第9話

 壁際に二段のベッド。その反対側にベタベタとマンガの主人公のシールを不規則に貼りつけた勉強机がふたつ。片方の机の上には、教科書、マンガの本、昆虫図鑑が投げ出されている。床には剥げかけた地球儀や野球のグローブが無造作に転がっている。オイラは何となく長居する部屋じゃないと直感的にそう思い、早々に退散を決め込んだ。

 居間に置いてあるソファーのところまで戻ったとき、歩き疲れたのと毛足の長いカーペットが気持よかったのとで急に睡魔が波のように襲いかかってきた。そのときの気分といったら、もう自分がどうなってもいい、このまま死んでもいいと思うくらい甘くて濃密ないざないだった。幸いこの部屋には誰ひとりいるわけでもないので、しばらくの間素敵な夢に誘われてみることにした。

 ――あまりの心地よさにぐっすりと寝入っていたとき、突然カサカサと耳障りな音が聞こえた。その嫌な音が段々近づいてくるのにオイラはとっさに身構える。毛足の長いカーペットに埋もれているのでどこから聞こえてくるのか見当がつかない。そろそろと歩き出してカーペットの縁まで移動し、居間のほうを覗った。

 オイラは心臓が口から跳び出しそうなくらい愕いた。

 そこには鋭い目付きで黒くて大きなゴキブリがこちらを射るように凝視していたのだ。

「――おまえはどこから来た?」

 ゴキブリはドスの利いた野太い声で訊いた。

「この向こうの庭から……」

 と、震えるような声で答える。

「よくこのへんをうろついているのか?」

「いえ、あまり」

「うろつくのもいいが、気をつけたほうがいいぞ。俺たちは気配に敏感にできているからいいけれど、人間っていうのは何を考えてるかわかったもんじゃないからな。下手に動き廻ると命を落としかねない。最近は俺らを一網打尽にする殺虫剤という強烈な毒薬があって、ひとの気配がないからといって無闇に入り込むとその毒薬で殺されてしまうことになる。だからおまえも充分気をつけたほうがいいぞ」

 それだけいうとゴキブリ大将は疾風のように立ち去ってしまった。

 オイラがゴキブリ大将と鉢合わせをして顔を見たとき、正直いって只者じゃないといった印象を受けた。ところが、話をしてみると意外に親切な奴だということがわかった。ひとは見掛けで判断してはいけないということだ。

 いままで気がつかなかったが、確かに改めてそういわれてみると、人間サマという生き物は、自分と同類あるいは柔順にひざまずく者以外のすべてを排除しようとする高慢さがある。

 これからは、ゴキブリ大将が忠告してくれたように、自分の身を守るために充分と注意を払わなければいけない。いい話を聞かせてもらうことができた。

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