眠る春の夜に鈴が鳴る。ー番外編ー

深夜みく

寝坊 ヨル・スズネの場合 【前編】


・あのままリンが何も起こさずに、四人全員樹の里で穏やかな生活を送っていたらというifストーリー

・ヨル×スズネ

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 朝起きたら、屋敷の大広間に集まるのが決まりだ。誰かが明確にそう教えてくれたわけでも、そう提案したわけでもないが、それは四人の中で確かな習慣になりつつある。

 眠い目を擦ったスズネは、寝起きの覚束ない足取りで大広間まで歩いてくる。途中で通りかかった使用人が面白そうに吹き出すのを不思議に思いながら、スズネは静かに扉を開けた。


「おはようございます」

「スズネちゃん、おはよ!」


 扉が完全に開くと同時に飛んできた甲高い声に、スズネは笑顔を零す。彼女の溌剌さには、朝も夜も関係ない。一日中、等しく元気の良い少女――コハルは、大輪の花が咲き誇ったような満面の笑みをスズネに見せてくれた。

 大広間に設置された椅子に腰かけたコハルの隣には、当然という顔で黒髪の少年が座っている。スズネを一瞥したきり視線も挨拶も向けてこないという、見事な無愛想さを朝から輝かせている彼の名は、シンヤ。

 スズネが樹の里にやってきて一ヶ月が経過した。スズネは、未だに彼に朝の挨拶を返してもらったことがない。特別スズネが嫌われている訳ではなく、シンヤは初対面の人間には平等にそういう態度を貫くのだという。そういった説明をされたこともあり、スズネも流石に慣れてきて、挨拶を流されて傷ついたのは最初の一週間だけだった。


「シンヤさん、おはようございます」

「ん」


 それに、最近では一音だけ返ってくるようになった。大きな進歩である。

 二人に挨拶をしたスズネは、ふと首を傾げた。大広間の何処にも、あの少年の姿が見当たらない。

 スズネは寝起きが然程よくない。彼女が起きて大広間に向かう頃には、他の三人はとっくに集合しているのである。たまに寝坊をして、シンヤに呆れた顔をされることも珍しいことではないのだ。

 スズネは困惑した。今朝の寝起きはいつも通りである。寝具から身体を引きずり出すまでの壮絶な格闘を思い出しながら、スズネは遠慮がちにコハルに尋ねた。


「あの、ヨルさんは?」

「見てないよ。まだ寝てるんじゃないかな」

「珍しいですね」

「そうでもないよ? 確かにここ一ヶ月は寝坊しなかったけど。それはスズネちゃんの手前、格好つけてたんじゃないかなぁ」


 朗らかに笑ったコハルは、そこまで言うと「そうだ」と両手を合わせる。その薄桃色の瞳が輝くのを見て、スズネは何となくその場から逃げ出したい衝動に駆られた。

 彼女がこういう顔をするときは、大抵、突拍子のないことを言いだすのだ。その眼差しが自分に向けられている状況に、スズネは思わず数歩後退する。しかしその程度でコハルの提案を防げるはずもなく。


「スズネちゃん、良ければヨルのこと起こしてあげて!」

「……わ、私、が?」

「ヨルもそろそろスズネちゃんに慣れないとね。一度無防備なところ見せたら、あとは安心して寝過ごせるし!」

「シンヤさんやコハルさんが起こしたほうが、喜ぶと思いますが。シンヤさん、ヨルさんが寝坊したらマナで起こすっていう習慣があったのでは……?」

「別に俺はそれでもいいけど」


 シンヤの視線がコハルに注がれる。コハルはそれを受けて首を横に振った後、「駄目駄目」と明確にその提案を却下した。


「ヨルがスズネちゃんに慣れなきゃ意味ないの。シンヤくんは私とここでお留守番、ね?」

「そういうことらしいからさっさと行ってきな、新人」

「か、変わり身が早すぎますよ、シンヤさん!」

「アイツを起こす時間とコハルと一緒に過ごす時間の重要性を比べたら当たり前でしょ」


 さっさと行け、と促す彼の瞳は、『コハルと早く二人きりにしろ』と明確に物語っている。頑張ってね、というコハルの笑顔と、何処となく圧を感じさせるシンヤに見送られて、スズネは大広間を後にする。

 見送りというより、半ば強制的に追い出されたような、そんな気分だった。

 困惑と戸惑いで胸を満たしたスズネは、その感情を抱いたまま、恐る恐ると屋敷の廊下を歩きだす。

 ヨルの部屋に立ち入るのは、これが初めてだった。

 ヨルと言う少年は、盗賊からスズネを守ってくれた、勇敢且つ優しい性格をしている。いつでも穏やかな微笑を浮かべているが、その実、何処か壁を感じることも多々あるのだ。所謂『お客さん』扱いというか、そうではないのだ、とは口が裂けても言えないが、コハルやシンヤと戯れるヨルを見ていると、疎外感を覚えることがあるのも事実だった。

 コハルはそんなスズネに気を遣ってくれたのかもしれない。そんなことを思ったスズネの足取りは、一枚の扉の前で止まった。

 ヨルの部屋だ。込み上げてきた緊張感に背筋を伸ばしながら、スズネは控えめに扉を軽く叩いて見せる。コンコン、と硬質な音に続く返答は、ない。


「……ヨルさん、失礼しますね」


 声をかけてから扉を僅かに開く。隙間から覘ける部屋の中には、ヨルが起きて活動している姿はなかった。開け放たれた窓から優しく差しこむ朝日が部屋中を満たしている。

 スズネは、静かに入室した。それを咎める声はいつまでもなかったし、代わりに、規則正しい寝息が聞こえてくる。


「あの、ヨルさん」


 入り口付近で名前を呼ぶも、返答はない。沈黙の数秒が流れていくのを確認して、スズネは意を決して球根型の寝具に近付いた。

 スズネの目当てはヨルを起こすことなのだが、眠っている人物の傍らで足音を出すのは躊躇われた。足音も、自分の呼吸すらも押し殺したスズネは、こっそりと寝具を覗き込む。

 細い枝と枝で編み込まれた独特の形状を誇る寝具の中で、ヨルは確かに眠っていた。普段の格好いい微笑とは違う、あどけない寝顔に、何だかいけないものを見ている気がしてくる。

 スズネは心臓を騒がせながら、静かにヨルの顔を見つめ続けた。

 声を掛けるのを、躊躇ってしまう。スズネは唇を堅く結んで、すやすやと心地よさそうに眠るヨルの姿を見守った。

 ヨルの容姿は、十六歳程度に見える。精霊は人間よりも長寿で、また、外見は年齢に伴わないというから、記憶喪失になってしまった彼の実際の年齢は分からない。けれど、見た目だけでいうなら、スズネやシンヤよりも彼の方が多少幼いのだ。勿論、彼と双子のコハルも。

 整った顔立ちをしているが、どちらかというと童顔寄りと言えるだろう。落ち着いていて、爽やか且つ優しい態度は酷く大人びているのに、どうしても年下だという感覚がするのは、そういったことに要因があるかもしれない。

 普段は余裕を滲ませる笑みを携えている彼が、こうして無防備な寝顔を晒していると、そういった感覚は普段よりも強くなった。

 彼は命の恩人である。命の恩人相手に、しかも男性相手にこんなことを思うのは失礼に値するかもしれないが、スズネは我慢しきれずに、ぽつりと呟いた。


「……可愛い」


 そう、彼は可愛いのだ。勿論、格好良さを否定しているわけではない。格好いいけど、可愛いのだ。

 純白のシーツの海に包まれた彼は、スズネの呟きに一瞬身じろいだ。起こしてしまったか、と飛び退こうとした次の瞬間、再び穏やかな寝息がスズネの鼓膜を擽る。

 どうやら寝返りを打っただけのようだ。激しい動悸を落ち着けるように安堵の息を零して、スズネは静かにヨルの寝顔を見守った。

 銀灰色のふわふわとした髪が朝日に照らされて輝いている。眠っているという無防備な姿も相まって、それを無性に撫でたい衝動に駆られたが、そんなことはできるはずもない。伸ばしかけた右腕を左手で制したスズネは、その場から静かに数歩後退する。

 寝顔をいつまでも見ているのは不躾にもほどがある。しかし、ここまで心地よさそうに眠っているヨルを起こすのも躊躇われた。起こせませんでした、と報告しに返ったとして、大広間では恐らくシンヤとコハルの二人きりの世界となっているだろう。そこに単身で向かうのは気まずいし、シンヤからの「邪魔するな」という視線に刺されて死んでしまいそうだ。

 結果として、スズネはヨルの部屋に設置されている長椅子に座らざるを得なかった。

 長椅子の上に姿勢を正して座ったスズネは、無音の部屋の気まずさに居た堪れなくなって肩を竦める。勝手に入室した上に、起こすこともせず、かといって退室することもしないスズネのことを、目覚めたヨルは怒るだろうか。

 スズネは、ヨルに怒られたことがない。

 彼を庇うという形で邪魔をしてしまったときも、里に来てから何かしら粗相をしでかしても、彼は軽く注意をするか、優しく笑って「大丈夫」と言うばかりで、決してスズネを責めたことがなかった。

 優しい。その優しさが、彼の性格故なのか、スズネと彼の間にある壁故なのかは、分からない。

 多分後者だろうな、と、スズネは思っている。コハルやシンヤに対する、壁も容赦もないような態度を一ヶ月間近で見続けている疎外感からそう思うのかもしれないが。

 怒られたら、その疎外感や壁は何処かに消えて無くなるのだろうか。もっとヨルとの距離が縮まって、遠慮がなくなって、仲良くなることができるのだろうか。

 もしそうだったらいいなと、思う。淡い期待にも似た感情が、スズネの胸の内で疼いていた。

 朝日が眩しい。静かな部屋で背凭れに寄りかかっていると、寝起きに格闘した眠気が再び込み上げてくる気配がした。眩さに堪えるように目を閉じてしまえば、後は眠気が自然と瞼を開けることを拒絶する。

――少しだけ、眠ってしまおう。ヨルが起きる前に起きればいいのだし。

 最後に残された理性が心の中でそう囁いた。

 睡魔に塗れた理性の欠片など、最早理性ではなく本能である。それにすら気付かないまま、スズネはあっさりと意識を手放した。

 浅い眠りは、スズネに記憶の断片を見せつけた。淡い色で彩られた世界の中で、スズネの記憶の中にいる『誰か』が呆れたように笑っている。


『キミは本当に寝坊助だね』


 面白そうな、心底愛おしそうな声に、スズネは重い瞼を開けることができない。そんなことないよ、と反論したつもりの口は上手く動かずに、言葉として成り立っていない音をその場に零す。それを聞いて、『誰か』はまたくすくすと笑い声を零した。

愛おしいなぁ、と、思う。その誰かも、そんな他愛のない時間も。

幸せな夢を瞼の裏に描きながら、スズネは静かに眠りに落ちた。二人分の寝息が、朝日で満ちた部屋の中で重なった。

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