと重なる手があった。コハルの手よりも一回り大きく、また骨ばったその手は、確かめるようにコハルの手の甲を撫でやる。


「――コハル?」

「うん」

「あさ?」

「朝だよ」


 普段は研ぎ澄まされた刃のように鋭い目付きも、澄み切った水面のような冷ややかな声も、寝起きだけは違う。呂律が回り切っていない、掠れた低い声を聞いて、コハルは耐えきれずに小さく笑い声を零してしまった。

 その顔を凝視しているのは、深い青の釣り目気味な瞳である。眠気を物語るように細められたその目元を撫でれば、シンヤは容易くそれを受け入れた。瞳が心地よさそうに閉じられ、その後、ゆっくりと開かれる。その一連の流れを見ることができるのは、コハルにだけ許された特権なのかもしれない。

 寝起きのシンヤは、この上なく無防備だ。ヨルとの手合せで少しの隙も見せないシンヤとは、丸っきり別人のように。

 体を横たえたまま身じろぐこともしないシンヤは、自身の手で乱雑に目元を拭った。それで漸く、先ほどよりも瞳が開かれる。彼が夢の世界から徐々に覚醒していくまでの間は、コハルが覚醒するよりも遅い。

 この半年間、生活を共にして分かったことだが、シンヤは寝起きが悪いのだ。そもそも、彼は深夜の活動を好む節があり、就寝時間が遅い。里に来てばかりの頃はよく深夜に里を徘徊していたので、ヨルとコハルが二人掛りで寝具に押しこむ、なんてことも多々あった。

 最近になって漸くコハル達と同じ時間に就寝するようになったのだが、それでも寝起きの悪さだけはいつまでも変わらない。寝起きのシンヤは普段格好つけているのが嘘のように幼く、可愛らしいので、その姿を見るのは、コハルにとってはこの上ない贅沢であり、喜びであった。


「まだ寝てる?」

「……あと五分」

「それで起きれたことないけどね」


 コハルが笑いながら返答すると、シンヤは僅かに口元に笑みを零して「そうだっけ」なんてとぼけて見せる。彼が五分で起きると言って起きた経歴はない。大抵は満足するまで居眠りするし、そうしなかった時のシンヤの期限は、まあ最悪だ。コハルに対しては特に変化がないが、その周囲への対応が普段よりも雑になる。ただでさえ無愛想な性格に拍車がかかるものだから、寝不足のシンヤの周りにはコハル以外は近寄らない。他に立ち寄ることを許されるのは、ヨルくらいなものだ。ヨルはヨルでいつにも増して口喧嘩が耐えなくなるため、そういう日はコハルがこっそり隔離するけれども。

 彼が「あと五分」を何度か繰り返しながら、コハルの傍らで少しずつ目を覚ましていく光景を見るのが好きだった。勘違いしないでほしいのだが、コハルは彼の睡眠妨害をして楽しんでいる訳ではない。満足するまで眠ってほしいのは勿論だが、如何せん、寝惚けるシンヤを見ることができる機会はそう多くない。だから、この機会に堪能しなければならない。それは、使命感にも近い感覚だった。

 シンヤは寝起きがすこぶる悪い。スズネほどではないにせよ、一度起きることを拒絶したらそれを受け入れるまでに時間が掛かる。けれど、彼がいつも寝坊しないのは、一重にコハルの一つ目の楽しみを守ろうとしているからだ。

 コハルがシンヤに起こされるのが好きだと零して以来、彼は欠かさずコハルよりも早起きする生活に切り替えた。コハルが目を覚ませば、そこには自分のために早起きをしたシンヤの姿がある。

 酷く幸福感に満ちた時間だが、それはそれとして、寝惚けたシンヤを見るのも好きなのだ。だから、彼が珍しく起き損ねたこういう日は、その姿を堪能しなければならない。律儀な彼が次に寝過ごすのが何時になるか分からないからだ。


「シンヤくん、五分経ったよ?」

「……あと五分」

「はいはい」


 布団を被りながら子供のような駄々を繰り返すシンヤに、コハルはにこやかに笑いながら返答する。この時間は、例えヨルにだって邪魔されたくない貴重な時間だった。

 シンヤの艶やかな黒髪を、コハルの手が撫でる。少し寝癖のついた場所を繰り返し撫でると、跳ねた髪の毛はすぐに真っ直ぐに戻っていくのだ。指通りの良い髪の毛はいつまでも触れていたくなる触り心地で、シンヤが起きるまでこうしているのも、コハルに許された贅沢だった。

 これがコハルでなければ、シンヤは今すぐにでも飛び起きて手を払うことだろう。というより、コハルかヨル相手でなければ、彼は寝具へ近づくことを許さない。寝起きの彼から全力のマナを喰らうことになるので、眠っているシンヤに近付いてはならない、というのが、里内での暗黙の了解だ。

 シンヤは恐ろしい精霊だ、と顔を蒼くした住人の姿を思い浮かべる。それから、コハルはゆるりと首を横に振った。

 シンヤは、この上なく格好良くて、可愛い。彼が恐ろしいのは、彼のことをよく知らないからだ。

 コハルが猫を撫でるような気持ちで髪の毛の上で手を往復させていると、それまで眠っていたはずのシンヤが大きく身じろいだ。布団から伸びた手がコハルの手首を掴む。


「シンヤくん?」


 珍しく返答はなかった。撫でるのが睡眠の邪魔をしただろうか、と腕を引っ込めようとした矢先、彼の手には瞬間的に力が籠る。ぐい、と力任せに引き寄せられたコハルは、予測をしていなかったこともあり、簡単に寝具の上に倒れこんでしまった。


「わっ」


 すぐ近くにシンヤの顔がある。横たわった身体は隣り合っていて、少しでも身じろげば全身がくっついてしまいそうな距離感だ。

 コハルが大きく目を見開いて瞬きをするのを、シンヤの寝ぼけ眼が見守っていた。一等穏やかな光を灯す彼の瞳に吸い込まれそうになりながら、コハルは呆然として呟く。


「どうしたの?」

「君も一緒に寝ようよ」

「……二度寝のお誘い?」

「そう。どうせなら一緒に寝坊しよう」


 寝坊の自覚はあるらしい。シンヤは優しい手付きでコハルからヘアバンドを奪い取ると、枕元に置いた。そのまま、自分の体を包んでいた布団を腕ごと広げてコハルの身体を抱き留める。布団とシンヤの腕に抱き込まれて、コハルはあっという間に身動きがとれなくなってしまった。

 眠気のせいか、普段よりも高いシンヤの体温に温められたシーツと布団がコハルを包み込む。胸板に頭を抱き寄せられてしまえば、元々力のないコハルが抵抗できるはずもなかった。

 シンヤの眠気を帯びた声が、直ぐ耳元で聞こえる。それが何だかとてもくすぐったくなって、コハルは思わず小さな声を上げて笑ってしまった。


「シンヤくん、こういうときは起きる努力をするんだよ」

「嫌だ」

「我が儘」

「君が嫌じゃないの知ってるからね」


 やけに明瞭な声で断言されて、コハルは笑い声を零す。こういった他愛のないやりとりをするのも、何より愛おしい時間だ。

 コハルの背中に回ったシンヤの腕に、逃がさないと言わんばかりに力が籠る。逃げるはずがないというのに。コハルは促されるまま、額を胸板にくっつけて、誘われるままに目を閉じた。


「ヨルとスズネちゃん、待ってるんじゃないかな」

「ヨルなら察する。新人はまだ寝てるに一票」

「ふふ、そうかもね。じゃあ、もう少しだけならいっか」

「うん」


 先ほどコハルがしたように、今度はシンヤの手がコハルの髪の毛を優しく撫でていく。何だか懐かしさを覚えるその感覚に、コハルは穏やかに全身の力を抜いた。

 こんなに優しいシンヤの、何処が怖いのだろう。無愛想で、無慈悲で、冷静。そんな言葉が似合わないとすら思えてくる温もりに、コハルは頬をすり寄せる。

 皆、シンヤのことを知らないだけだ。

 でも、それも悪くない。そう思ってしまうのは、コハルの細やかな独占欲と乙女心のせいである。

 誰もがこの優しさに触れることがあったら、少しだけ嫉妬してしまう。彼には早く里に馴染んでほしい反面、自分の特別も守りたい。

 この相反した感情を我が儘だと称するのなら、コハルはとんでもない我が儘だ。自分のことをそう思ったコハルは、目を閉じたまま、ぽつりと呟く。


「シンヤくん。シンヤくんにずっとこのままでいてほしいって思うの、我が儘かなぁ」

「このまま?」

「私の特別でいてほしいなって、思うこともあるんだ。皆とは仲良しになってほしいけど、やっぱり私のシンヤくんでいてほしい」


 我が儘かな、と重ねて尋ねれば、シンヤから返ってくるのは沈黙の数拍だった。ゆるりと目を開いて顔を上げれば、シンヤもまた目を見開いていた。

 驚いたような顔である。何か変なこと言った? と尋ねたコハルに、シンヤは「いや」と口籠る。

 その数秒後、彼は酷く愛おしそうに目を細めて、口端を持ち上げた。その柔らかい微笑みは、コハルと二人きりのときにシンヤが時折見せる表情だった。


「嬉しいよ」

「……嬉しい?」

「うん。そんなの我が儘じゃないし、嬉しい」

「独り占めしたいって言ってるんだよ?」

「してよ、独り占め」


 シンヤはそう言い切ると、コハルの前髪を指で退かして、額に唇を寄せる。額に触れた柔らかい感触に目を見開いたコハルを、シンヤの熱の籠った瞳が見据えていた。


「俺は君のものだし、君は俺のもの。いつまでもそれでいいと思うよ、俺は」

「我が儘じゃない?」

「どこが。当たり前のことを当たり前っていうことが我が儘なら、世界には我が儘な奴らしかいないよ。細やかで慎ましい願い事で吃驚した」


 面白そうに笑い声を零したシンヤは、そう言って再び目を閉じる。彼の声は分かりやすく上機嫌だった。無邪気に笑い声を零すことは、コハル相手にも滅多に見せない珍しい姿である。

 そんなに嬉しいことを言った覚えはないのだが、シンヤの寝顔は満足そうだった。それを見るだけで、コハルは胸の内が満たされていく気分になる。


「……そっか」


 その一言を最後に、コハルは再び目を閉じた。脳内には、先ほどのシンヤの言葉が巡っている。

 どうやらコハルは、シンヤを独り占めしてもいいらしい。この上ない幸福感の波が訪れて、コハルは口元が緩むのを我慢できない。シンヤの腕の中ですっかり眠る体制をとって、彼女は静かに呟いた。


「有難う、シンヤくん」

「どういたしまして」


 コハルに返答した声は、随分と眠気を蓄積しているようだ。それを聞いて、コハルは口を閉ざす。

 目が覚めたらもう一度、その台詞を言ってもらおう。そんな期待を胸に疼かせながら、コハルも僅かに込み上げてきた眠気に少しずつ体を預けていく。

 閉め切られた窓からは、朝日が入ってこない。朝だというのにその訪れを感じさせないこの部屋は、コハルの部屋と比べて少しだけ物寂しい。

 けれど、近くに体温があるだけで違う。コハルはその体温を求めるようにシンヤの背中に手を回して、小さく笑った。

 コハルの朝の楽しみは、これだから楽しみと称される。夢のような居心地の良い体温に身体をすり寄らせながら、コハルは本当の夢の世界へと飛び立った。この上なく満ち足りた気分だった。

 仲睦まじく寝坊した二人を見て、呆れた顔をするヨルと苦笑したスズネの姿があったことは、言うまでもないことである。

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