第8話

 百面相が無事終了する。すると今度は、三面鏡の上に置かれていた林立する細長い瓶の中からおもむろに一本を抜き取り、クルクルと慣れた手付きでフタを廻す。そしてその透明な液体の入った瓶を傾けて掌の上に載せると、そのバッタのような顔になすりつけた。透明な液体から白色の液体、白色の液体から今度は白色のクリーム。次から次へと手際よく擦り込んでゆく。その丁寧なことといったら、左官職人も顔負けするくらいだ。どうやら女性というのは、自分を綺麗に見せるためには時間と労力を惜しまない生き物らしい。

 白い粉で顔をはたいたあとは最後の仕上げをすべく、赤い色をした棒状のものを捻り出すとそれを口許に持っていき、ゆっくりと食べはじめた。よおく見るとそれは食べているのではなく唇に塗っているのだった。どうやら口紅という化粧品の一種で、唇を引き立たせるものか、それとも唇の色を誤魔化すためのものかは知らないが、とにかく塗りたくるものらしい。その姿は真剣そのもので、神経質なほど慎重に指先を動かしている。

 口紅を塗りおわったときがまた滑稽で、まるで入れ歯の老人がする、あの唇をモゴモゴと動かす仕草をやりはじめた。オイラは噴き出しそうになるのを必死でこらえた。

 ひととおり化粧がすむと、鏡から目を離さないようにして立ち上がり、鏡の中にもう一度顔を突っ込み、視線を固定したまましばらくそのままでいた。そして納得したのか諦めたのかようやく三面鏡の前から離れた。

 洋服ダンスを開けた奥さんは、何を思ったのかいきなり水泳の平泳ぎを見せる。面白そうなのでもう少し近づいて見ることにした。ところが奥さんは平泳ぎの真似をしていたのではなく、タンスの中にぎっしりと詰め込まれた洋服を掻き分けるようにして着るものを吟味していたのだ。

 やっと気に入ったのが見つかったのか、それをハンガーがついたまま外してふたたび三面鏡の前に直立する。胸のあたりで押さえて科を拵えてみたが、もひとつしっくりこなかったと見えて、二度、三度と往復した。長いことかかって択んだ洋服は春らしい綺麗な黄色のワンピースだった。オイラは見ているだけで疲れてしまい、思わずふうと長嘆息を洩らしてしまった。

 着替えをすませた奥さんは、整理ダンスのいちばん上の引き出しから紙幣を数枚取り出し、真っ赤な財布に押し込むと、財布ごと無造作にハンドバッグに放り込んだ。ぐるりと部屋の中を見廻したが散らかったものをそのままにしてそそくさとどこかに出かけて行った。きっと買い物にでも出かけたのだろう。

 いやいや、出かけたのはいいのだが、部屋の中にひとの気配がまったくなくなってしまった。でもこの際だから全部の部屋を見てやろうと思い、鼻歌気分であちこちと散策をはじめる。そのときまだ入ったことのない部屋がひとつあるのに気がついた。

 例のごとくドアの下からもぐり込む。そこもやはり洋室で、部屋に足を踏み入れたとたん、雑然とした空気が身を包んだ。この部屋の何もかもが慌ただしい息遣いを見せていた。

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