遭遇

 倉庫街の港は、月明かりの下にいても、想像以上に暗かった。甥が毎日こんなところを歩いているのかと思うと、心配になった。人気もないので、何か事件に遭うことも多そうだ。ひったくりぐらいならまだいいが、暴行、誘拐などに遭われてはたまらない。

 そして、今起きているのは殺人事件である。昨日ジャンに何もなかったのは、本当に幸運だった。


「命が惜しければ、関わるな、か」


 昼間に会った青年の言葉を思い出して、ジェラールは呟いた。倉庫の陰で見張りなどしているが、海風が強く耐え難かった。しかも、未だに何かが起きる気配がない。


「まあ、そうだよな。何人も死んでるんだから」


 もし、ここで犯人を暴きでもしたら、口封じに殺されること間違いない。そうと分かっていても気になるのは、甥っ子に頼まれたからか。それとも、探偵としての性だろうか。好奇心、とはまた違ったものであるとは思うが、使命感とも違う。


 見張りは無意味だったかもしれない、とだんだん思い始めた。灯台の照らす光の先には、暗い海が広がるばかりでなにもない。殺人事件の所為で、ただでさえ少なかった夜に発着する船がなくなった。襲う船がなければ、事件は起きるまい。


 帰ろうか、と思い始めたときだった。


 悲鳴が聞こえた。男の声。数も多い。何処だ、とあたりを見回して、近くに停泊している船の中からだと気がついた。暗闇でも古びているとわかる、小さな貨物船。

 悲鳴の種類からして、喧嘩というわけでもなさそうだ。ジェラールは駆けだした。だんだん声が聴こえなくなるのに焦り必死に足を動かすが、到着した頃にはもう、悲鳴は絶えていた。


 せめて、生存者の確認でも、と縄梯子に足を掛けたときだ。月の光を遮って、甲板からなにかが飛び出してきた。その陰りを、思わず見上げる。


 それは、銀の髪に銀の眼をした女だった。


 一瞬だったが間違いない。紛れもなく銀色。髪はともかく、眼までも白い金属そのままの色を宿していた。


「シレーヌ……」


 縄梯子に掛けた手足をそのままに、銀と黒の影を眼で追って、ジェラールは呟く。ジャンの言っていたことは本当だった。


 シレーヌはジェラールの背後に着地すると、一瞬こちらを振り返った。視線を受けて背筋が凍ったのもつかの間、特に気に掛けるような存在ではなかったらしく、すぐに視線を逸らし、倉庫街へのほうへと走って行った。


 シレーヌを追うか。それとも、船の様子を探る方が先か。しばし悩み、微かな呻き声を聞いて、ジェラールは縄梯子を登った。

 血の匂いが微かに潮風に交じる甲板の上。船にいた十人のうち、生き残っていたのはたったの三人だった。



   †



「夢でも見たか、探偵」


 朝早くに港に現れた捜査官の反応は当然だと言える。ジェラールも彼の立場だったら、同じことを言っていた。というより、昨日甥に同じような言葉を投げかけている。


「シレーヌなんて、年寄りの戯れ言か子どもの虚言のどちらかだぞ」


 これも、昨日ジェラール自身が言っていたことだ。全く持って、返す言葉がない。


「そうだけどさ……」


 弱々しい言葉は、潮風に浚われた。

 特徴は、と訊かれて、ジェラールは犯行のあった船に目をやりながら、シレーヌの姿を思い出す。とにかく、銀髪銀眼の印象が強く、そればかりが思い出される。しかし、必死になって昨晩のことを振り返っているうちに、いろいろと思いだしてきた。

 歳はおそらく十代後半。つまり、まだ少女だ。服装は黒。銀と黒以外の色を見なかった。

 そして顔。見たのは見上げた一瞬、そして振り返った横顔だけだ。だが、


「すっげぇ美人だったな」


 その年頃の少女特有の可愛らしさなどは感じず、かといって大人の女に見られる妖艶さなどもなく、ただただ綺麗だった。造形品などにもみられない、現実離れした美しさ。ジャンが、人間でなくシレーヌといった理由が分かる気がした。

 人捜しの手掛かりにならない特徴に呆れた後、ジェラールと同じ年頃の、鬱屈としたところのありそうな若い捜査官は尋ねた。


「他に船から出てきた人影は?」


 少しその質問を奇妙に思ったが、特に深く考えず答えた。


「なかった……たぶん」


 ジェラールは駆けつけるのは遅かったが、事が起こってからはずっとその船の周りを見ていた。誰か出てきたら気づいたはずだ。


「OK。参考にはさせてもらうよ。期待はできないけどな」


 手帳をぱたんと閉じて、捜査官は離れていった。


「本当に捜してくれるのかよ……」


 反応からして、とても信じた様子ではない。このまま流されて終わりか、と肩を竦める。しかし、こちらも手掛かりらしい特徴を伝えられなかったので、仕方なかったのかもしれない。人を捜す探偵があんな稚拙な説明をするなんて、恥もいいところだ。


 落ち込んでいると、足元で、にゃあ、と聞こえた。下を見ると、黒い猫が足に擦り寄っている。

 なにやら最近、猫に縁がある。


「なんだー? 餌なら無いぞ」


 屈みこんで言うと、その猫はお座りをしてじっとこちらを見つめてきた。宝石のようなグリーンブルーの眼差しが、ジェラールの何かを見透かすように射抜いてくる。その眼に何処か人間めいているような、猫らしからぬ理知的な光があるような気がした。


「ルイ」


 誰かが近寄ると、それが名前だったのか猫は振り返ってゆらりと尻尾を振った。顔を上げると、昨日会った猫に詳しい青年がそこにいた。ジェラールは立ち上がり、笑む。ほんの一瞬しか接していないが、彼は善い人だと感じていた。


「偶然だな。また会った」

「そうでもないよ」


 そう言って目を細める。そこに嵌った緑の虹彩が、目の前の猫と同じグリーンブルーであることに気がついた。

 何がそうでもないのか。それを訊き返す前に、黒猫を肩に乗せていた青年のほうが尋ねてきた。


「昨日、シレーヌを見たんだって?」


 いったい何処で、誰から聞いたのか。取り調べのときの話を聞かれていたのか。彼の情報力には、本当に驚かされている。


「ああ。港で。事件の直後、船から出てきた」

「銀髪銀眼の、黒衣の女の子?」

「ああ」


 上の空で呟いて、今の会話の異常性に気がついた。


「……ちょっと待て。なんで女の“子”って知ってるんだ。黒い服のことも」


 年齢のことも、服装のことも、たった今思い出したばかり、警官に行ったばかりである。他の相手に同じ証言はしていないし、ジャンは眼と髪のことしか言っていなかった。

 そう言えば、昨日その話をしたときに彼の様子が変だった。


「あんたの言うシレーヌに、心当たりがあったんだ。でも、確証はなかったし、ちょっと信じられなかった。殺人事件に関わっているなんて」


 何かしら関係があるのか、とジェラールが警戒したのを察知してか、彼はあっさり白状した。


「誰なんだ。何処にいるんだ」


 ジェラールは詰め寄る。目の前に一番有効な手掛かりがあるのだ。詰め寄らずにはいられなかった。


「教えない」


 にべもない返答だ。頑な意思を感じた。こちらが何をしても、シレーヌについて話す気はないのだろう。


「俺の予想の通りなら、今回のことは人の仕業でなく、悪魔の仕業だ。でも、犯人はシレーヌじゃない。

 そもそもこの事件が起きたのは、一月前だ。そうだろ?」


 ジェラールは頷く。


「だったら、無実だ。俺たちは、先週末この街に来た」




 なんだかんだと過ごしているうちに、気づけばもう陽が暮れていた。あの後仕事もなく、ただぶらぶらと街を歩いていたジェラールは、小休止のために小さな喫茶店に立ち寄ってコーヒーを買っていた。

 窓の外の赤みを帯びた景色をぼんやりと眺めながら、昨晩から今朝にかけてのことを思い出す。


 ――俺たちは、先週末この街に来た。


 頭の中でずっと響いてる、あの青年の台詞。彼の言うことが本当なら、シレーヌは犯人たり得ない。

 だが、それはもう一つの事実も示している。彼がシレーヌを知っているだけでなく、親しい間柄だということだ。おそらく旅の連れ。

 ならば、庇っていることも考えられるのだが、その一方で、庇うならもっと別の言い方もあるはずだ、とも思う。


 結局、シレーヌは何者なのだろうか。


 本当に殺していないのだろうか。だとしたら誰が。昨晩は他に誰も見なかったし、何よりシレーヌは船から降りてきた。殺していないというのなら、あそこで何をしていたのだろうか。


 再び通りに出て考えを巡らせながら歩いていると、雑踏の中に銀色の髪が目に入った。

 一瞬見間違いかと思ったが、錯覚ではないらしい。見失わないうちに慌てて追いかける。少し離れて追跡しながら観察すると、確かに昨日見た少女だった。

 一人で何処にいくのだろうか。行くのは港の方角。


(……まさか)


 猫の青年の言うことは、嘘だったのだろうか。


 曲がり角を曲がる。ジェラールも遅れて曲がると、銀髪の女の姿はなかった。人通りはほとんどないのに。

 路地にでも入ったか、と思い当たり横道に入ろうとした瞬間、腕を引っ張られ、陰の濃い場所に連れ込まれた。腕を捻りあげられ、乱暴に冷たい石壁に押し付けられる。痛いと思ったのもつかの間、首筋に冷たく鋭い物が当てられ、ジェラールは固まった。

 当てられているのは、おそらくナイフ。自分は今、命の危険に晒されている。


「何故私をつける?」


 低く、冷たく、しかしそれでいて心地の良い声だった。それだけに、例の怪物を連想して恐怖は強まる。


「俺は、探偵だ」


 何とか勇気を振り絞って喋ったが、口走った内容にすぐに青ざめる。これでは、探っていたと白状したようなものだ。

 案の定、そう受け取ったらしい。首筋に当てられたナイフを握る手に力が籠ったような気がした。


「探偵? 誰かに私を追うように頼まれたか」

「違……っ」


 否定する声は、自分で聞いても悲鳴混じりだった。思えば、甥っ子に頼まれたとはいえ、これについては仕事が絡んでいない。単なる好奇心で死ぬのか、と思うと、自分の浅はかさを呪いたくなる。

 がたがたと震えそうなのを、歯を食いしばって耐えていると、背後の女が、ん、と疑問の声をあげた。


「お前、昨日船の前にいたな」


 一瞬だけ、恐怖が吹き飛ぶ。確信していた事柄が、確証を得た。


「やっぱお前が殺した……!」


 昨日、ジェラールは船乗りとシレーヌしか見ていない。ジェラール以外には、被害者と加害者しかいなかったはずだ。そして、彼女は被害者ではない。となれば、加害者に他ならない。

 が、シレーヌは淡々と返した。


「だとしたら、昨日見かけた時点でお前を殺している」


 それはそうだとも思ったが。


「じゃあ、これはなんだよ!」


 首筋のナイフを示すと、しばし考え込んでから彼女は身を離した。ナイフをしまい、腕を解放される。自由になったジェラールは、振り向いて少女に相対した。


 そして、初めて間近に見るその姿に息を飲んだ。


 凄い美人だ、というのは自分で言った言葉だったが、改めてその姿を見てみると、その言葉ではとても形容仕切れない。整った顔立ち。肌は不健康に見えない程度に白く、鼻は高すぎず低すぎず、形も良い。目は少し切れ長、唇は薄めだが、冷たい印象を与える彼女には、むしろプラスの要素でしかない。

 例えるならば、月の光。冷たくもあるその光に、魅了されぬものはいないだろう。

 例えるならば、宝剣の刃。その鋭さに恐れを抱きながらも、丹念に磨かれた刃の輝きに見とれずにはいられない。


 シレーヌ。

 伝説のあの妖は、実はこのような姿をしていたのだ。思わず、そう信じそうになった。現実のものかと見まごうほどに、彼女は綺麗だった。


 ただ一つ意外なのは、眼鏡を掛けていたこと。銀色のフレームに嵌ったレンズは、夜目にもかろうじて青味がかっていることが分かる。髪以上に特徴的な瞳の色を誤魔化すためだと気づいた。


「もう一度訊く」


 ジェラールを現実に引き戻したのは、歌を紡げばさぞかし素晴らしいだろう、その声だった。


「何故私をつける?」


 問い詰める声は、一度目よりは柔らかく、だからこそ魅了されてしまいそうになる。ジャンが歌を聴いたというのが、羨ましく思えるほどだ。


「俺は……」


 喉の奥が渇いて、うまく声を出すことができない。自分を保つのに必死だった。


「あんたが、船乗りを殺して回っているのだと……」


 少女は、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。そこに少しの人間らしさを垣間見て、思わず緊張が緩んだ。


「私に、殺して何の得がある」


 確かに、あれだけの人を殺しても利益はない。少なくともジェラールには思い付かない。とても殺人を楽しむようには見えないし。

 だが、それだけで彼女が無実であることを証明することはできない。


「一昨日、倉庫街にいたのは?」

「散歩に」


 夜に女が一人で、と思ったが、彼女が陽の光の下を散策する姿もピンとこない。


「……ああ、あの子どもか、そもそもの原因は」

「おい、ちょっと待て」


 ジェラールは焦った。シレーヌの証言はジャンが発端だ。警邏も真面目に受け取らなかったから、甥とジェラールの口を封じれば彼女の嫌疑はなくなる。

 駄目だ。自分は自業自得のところがあるが、甥っ子だけは殺させる訳にはいかない。


「危害を加えたりはしない」


 心の内を呼んだように、少女は言った。思ったよりも危険な存在ではないようだ。


「取り敢えず、あんたがシレーヌなんだな」


 殺人鬼かどうかでなく、ジャンやジェラールが目撃した人物であることを確認する。


「おそらくそうだな。シレーヌと呼ばれたのは初めてだが」

「あんた、何者なんだ」

「ちょっとした通りすがりだ。買い物に来た連れについてきた」


 連れ、というのはあの青年のことだ。やはり親しかったのだ。どう見ても兄妹には見えないから、恋人か。

 ……とても、目の前の美少女に恋だのという浮いた話があるようには見えないのだが……。


「とにかく、関わらないことだ。昨日は運よく犯人を見なかったらしいが、このまま関われば狙われる」


 そこでふと、通りのほうに目を向けた。ただでさえ暗い路地に、影が射す。

 シレーヌの目付きが、険しいものに変わった。


「……いや、遅かったな」

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