寝坊 ヨル・スズネの場合 【後編】

 夢を見た。酷く幸せな夢を。

 ヨルは重い瞼を擦って、周囲が明るいことを確認する。……朝である。

 寝起きの倦怠感を振り払うように上半身を起こして伸びをしたヨルは、次の瞬間、まだ眠気に浸っていたいと主張する瞳を見開くことになった。


「……スズネ?」


 寝具の丸い出入り口から、ヨルの椅子に座って眠っているスズネの姿が確認できた。背凭れに身体を預けて心地よさそうな寝顔を晒す少女の姿に、寝起きで回らないヨルの脳内はさらに空白に塗れることとなった。

 何故彼女がここに? いつから? なんで?

 脳内を満たした疑問に応答の声はない。驚きのあまり、眠気が余韻ごと何処かへ去ってしまった。

 物音をたてないように寝具から出たヨルは、困惑したままスズネのことを見下ろす。

 眠っている。完璧に。完全に。疑いようもなく。

 穏やかな寝息は継続的に続き、ヨルが近づいても途切れる気配がない。


「スズネ。スズネってば」


 声を掛けても起きる気配が全くない。躊躇った末に肩を軽く叩くと、閉ざされていた彼女の瞳が薄っすらと開かれた。白藍色の瞳が朝日に照らされると同時に、ぼやりとヨルのことを映し出す。その瞳に映り込んだ自身の顔は、自覚できる程度には深い困惑を滲ませていた。


「どうしてここで寝てるの? え、ここ僕の部屋だよね?」


 返答はない。瞼がゆっくりと上下することから、彼女が起きていることは明らかなのだが、意識が伴っていないらしい。

 というのも、スズネの寝起きは――包み隠さず、的確に表現する言葉を選ぶなら――最悪という二文字に尽きる。

 彼女が寝坊をした日に、それを起こしにいったコハルが「全然起きない」と驚愕して大広間に戻ってきた。あのコハルの大声で起きないとは何事かとシンヤとヨルはざわつき、コハルの冗談を疑ったが、決して冗談ではないのだと強制的にスズネの部屋に連行された。女の子の部屋に入るのは気が進まないというヨルの拒絶、興味がないというシンヤの抵抗は虚しく、二人はコハルの腕でスズネの部屋に押しこまれた。

 スズネは寝具の中で今のように眠っていた。試しに声を掛けてみて、などとコハルが言うから、ヨルとシンヤが二人で声を掛けたところ、スズネの瞳は案外簡単に開いた。

 なんだ、起きるじゃないかと肩透かしを食らった、次の瞬間のことだった。


「おきてますよ」


 にへら、という効果音が付属しそうな緩い笑みを浮かべて、スズネが呟く。辛うじて言葉になっている程度の曖昧な発音で紡がれた言葉がヨルの鼓膜を撫でた。

 そして、スズネの瞼は再び閉じる。数秒もしない内に寝息が聞こえた。

――これである。スズネの寝起きはこれだから最悪なのだ。

 こうなると、もう暫く彼女は起きない。スズネが覚醒するまでに必要な時間は凡そ一時間である、というのが、三人で出した結論だった。ここ一ヶ月の間で繰り返された検証の末に導きだされた答えである。

 当時と全く同じやりとりが起きた。目の前の光景に目元を抑えたヨルは、どうしたものかと彼女の寝顔を見守る。

 何もしないとはいえ、眠っている異性と二人きりなのは気まずい。流石に、精霊も人間もその辺りの感覚は変わらないだろう。

 彼女がここにいるということは、シンヤとコハルは既に大広間にいるのだろうか。予測できることは、自分が寝坊して、スズネがそれを起こして来いと言われたという展開である。大いにあり得る。スズネの遠慮がちな性格を考慮すると、眠っているヨルを目の前にして起こせず、かといってシンヤとコハルの世界に染まった大広間にも戻れず、といったところだろうか。

 ヨルの目覚めを待つ内に、自分が眠ってしまったのかもしれない。ヨルは脳内でそう考えて、静かに肩を竦める。

 この寝起きの悪さを、何処となく知っている気がした。そう思うのは、先ほど見た幸福な夢が原因かもしれない。

 時折、記憶の断片を夢として見ることがある。その夢は現実に立った瞬間に急速に色褪せていくので、目覚めて覚醒した後にはその内容を殆ど覚えていない。夢はいつも、触れることができない幸福感や無力感をヨルの胸に残して消えていく。

 今日の夢は幸福感を残していった。しかし、珍しいことに、その夢は僅かにヨルの記憶の中に残留していた。


「……寝坊助」


 確か、ヨルの大事だった人も、寝起きが最悪だった。ヨルはそれを眺めるのが好きで、どうしようもなく愛おしくて仕方がなかった。夢の足跡は、それをヨルに教えてくれた。

 いつも彼女の髪を撫でたり、或いはその頬を突いたりして、彼女が起きるのを気ままに待ったのだ。本当は起こして直ぐにでも話したい時もあったのだが、無理に起こしたところで、寝起きが最悪な彼女とは会話にならない。という訳で、彼女が自発的に目覚めるまでの待ち時間を有意義に過ごすために、ヨルは彼女に細やかな悪戯を仕掛けて戯れていたのだ。

 その時のことを思い出す。夢の中の自分は、彼女の頬に指を滑らせて、それから。

 無意識にヨルの指がスズネの頬に触れた。指先を受け入れた無防備な頬が、柔らかい感触を鮮明に伝えてくる。弾力性と柔軟性に富んだ感触が癖になりそうである。

 無心で頬を突く、そんな時間が続く。何処か懐かしいのである。何か思いだせそうなのである。この感触はなんだったか――喉まで出かかった感想は、ヨルが零す前に塞き止められる。


「……ヨルさん?」

「……あっ」


 何度も頬を突かれて、流石に目を覚ましたらしいスズネの、寝惚けた視線がヨルに向けられる。その言葉は普段よりかは不明瞭な発音だったが、本気で眠気に溺れている彼女の声とは違う。彼女が幾分か覚醒しているという証拠だ。

 ヨルは慌ててその手を引っ込めた。眠っている異性の頬に触れるだなんて、酷く無遠慮なことをした。緩慢な瞬きを繰り返すスズネが、いつものようにこのまま寝落ちればいい――というヨルの願いも虚しく、先ほどまで触れていたスズネの頬が真っ赤に染まった。見開かれた瞳の中に、釣られるようにして赤面したヨルの姿が見える。

 数拍落ちた沈黙の後、スズネは、今にも消え入るような声で呟いた。


「……これには、訳があって」

「……僕の方にも、少し訳があって」

「……お互い様ですね」

「……そうだね」

「……忘れましょう」

「……そういうことにしよう」


 会話というには空白がありすぎるやりとりを超えて、二人は静かに同意を示し合う。互いの寝顔を見たことも、スズネがヨルの部屋でうっかり寝たことも、ヨルがスズネの頬にうっかり触れたことも、全て夢。そういうことで話がまとまった。

 手で顔を仰ぎながら、頬に集まった熱を逃がす。その隣でそそくさと立ち上がったスズネは、自身の両頬を手で抑えて恥ずかしそうに目を伏せた。


「あの」

「……何?」


 無かったことにするとはいえ、彼女としては眠っている間に勝手に触れられたと言う事実は耐え難いだろう。寝顔を見ただけの彼女とは違うのだ。

 どんな罵りが飛んでくるのだろう。僅かに心の準備をしたヨルの前で、スズネは蚊の鳴くような声で囁く。


「涎、垂らしてませんでしたか」


 かく、と体が揺れた。糾弾の声を飛ばすのかと思えばそんなことを気にしていたのか。

 やけに恥ずかしそうにしながら、スズネは懇願するような眼差しをヨルに向けている。その眼差しの奥に、ヨルは微かに今日の夢のことを思い出した。

 ヨルの隣で目を覚ました彼女が、自分の寝顔を見られていたことを知ってその顔を赤く染め上げた。そしていつも決まって、こう言った。


『涎、垂らしてなかった?』


――今日の夢でもそんなことを言われた気がする。

 何故今になって思い出すのだろう。ヨルの沈黙をどう解釈したのか、赤かったスズネの頬は徐々に蒼褪めていった。眼前の少女がカタカタと小刻みに触れ出したことで、漸くヨルは正気に戻って首を横に振る。


「いや、大丈夫だったよ」

「い、今の間は、あの、気を遣わないでください、お見苦しいものを本当に、本当にすみません」

「いや、今の間は違くて。少し夢のことを思い出してたんだよ。本当に大丈夫だから安心して」

「夢?」


 慌てて補足を入れたヨルの言葉を聞いて、スズネが小首を傾げる。長い黒髪がそれに合わせて揺れるのを見ながら、ヨルはゆっくりと頷いた。


「多分、昔の夢。僕の大事な人はキミみたいに寝坊助だったみたいで、それを思い出してたんだ」

「ああ、成程」


 あからさまに安堵の息を零した彼女は、蒼褪めた顔色を元に戻して微笑んだ。少し前に、彼女も、記憶の断片で大事な人がいたのだと語ってくれたことがある。思い出せないけれども大事な人がいた、という情報は、二人の共通点だった。


「会えるといいですね。大事な人に」

「そうだね。お互いに」

「そしたら、ちゃんとヨルさんが起こしてあげなきゃですね」


 穏やかに笑うスズネの言葉に、ヨルは小さく頷いた。

 いつか会えるかもしれない彼女は、もう既に寝起きの悪さを克服しているかもしれない。或いは、ヨルのいない何処かでまだ眠っているのかもしれない。

 どちらでもいい。ただ、彼女に会いたい。

 胸の奥で疼いた衝動に、ヨルは苦笑を零す。その願いが叶うのが何時になるかは分からない。そもそも彼女が何処にいるのか、今どうしているのかは、ヨルには分からないことだった。

 それでもいつか会えたら、そのときは、彼女の寝顔を見ることもあるのだろうか。

 そうだといいな、と思う。淡い期待と希望に胸を疼かせながら、ヨルは小さく微笑んだ。


「さあ、大広間に行こう。二人が待ってるから」

「はい!」


 何処かでキミも待ってくれているといい、なんてことを思う。そんな気持ちを込めた一言に返ってきたのは、スズネの声だけだった。そのとき浮かべた笑顔は、内心の虚しさを取り繕う仮面である。

 二人はヨルの部屋を後にして、屋敷の長い廊下を歩き始める。いつかはここを彼女と歩くときが来るのかもしれない。

 そんな未来に想いを馳せながら、ヨルは静かに目を伏せた。

 太陽が酷く眩しい、少し遅い朝の話である。

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