再会

 じっとこちらを見つめるグリーンブルーの瞳。ただの好青年に見える彼もまた、シレーヌと同じく特殊な能力を持っていた。確か名をロビンといったか。動物と話すことができるのだという。


「……馬鹿なことしているとは思っている」


 彼の視線を受けて、ジェラールは本心を吐き出した。別に非日常を求めているわけではない。何事もなく生きていくのが一番だ。探偵という仕事も、適正と成り行きで就いていただけに過ぎなかった。


「けれど、忘れられなかったんだ」


 暗闇の中で仄かに光る銀色が脳内にずっと残っていた。月の光の如き銀。冷たいその色は、ナイフのようにジェラールの胸に突き刺さっている。


「……入りなよ。お茶の一杯くらい奢ってやる」


 ため息を吐いたロビンに勧められて店内に入る。先に座っていたオーレリアと一つ席を空けて、カウンターの円形の椅子に腰かけた。テーブルは木製で、使い込まれて黒ずんだ木の板に新しく重ね塗りしたニスが光る。

 店主はやかんを火にかけている。それをぼんやり見ていると、先程の黒い猫がジェラールの隣の椅子に飛び乗った。器用にお座りをして、あくびをする。……飲食店に猫なんて、構わないのだろうか。

 茶葉をティーポットに入れながら、ロビンは口を開いた。


「気持ちは分からなくもないよ。俺も一目惚れだったから」

「えっ」


 一目惚れ。

 誰が。俺が? 誰に?

 端からしてみればそうとしか見えないというのに、当のジェラールはそんなこと全く思い当らなかった。それ故に意表を突かれた。


「いや、俺は、別に彼女をどうこうしたいって訳じゃ」


 慌てて否定の言葉を口にする。確かに綺麗だと思う。見惚れたし、魅了された。けれど彼女を女としてどうこうしたいとは思っていない。

 ――思えない。


 椅子の上でわたわたと慌てるジェラールを見て、オーレリアが愉快そうに笑う。


「初心だね」


 ジェラールは暴れるのをやめた。否定の言葉が出なかった。


「レラ」

「気にすることはないよ。私もそうなのだから。……皆そうさ。彼女の魅力に取り憑かれる」


 窘めるロビンを無視して彼女はなおも笑う。

 取り憑かれる。その表現は果たして正しかった。自分の正気のなさは魔に魅入られたと言っていい。ただ、そうとわかっていながらもこうしているのは自分の意志だった。

 後悔はしていない。これからもしないと確信できる。たとえ、その銀光がこちらに向けられても。

 どうぞ、と紅茶を出される。白磁の茶器。なだらかで滑らかなカップとソーサーの縁に、藍色の線が入れられていた。そこに入れられた褐色の海の中を、黒で塗りつぶされた小さな人魚が泳いでいる。


「La petite sirene……」


 そんな童話があった。これも“シレーヌ”だ。シレーヌと縁深い定めなのか、それとも店主が気を働かせたのか。


「それ、あのとき購入した茶器なんだ」


 どうやら両方だったようだと知る。ロビンはジェラールの故郷に行くきっかけとなった品を見せたかっただけなのだろうが、それが人魚の絵だったことは偶然に違いない。


「あんな遠くまで行ってわざわざ買ったんだから……高級品なんじゃねーの?」


 あのときは起こっていた殺人事件の所為で品がなかなか入ってこなかった。それなのに、遠出をしたからということもあるだろうが、長いこと粘って待ち続けていたのだ。それだけの価値のある品だとジェラールは踏んだのだが。


「いや、それは違うよ。安物、と言えば失礼だが、そうそう高値で売れるものじゃないね」


 造形作家のオーレリアが口を挟む。


「おそらく、それは無名の作家の作品だ。もしかしたらただの道楽で作ったのかもしれない」


 となれば、安価なはず。粘る価値があるとは思えない。

 しかし、彼はそんなことは問題でないとばかりに笑う。


「欲しかったんだ」


 ……まあ、他人が口出すことでもないだろう。人によって物の価値は様々だ。

 ようやくカップの中の紅茶を口にし、本題に入った。


「そういえばシレーヌは」

「残念ながら、お遣いに行ってるよ」

「お遣い!?」


 それはとてもあのシレーヌに似合わぬ言葉だった。


「イリスもここの従業員だからね。働かせないと」

「働く……」


 彼女が注文を取ったり給仕をしたりするというのか。とてもその姿が想像できなかった。




 結局その日はシレーヌに会うことはできなかった。


 喫茶店をあとにし、日が暮れる前に安いホテルを見つけてその日はそこで休んだ。そして日の出を迎えると、町の不動産を訪ね回って家賃の安いアパートメントを見つけ、契約をした。路地裏を奥へ行ったところにあるので日当たりは悪く治安面にも不安はあるが、部屋自体は綺麗でそれなりの広さもあるワンルームで、生活していくぶんには満足のいく物件だった。

 シレーヌがいることが分かったのなら、ここに住まうことは決定事項だった。既に故郷の住まいは売り払い、帰るところはない。そのための旅だった。……何故そこまで彼女にこだわるのか、自分でもよくわかっていないのだけれども。


 それから部屋の掃除と家具の購入など住まいを整えるのに2日を要し、いよいよ町に繰り出したのは、この町に着いてから4日目のことである。

 まず町の主要部と思われる場所を次々と回った。客を装っていろんな店で顔を出し、世間話をしたり、困っていたら手を貸したりして相手に好印象を植え付ける。これを繰り返して信用を得ておけば、やがて探偵業を始めたときに情報源となるだろう、と。


 そんな折、奇妙な話を聞いた。


「バンシー?」


 聞きなれない言葉を復唱する。教えてくれた、さぞや噂好きだろう果物屋の老婦人は、ジェラールの鈍い反応に首を傾げた。


「知らないのかい?」

「俺、新参者だから」


 そうだったね、と婦人の顔が綻ぶ。誰かに何かを教えるのが嬉しいらしい。

 バンシーとは、この辺りで伝わる妖精なのだそうだ。ある家で女の悲鳴が聞こえるとそこの家人が死ぬ、そういう予言をする女の妖精。それが、この町のあちこちで見られたとその老婦人は言った。ジェラールがこの町に来た日、オーレリアが眺めていた葬列の娘が死んだときも傍にバンシーがいたという。


(そういえば、殺されたって言ってたな)


 傍にいた、というのなら、普通に考えれば殺したのはそのバンシーだ。


(調べてみるか……?)


 初仕事、評判を上げる仕事としては悪くはないだろう。


「どうするかなぁ……」


 殺人事件は迂闊に動くと大蛇が出る。見知らぬ町に住み始めて早速命を落とすようなことにでもなれば、もう見れたものじゃない。

 しかし、リスクが大きい分見返りも大きいのも事実。収入の宛がない身としては、名声はやはり魅力的だ。評判こそが客を呼ぶのだから。


「ま、犯人を挙げたら、だけどな」


 空を仰ぐ。初日とはまるで違った清々しい青い空だ。

 とりあえず、と考える。お茶でも飲んで休憩しよう。

 足が向いた先は、当然あの店だ。

 前に来たときと同じように、店の前であの黒猫がジェラールを出迎えた。扉を開けると、ジェラールを追い越して中に入る。まるでジェラールに開けてもらうために待ち伏せしていたみたいだ。


「いらっしゃいませ」


 低く、冷たく、心地よい声。水のように染み渡る声に、ジェラールは顔を上げた。


「……シレーヌ」


 運命の人に出逢った気分だった。ただ姿を目にしただけなのに、感動すら飛び越えて何も考えられなくなる。不躾に彼女に視線を這わせ、夢か現か疑った。


 人間であるかを疑うほど整った顔立ち。切れ長の目、薄い唇は見る者すべてに冷たい印象を与える。項の辺りで纏められた銀の髪。給仕服はスラックスにベストの男性用だが、胸元にフリルのついたブラウスが女性らしさを殺さずにいた。モノトーンの配色がなお銀色を目立たせる。惜しむらくは色のついたレンズの眼鏡。瞳の色を誤魔化すためとはいえ、蛇に足をつけたように無用の長物に思えてならない。

 記憶というものは大概美化されがちだが、彼女に関しては落胆する要素が何一つなかった。むしろ記憶の劣化を疑うほどだった。


「座りなよ。客なんだろ?」


 立ちすくむジェラールを呪縛から解き放ったのは、呆れた店主の言葉だった。


 店にジェラール以外の客はいなかった。この前と同じ席に座り、メニューを見る。日によって出すものが違うようで、それはメモのようだった。紅茶は幾つか種類があったが、よくわからなかったので、一番上の銘柄を頼んだ。空腹でないので、菓子類は止めておく。


「……ロビンに聞いていたが、本当に来ているとはな」


 店主が紅茶の準備をしているのをぼんやり見ていると、シレーヌが離れた席に腰掛けた。


「覚えているのか」

「その呼び名は印象的だ」


 淡々とした返事。シレーヌと呼んだのはジェラールが初めてだったらしいが、気に入っているのかそうでないのか、いまいち判別がつかなかった。


「家まで買ったんだって?」


 茶葉を蒸らすその間に、面白がってジェラールを見る店主。


「なんでそれを」


 ロビンは視線を外した。その先には黒い猫がいる。店の中にいることからもわかるように、ロビンの飼っている猫だ。旅行先にも連れていくほど可愛がっているようだった。


「……尾行してたのか」


 ロビンではなく、あの猫が。

 あの黒猫はおそらくそこらの猫よりもずっと賢い。こちらを見ているときはいつも観察しているように思えるし、人間の言葉を解するどころか、心のうちまで読んでいるような印象がある。


「気になって、ね」


 それに新しい人間は注目の的なんだ、と彼は笑う。どうやら町中の動物たちと知り合いらしい。そして色々な噂を教えてくれるのだ、と。

 便利な能力だと思う。動物なら色々なところに自然に入り込めるから、人間とはまた収集力が違うだろう。ジェラールも欲しい能力である。


「てことは、バンシーのことについても知ってるか?」


 ふと気になって尋ねた。町で噂になっているバンシー、またはそうと認識されている人物について心当たりがあるかもしれない、と。

 案の定、肯定の言葉が返ってきた。


「一つ教えておくと、バンシーに害はない。追い掛けても新聞のネタ程度にしかならないから、考えているんなら止めときなよ」

「知ってるのか。バンシーがどんな奴だか」

「まあね」


 ということは、だ。そのバンシーとやらは異能者の可能性がある。それがロビンのような無害なものなら良いが、イリスのように人を殺める力であれば大変だ。関わるべきか、知らぬふりをするべきか。


「……なんなら、会ってみる?」

「……は?」


 以前は関わるなと言われたのだ。今回もまたそう言われるだろうと思っていたのだが、まるで逆の発言に呆気に取られた。


「危険はまずないだろうからね。なにも得られなくても構わないなら、連れていくよ。ちょうどそろそろ会ってみようと思ってた頃だし。ね、イリス?」

「……私が?」


 イリスは嫌そうに顔を顰める。傷付いたが、彼女が人見知りで、ジェラールだからではなく大して親しくない人間と行動するのが嫌だっただけ、と知ったのは後日のことだ。


「はじめからその予定だったでしょ? ついでだよ」


 ね? とロビンが首を傾げると、イリスは渋々引き下がった。どうやら彼女はロビンに勝てないようである。

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