嘆く女

 黒のベストを脱ぎ、白いシャツと黒いスラックスだけになった彼女。黒いリボンで纏めた銀髪が靡くのを、ジェラールはズボンのポケットに手を突っ込んだまま追っていた。余計な荷物が付いてきたからか、その背はいささか不機嫌そうだ。


「なんか、すまないな」


 なんだか申し訳なくなって、ジェラールは謝罪した。この町に来たことも、バンシーの件についても、迷惑をかけている自覚はある。

 彼女はそれについて返事をしなかった。振り返りもせずに前を歩き続ける。その反応の悪さを、無言の抗議であるとジェラールは受け取った。やるせなくて、帽子の鍔を人差し指で弄る。


「何故そんな酔狂なことをした?」


 振り返らないまま、彼女は問う。


「すべて忘れてあの町で暮らしていれば、危険なことに巻き込まれることはもうなかっただろうものを」


 それは以前会ったときに彼女やロビンから言われたことだった。彼らは闇に生きる者たちだ。関わり合えば自分もまた引き込まれる。そこに安息はないはずだ――と、自分でもわかっていたはずなのに。


「家族と生活を捨ててまで、私たちに何を求める」


 その質問には答えられなかった。むしろ自分がその答えを求めているくらいだった。どうして、と自分でも思う。前の生活に不満はなかった。小さい仕事ばかりをやって食うのがやっとだったが、姉は気に掛けてくれるし、甥っ子は可愛いし、楽しいことも退屈なこともあって、このまま一生を過ごすのも悪くはないと思っていたのだ。……まあ、可愛い嫁でも来ないものかと、そんな望みを抱いたことはあるけれど。


 それらを捨てて、シレーヌを追って、こんな遠くまで。


 まさか本当に一目惚れだったのか、と信じられない気持ちで自問する。実ったことはないとはいえ、ジェラールだって恋の経験はある。けれどそれと照らし合わせてみても、この感情とは一致しない気がした。……やはりシレーヌの問うた答えをジェラールは持ち合わせていない。


 いつまでも答えないジェラールに彼女はなにを思ったのか、もしかして、と足を止めて振り返る。


「殺して欲しい奴でもいるのか」


 青いレンズの向こうに、銀色の光を見た。人を殺してきた、悪魔の瞳。その質問に、彼女がこれまで過ごしてきた生を垣間見た気がした。


「……いねぇよ、そんなもん」


 彼女の視線を遮るように、帽子を深く被る。


 その時。宙を切り裂くような女の金切り声がした。

 お互いにはっと顔を見合わせ、その声の方向へと駆け出す。


「バンシーか」


 女の悲鳴に連想するのは、やはりそれだった。しかもジェラールたちはこれから彼女に会いに行くところだったのだ。

 文具屋らしき看板の向こうの角を曲がり、路地に入る。途端に日差しを遮られて、道は影に覆われた。その暗い道をさらに先に行くと、蹲る女と横たわった人間、そしてジェラールたちが現れたことに驚いたらしく路地の奥に逃げていく誰かの姿が目に入る。

 女の悲鳴。横たわる人間。石畳を染める赤い液体。逃げた男が手に持っていた、暗がりでも光る金属の色。

 何が起こったのか把握するのは容易だった。


「待て!」


 死体に覆いかぶさって泣いているらしい女はイリスに任せて、ジェラールは後を追う。ほんの少しの間とはいえ状況判断に掛かった時間は仇になってしまったらしく、足音を追っても追いつけない。分かれ道に来たところで完全に見失ってしまって、ジェラールは来た道を引き返した。暗かったが顔は覚えた。捜せばきっと見つかる。


 戻ってきてみれば、女はまだ泣いていて、イリスは傍らに立ち尽くしてその姿を見下ろしているだけだった。普通慰めるなりするだろうと思いながら、彼女の向かいにしゃがみ込む。

 死んでいるのは男だった。ジェラールと同じくらいの年頃の男だ。爽やかそうな容貌で、身なりもきちっとしていて好青年だったのが見て取れる。薄い水色の服はあちこち赤く染まっていて、刺された箇所が複数あることが見て取れる。怨恨だろうか。

 次に現場に居合わせたと思われる女を見る。黒くて長い髪。暗い緑のワンピース。泣いていることを差し引いても陰気に見える女だった。彼女は泣きながら、ごめんなさい、としきりに繰り返している。


「……恋人か?」


 質問に、予想外なことに女は首を横に振った。


「じゃあ、友達か何か?」


 これにもまた否定する。つまり、知り合いではないのだ。

 殺された人物が知り合いでもないのに、どうしてこの女は泣いているのだろう、とジェラールは疑問に思った。殺人現場に居合わせて恐怖で、ということもあるだろう。けれどそれだと謝罪の理由がわからない。


「お前が殺したわけではない」


 ジェラールの困惑を他所に、泣いている女に低い声が落とされた。


「止められなかったとしても、それはお前の罪ではない。あらかじめ知っていたとしてもだ」


 言葉に感じるものが有ったのか、女は泣くのをやめて顔を上げた。イリスを見上げた目が大きく見開かれる。

 彼女は眼鏡をしていなかった。普段は隠している銀色の虹彩が露になっている。


「あなた……」


 バンシーはその眼を食い入るように見つめた後、何かを察して続きの言葉を飲み込んだ。ふ、と肩の力が抜ける。

 涙は、驚きで止まったようだ。


「人として生きていたいのなら見るのをやめろ。このままではどうなるか、わからないわけでもないだろう」


 女の瞳が翳った。イリスの言う通り、心当たりはあるようだった。


「バンシー……か」


 女は自嘲的に笑った。ふらりと揺れながら立ち上がる。そして顔を上げると、ジェラールのほうを向いて口を開いた。


「……あの人、捕まえてください。私の見たところだと、あと一人は殺そうとするはずです」


 陰気な雰囲気は変わらないが、泣いているだけの弱い印象がいつの間にか消えている。

 ジェラールが返事に困っていると、イリスはなにも言わずに踵を返した。眼鏡を掛けると徐に歩き出す。もはやバンシーのことなど知らぬと言うばかりだ。

 結局返事もしないまま、黙礼して慌ててジェラールはイリスの後を追った。声くらい掛けてくれてもいいだろうに。

 その背中に声が投げ掛けられる。


「親切にありがとう、邪眼の悪魔さん。しばらくはあなたの周りで死ぬ人はいないと思う」


 感謝の言葉と予言に思わず振り返ると、彼女は既に路地の奥に消えていた。人並み外れた気配の絶ち方に、本当に妖精ではないかと疑ってしまう。……それとも、そうでないと生きていけないのだろうか、異能者達は。


「あの人は、なんだったんだ?」


 大通りに――日常に戻ると、前を行くイリスに尋ねる。彼女はほんの少しだけ振り向いた。


「ただの異能者だ。人の死を見る予言の力だろう。……何の害のない、ただの弱者だ」


 弱者、のところでイリスの目が翳る。どうしたのかと驚き、その色を読み取ろうとしたが、それを嫌がるかのように彼女は前を向いてしまった。


「最近の殺人は、ただの人間によるものだ。放っておけば、そのうち終わる」


 それは本当に、その通りだった。




「お手柄だったそうじゃない」


 紅茶を入れながらそう言うロビンの心のうちは読めない。本当に褒めてくれているのか、それとも嫌味か何かか。そもそも、彼が自分を受け入れてくれたのかすら分からないのだから、判断しようがなかった。


 バンシーとの遭遇から3日。ジェラールは殺人犯を捕まえた。バンシーに言われたこともあって調査をしていたのももちろんだが、なんてことはない、顔を見られていたことを知った犯人がジェラールを殺しに来たのだ。それを返り討ちにし、そのときまで調べた内容を突きつけてやったら大人しくなったので、そのまま警察に突き出した。それが昨日の事。

 犯人は、所謂ストーカーだった。オーレリアと見た葬列の少女――パン屋の娘に懸想し、アピールを繰り返したが、もともと彼女に恋人がいたこともあって結果は惨敗、逆恨みして殺害した。ジェラールたちが目撃したのは、その恋人の殺人現場だ。恋人同士が殺された悲劇として、町の新聞はこの事件をわりと大きく扱っている。


 残りのバンシーの目撃情報だが、調査結果から推測するに、その人物の死期を知ったバンシーが現れただけ、ということのようだ。というのも全員疑いようもなく事故死で、パン屋の娘とも犯人とも関係性がなかった。


 彼女はただ予言してしまった死を止めたいと思っただけだろう、とロビンは言った。だからその人が死んだときに現れたのだろう、と。それを目撃され、逸話から連想してバンシーと呼ばれるようになった。……シレーヌの事件と似ている、とジェラールは思った。人はまだ、人妖だとか妖精だとか、そういう存在に踊らされている。それとも彼ら異能者は、それらが具現化したものだろうか。


 ところで気になるのは、彼女の最後の言葉。犯人があと一人は殺しそう、というやつ。あれはジェラールの事を指していたのだろうか。でもそうならそうではじめから言ってくれれば良いし、イリスに対して言った、彼女の周囲で死ぬ人はいないというのはなんなのだ、という話にもなる。これでは彼女が望んでいた予言の回避に成功したのかもよく判らない。

 なにかに化かされたような気分で、この事件は終わってしまった。


「これで君の知名度も上がったね」


 からかうように言うロビンに、ジェラールは肩を竦めた。


「上がったところでな。接客する場所がない」


 家は買ったが、事務所は買えない。かといって、居住空間にお客様を入れるのは色々と躊躇われる。バンシーの話を聞いたときはそこまで考えていなかったが、そもそも基盤ができていない。開業は無理だ。


「しばらくはバイト生活かな……」


 まずは金だ。食べていくにも、事務所の購入のためにも、とにかく金がいる。探偵でなくても、生きていくために職がいる。記憶を浚って雇ってくれそうな場所を探す。

 そんなジェラールに、ロビンは悪戯を思いついたような表情を浮かべた。


「そこで提案。時給制、勤務時間によっては賄い付きのバイトなんてどうかな?」

「は?」


 素頓狂な声を上げたのはジェラールだけではない。後ろでテーブルを磨いていたイリスもだ。何を馬鹿なことを、と非難する目でロビンを見ている。

 イリスに睨まれているのも何処吹く風。彼はジェラールに顔を寄せると、彼女に聴こえないよう、小声で言った。


「君なら俺達の事情を知ってるし、人見知りのイリスが多少馴染んでるみたいだし」


 都合がいいのだ、と彼は言う。確かに多少のことなら目を瞑れるしフォローもできる。ふとしたことで出てしまうかもしれない異常さを何も知らない人物から隠すより、知っている人間を置いておくほうが随分と気が楽なのだそうだ。


「俺達もそう余裕あるわけじゃないから給金安いけど、それでもいいなら」


 どれほど安いのか、と少し不安になったが、おそらく常識の範囲内だろう、とジェラールは踏んだ。彼はそれほど人でなしに見えない。それに、就職先の宛もない。


 返事はもう、決まったようなものだった。

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