トライアングル・マーチ!
水城しほ
序章 私のいちばん好きな人
第一話 その席は永久に埋まってる
一緒に暮らさないか、と
大学時代の同期と飲みに行って終電を逃し、彼の暮らすワンルームマンションをホテル代わりに使った私は、勝手に拝借した大きめのTシャツ一枚だけを身に着けて、寝起きそのものの姿でトーストを齧っていた。
私の服と下着を洗っていた洗濯機がごうんごうんと音を立てはじめ、聞き取った言葉に自信が持てず、ごめんもう一回、と彼に向かって手を合わせた。
「一緒に暮らそう、
別所くんは視線を自分の手元に落としたまま、目玉焼きの黄身を箸先でぷすぷすと刺し続けている。照れてるのかなと思わなくもないけど、これはプロポーズとか、そういう甘い会話じゃないはずだ。
そもそも私たちは恋人同士ではない。私の心の奥にある「いちばん好きな人」の席は他の人で埋まっているし、それは別所くんが誰よりわかっているはずだ。
もちろん別所くんだって、大切な人には違いない。誰が何と言おうとも、それだけは絶対に確かなことで、他の誰にも代わりができない存在だ。だからと言って、それが「恋人」とイコールで結ばれるわけではない。
「恋人じゃないのに、一緒に住むの?」
「恋人じゃない男の家に泊まっておいて、今更そんなこと言うか?」
視線をあげた別所くんは目玉焼きへの攻撃を止めると、今度は眼鏡に触り始めた。アンダーリムのフレームが小刻みに揺れて、細い銀色のつるがキラキラ光っている。緊張してる時のクセだ。彼はお医者さんという職業柄、普段はわりと冷静さを保ち続けるタイプなのに、私と二人きりの時は感情が丸出しになってしまう。
まぁ、小学生の頃からの付き合いだし、いちいち格好つけるような仲でもない。今の私なんてノーパンノーブラのシャツ一枚、お風呂上りのまま手入れもしないスッピン、背中まで伸びた髪もざっくりひとつに結んでるだけ。もちろん別所くんも似たようなものだ。まだヒゲも剃ってないし、前髪に寝癖ついてるし、胸元に「
ヒゲ付近をジロジロ見ていると、別所くんが「妄想女」と呟いた。それは事あるごとに考え事が止まらなくなる私へ授けられた不名誉な称号で、地元の友人はみんな知っている。
「なぁ、何の問題があるんだよ? 俺が実家にいた頃から、ずっと俺の部屋へ入り浸ってるくせにさ」
「入り浸るのと一緒に住むのは、全然違う話じゃないかな……だいたい男の子と同居なんて、うちの親が許してくれるとは思えないんだけど」
「結婚するつもりだって言えばいいさ。学生の頃から一緒にいるのに、いまさら誰も反対なんかしないよ」
平然とロクでもないことを言い出したけど、別所くんは大真面目だ。
この発言には、そもそもの前提がある。私たちはずっと「付き合っているフリ」をしているのだ。大学生の頃からアラサーの現在に至るまで、気の置けない彼との「フェイク恋愛」は十年近く続いている。
別所くんが悩んでいた「断ることしかできない交際の申し込み」や、私に持ち込まれる「お節介な友人からの強引な紹介」への対抗手段として、長い付き合いの恋人がいるという設定は非常に効果があった。真相を知っているのはごく限られた友人だけで、親の誤解すら解かないままだ。
だからといって同居だなんて、本当にいいんだろうか。実際はそんな関係じゃないのに。特に、互いの両親へ「宣言」をしてしまうことは、踏み越えてはいけない領域に進んでしまうのではないか?
困惑で相槌すら打てずにいる私に向かって、何も問題ないだろ、と別所くんが駄目押しをしてくる。眼鏡は相変わらず位置が定まらない。
「どうせこれからも一緒にいるんだし、他の誰かと結婚なんてこともないだろうし。それとも高井は、いつか俺たちが離れることになると思ってる?」
「ううん、そんなことない……たぶん、ずっと、一緒」
「そうだろ? 恋人じゃなくたって、俺たちはずっと一緒だろ?」
別所くんは満足げに頷き、ようやく眼鏡から手が離れた。何ひとつ反論できない。私たちは「恋人同士」じゃないけど、他の誰よりも近くにいる。子供の頃からそばにいて、高校も大学も同じ学校を選んで進学したし、社会人になった今でも休みの度に会っている。
昨晩のように、彼の部屋へ泊まることも珍しくはない。今は「ハグ以上のことはしない」と決めているけど、大学時代に一度だけ、本気のキスをしたことがあった。別所くんがどうだったのかは知らないけれど、私はそれがファーストキスだったのだ。つまり私だって、初めてのキスを捧げても後悔しない程度には、彼への好意を持っている。それでも私は別所くんを「いちばん好きな人」にしてあげられない。同じベッドで抱き合って眠っても、決してそれ以上のことはしない関係。
やっぱり別所くんは、このままなんて嫌なんだろうな……だけど私はどうしても、この「ちょうどいい」立場を望んでしまう。ワガママなのはわかっているけど、できるなら今のバランスのまま、ずっと彼の隣にいたい。
「俺はいっそ、本当に結婚したって構わないよ。高井は嫌か?」
「嫌ってわけじゃない……けど、今のままの方が、いい関係でいられるんじゃないかなぁ……」
私の方にも「絶対に嫌だ」と言うほどの強い拒絶はないので、やんわりとしか言えなかった。死ぬまで二人で一緒に暮らしていくのは絶対楽しい、なんて思ってしまう自分もいる。今の考えを隠さずに伝えれば、一気に言いくるめられてしまいそうだ。
「高井はどうして、そう思うの?」
「私、ワガママだから」
「俺はそうは思わないけど」
「ワガママだもん」
別所くんは目玉焼きに視線を戻し、どこがだよ、と呟いた。どうやら普段から私のワガママを受け入れすぎてる別所くんには、既に理解できなくなっているみたいなので、丁寧に説明してあげることにする。
「昨日だって夜中に押しかけたし、まだ帰って来てないお部屋に合鍵で入っちゃったし」
「それは問題ないだろ。いつでも来いって言ったのは俺、合鍵をあげたのも俺。玄関のドア開けて高井の靴があったら、俺は結構テンション上がってるんだけどな」
「んー、あと、勝手にシャワーも借りちゃったし、お気に入りのTシャツをパジャマにしちゃったし、ベッド占領しちゃってたし……いつもいつも、そんな感じだし」
「あのな高井。それはむしろ、俺にとっては嬉しいやつなの。俺以外の男には、絶対に同じことをするなよ?」
「しないよ! 別所くんにしか、こんなにひどいワガママ言えないよ!」
「……本当にもう、何が問題なのかわからないよ、俺には」
視線を上げた別所くんは、高井がおかしい、と呆れたように呟いた。こちらから見れば私を受け入れてる彼の方がおかしい。きっと私たちはお互いに、少しずつどこかがおかしいんだ。
「そんなに無理矢理、自分のせいにしなくていいよ。問題があるのは俺の方なんだろ?」
「違うの、そうじゃなくて……私は今でも、
私はとうとう「いちばん好きな人」の名前を出した。神代
「別所くんのせいじゃないよ、区切りを付けられない私が悪いの。神代くんを好きなままなのに……別所くんと、結婚なんて」
「そんなのは重々承知の上だよ、心は翔のものでいい。俺だってそれを願ってるんだ、翔を忘れて欲しくなんかない」
重々承知の上なのは、こちらだって承知の上だ。私はずっと神代くんを好きだと言い続けてきたし、この人はそれを毎日のように聞き続けてきた。
別所くんは、神代くんを好きな私のことが、好きなんだ。
だからって、はいわかりました結婚しましょう、なんて言えない。
「俺は二番目でいいんだよ。ずっと一緒にいられれば、俺はそれだけでいいんだ」
「そういう言葉に、ずっと甘えっぱなしだもん……私はやっぱり、ワガママなんだよ」
「そんなワガママなら、どれだけだって言っていい。翔のことを好きだって、俺の隣で言い続けてよ」
別所くんは穏やかに微笑むと、少しクセのある髪をかき上げた。ほらね、やっぱりこうなんだ。もしも私に「翔のカノジョ」という肩書きがなければ、私のことを好きにはならなかったんじゃないか……そんなことを考えてしまうくらいに、どんな時だってこの調子。
だけどこれは、仕方がないことなんだ。
私たち二人にとっては、会えなくなってしまった今でも、神代くんは大切な人のままだから。
神代くんと初めて会ったのは、小学三年生の時のことだ。
二学期の始業式の日、担任の先生に連れられて入ってきた転入生の男の子は、見るからに都会育ちという感じがした。色白で、利発そうで、髪の毛なんかサラサラで……クラスにいる野生児みたいな男子とは、明らかに違う属性の子だった。
女の子たちがきゃあきゃあと黄色い声をあげ、彼は驚いたように教室を見渡すと、少しだけ照れたように笑った。
「東京から来ました、神代翔です。これからよろしくお願いします」
最後尾の席にいた私にまではっきりと聞こえる、よく通る綺麗な声だった。丁寧にお辞儀をした後も笑顔だったはずなのに、その時の私にはなぜか、大騒ぎの教室を怖がっているように見えていた。
私は彼に笑いかけた。多分ぎこちなかったけれど、怖くないよと伝えたかった。笑い返してもらえた気がして、うぬぼれているみたいで恥ずかしくなったのを覚えている。
神代くんはあっと言う間に、男女問わず人気者になった。
勉強も運動も良くできて、それを鼻にかけることもなく、ノリが悪いわけでもない。誰にでも優しいけれど、自分の考えをきちんと言える人でもあった。それまでクラスの中心にいた別所くんと人気を二分するような形になったけど、すぐに二人はお互いの親友を名乗るようになっていた。
――誰からも愛される人気者に、何の取り柄もない私は、生まれて初めての恋をした。
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