第二話 絶対に忘れたりしないから

 初めての恋心に戸惑った私は、親友のリッちゃんに交換ノートで想いを打ち明けた。すると翌日には「私も神代くんが好き」という返事が来て、それはまるで「抜け駆け禁止」とでも言いたげだった。そもそも私は想いを伝えるつもりがなくて、ただ好きなだけで十分だったので、友情にヒビを入れる気は全くなかった。

 リッちゃんに言われるまま「どうなっても恨みっこなしね」と約束をして、まるで芸能人でも追いかけるみたいに、神代くんへの憧れをノートへ書き連ねた。


 お昼休みにサッカーしてたね。

 シュート決めててかっこよかったね。

 昨日のテストも満点だったんだって。

 私立中学とか行っちゃうのかな。

 ちがう学校になるのいやだね。

 ずっと仲良くできたらいいね。


 学校のそばの文具屋さんで買った、表紙に黄色いクマの絵が描かれたノートの中に、キラキラした想いのかけらがいっぱい詰め込まれていった。

 神代くんが、ずっと自分たちの近くにいるものだと信じていた。大人になったらお嫁さんになりたい、なんて無邪気なことを言い合ったりもした。夢と希望と空想の世界に生きていたあの頃の私たちは、教室の片隅から彼の笑顔を眺めているだけで、十分に幸せだったのだ。


 特に大きな変化もないまま、私たちは六年生になった。

 一学期の終業式の日、昇降口で靴を手に取ると、指先に何かが触れた。

 靴の中を見たら、二つ折りになったメモ用紙が差し込まれていた。一緒にいたリッちゃんが靴紐を結んでいる隙にこっそり開いて見ると、青いペンで「話があるので三角公園に来て下さい」と書かれていて、文末には神代くんの名前があった。子供のわりに綺麗な字が、誰かのいたずらなどではないことを示していて、私の胸をときめかせるには十分だった。

 帰り道、ずっとリッちゃんに言おうか迷ったけど、結局は打ち明けられなかった。後ろめたい気持ちを抱えて、きっと大した用事じゃないんだと自分に言い聞かせながら、いつもの分かれ道でリッちゃんに手を振った。


 家の玄関へ荷物を放り出した私は、指定の場所へと全力で駆け出した。三角公園というのは航空会社の社宅に作られていた児童公園で、神代くんは社宅の五階に住んでいた。

 神代くんはベンチに座っていて、私の姿を認めると立ち上がり、落ち着かない様子で辺りを見回してから「ちょっとうちに来て」と言って歩き出した。

 おうちには誰もいなくて、彼はいつもと同じ笑顔で「あがって!」と元気よく言った。案内された神代くんの自室は洒落たカーペットが敷かれていて、畳のお部屋を洋室のように仕立ててあった。スチール製の勉強机にシングルベッド、本棚には通信教育のテキストや百科事典と一緒に流行りの漫画が並び、椅子の背にはランドセル代わりの革製リュックがかかっていた。

 神代くんの使っている物はいつだって、田舎臭い私たちの持ち物とは違って見えていて、その全てが憧れの対象だった。


「適当に座っててね」

「うん」

「炭酸飲める?」

「うん」

「じゃあコーラ持ってくるね」

「うん」

「コップに氷入れる派?」

「……入れる派!」

「おっけー!」


 私に「うん」以外の返事をさせたことに満足したらしい彼は弾けるように笑い、キッチンへコーラを取りに行った。

 お部屋のどこに座るか迷って、ふとベランダへ視線が向いた。社宅は高台に建っているので、田畑と住宅の入り混じる町並みが一望できるに違いなかった。

 その景色を見たいという欲求に勝てず、私はガラス戸を開けてベランダに出た。彼のものらしいサンダルを借り、室外機の風を避けながら柵の向こう側を覗いていると、閉めたはずのガラス戸が背後でカラカラと開いた。


「お待たせ、外に何かある?」


 ペットボトルのコーラを一本と、氷入りのコップを二つ持って戻った彼は、ベランダで景色を見ている私を不思議そうに見つめた。


「景色がいいなぁと思って」

「高井さんの家は一戸建てだもんね。広いお家もいいよね」


 彼はコーラとコップを勉強机の上に置き、ベッドに腰掛け「隣においでよ」と私に勧めた。言われるままに座ったものの、好きな人と並んで座ることに緊張してしまって落ち着かなかった。つい足元へ視線を向け、もっと可愛い靴下を履いてくれば良かった、なんてことまで考えた。


「話したいことって、何?」


 私が切り出すと、神代くんは言い辛そうに「えーっと」と四回も口にした。


「僕ね、転校するんだ」

「えっ……うそっ」

「はっきり決まったわけじゃないけど、二学期には別の学校にいると思う」


 いきなり予想外の言葉を聞かされて、いろんな思いが頭の中を駆け巡った。卒業まであと一年を切ったのに、同じ中学へ行くものだと思っていたのに――こんな時に何を言えばいいのかわからず、ただ彼の言葉を待った。


「まだどうなるかわかんないから、他の人には言わないでね。大騒ぎして何もなかったら恥ずかしいでしょ?」

「そ、それはそうかも……」

「でも、多分そうなると思う。みんなと一緒に卒業したいって言ってみたけど、無理だって言われちゃったから」


 仕方ないよね、と神代くんは笑った。その声はいつも通りに明るかったけれど、やっぱりどこか寂しそうにも聞こえた。

 この話をしてくれたことが嬉しい一方で、私をわざわざ呼び出した理由がわからなかった。いや、うっすら「そうだったらいいな」という理由は思いついていたけれど……うぬぼれているみたいで、恥ずかしかった。

 だから、思い切って、聞いた。


「どうして、私に教えてくれるの?」

「それは……僕は、高井さんが、好きだから」


 神代くんはそう言って、私の方へと向き直った。つられて私も彼の方へ向けて姿勢を正し、私たちは至近距離で見つめ合うことになった。

 嬉しかったけど、私の恥ずかしさにはますます拍車がかかった。どうして私なんだろう、リッちゃんの方が可愛いのに……そんなことばかりを、考えた。


「転校してきて、初めて教室に行った時、実はすごく怖かったんだ。友達が出来なかったらどうしよう、いじめられたらどうしよう、って。だけど、高井さんと目が合って……ああ、きっと大丈夫だって。どうしてなのかはわからないけど、そう思ったんだ」


 もちろん私は、神代くんがそんなことを考えていたなんて知らなかった。だけどあの時、私は確かに「怖がってるのかな」と感じていた。

 神代くんが抱えていた気持ちに、私は気付いてあげられたんだ。好きな人の役に立てていたことが、少しだけ誇らしく思えた。


「それからずっと、高井さんが好きだったんだよ。だからいつか、もっと大人になったら……付き合って下さいって、言うつもりだったんだけど」


 神代くんは切羽詰ったように、懸命に私への言葉を紡いでいた。こんな姿を見るのは初めてで、私の胸は締め上げられたように苦しかった。

 

「ねぇ高井さん、僕のこと、どう思ってる?」


 そう聞かれた瞬間、リッちゃんのことは完全に頭から消えていた。ここできちんと返事ができなければ、誤解されたままお別れになってしまうと感じて、必死になって言葉を探した。


「私も、好き。ずっと前から、神代くんを好きだったよ」

「じゃあ、僕のカノジョになってくれる?」

「わ、私でいいなら……!」


 緊張のせいか恥ずかしさのせいかはわからないけど、私の声も震えてしまっていた。それに気付いたらしい神代くんは、私の手をぎゅっと握りしめた。


「離れても、気持ちは一緒にいようね!」

「うん、ずっと、ずうっと一緒にいようね……!」


 それは漠然とした約束だったけれど、その時の私たちにとっては、何より真摯な誓いだった。


「すぐには無理だけど、いつか絶対に戻ってくるよ」

「だったら、私、ずっと待ってる!」


 私の返事が、彼の想いに対して十分なものだったかはわからないけれど、それでも神代くんは嬉しそうに笑ってくれた。

 こぼれてしまった涙を拭いて、寂しさや気恥ずかしさの全てをごまかすように、コーラを二人で半分ずつ飲んだ。

 飲み終える頃には私の家の門限が迫っていて、神代くんは私を送ってくれた。転校しないで済めばいいのにね……なんて希望を口にしながら、手を繋いで家までの道を歩いた。

 家の前まで来ると、神代くんは少しだけ黙り込んだ。繋いだ手を放さないまま、じっと私の顔を見つめていた。


「えっと……あのさ、会えない間は手紙を書くよ」

「本当? 私もお返事書くね!」

「絶対だよ?」

「うん、絶対!」


 神代くんは笑顔で深く頷くと、それじゃあまたねと手を放し、社宅の方へと駆け出した。


「いつまでだって、待ってるからね!!」


 私がそう叫ぶと、彼はくるりとこちらを振り返って、両手をぶんぶんと元気よく振った。私も、思いっきり手を振り返した。涙は止められなかったけれど、精一杯の笑顔を作ってみせた。

 神代くんは名残惜しそうに、元気でねと大声で叫んで、曲がり角の向こうへ消えた。

 会えなくなるのは寂しかったけど、想いが通じて幸せでもあった。いつだって誠実な神代くんの「戻ってくる」という言葉は、私にとっては明るい希望だった。

 だけど、神代くんとはそれっきりになった。

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