ovni.

天池

ovni.

 鈴の音でリス達は起床する。エメラルドの湧き水は大きな巌から滲み、土に昨日との連続性を担保する。風が砕け、顔が散っていく。変わらぬ日光量で叢草は照らされ、波はカモメを運ぶ。

 きめ細やかな朝だった。昨日の酸化していく臭いが嗅げばした。インドの僧院を聖別する黄金の門、そんな風景がぼんやりとかすむように具象化して立ち去らない。煙の向こうにアフリカゾウの群れが――或いはマンモスの仲間のようなものが――闊歩する。閉館した劇場の雨漏りの音。蝋人形はその客席で瞬きもせず、ただじっと幕の開いた舞台を見上げている。小石を攫う強い風、そして草――。

 そんな景色の全てを震わすモーターの駆動音と共に、その平板と球体の中間のような形態をした構造物は直線降下した。三秒おきに拡大し、万物を否応なく光源の内に収納しながら。日々を攫うのは容易いコト。ちょっとばかしの力があれば、そんなのは日常の知恵に過ぎない。とそれはそう語った。形象は歪み、時間は逆行する。データが全てを支えている。顔のないそれはいまや地球の営力をも遥かに凌駕する頼もしさで、絶え間ない全方向からのアクセスに丁寧に応対する。

 それは部屋の書物を懐かしそうに見詰めた。僅かな言葉が散りばめられたほんの小さな特異空間。読書という行為はどう足掻いても時間の中に位置づけられてしまうが、その完結した広がりの内部において時間は自由に移動可能な次元となる。それはまるで書物だ。会話可能な書物、それがオヴニだった。

 浩輝が東京で暮らし始めて、一年と少しが経った。本を読む余裕なんてなくなっていた。勤務先はスーツを着ていかなくても良いところだったが、結局ワイシャツと黒いズボンという無難な服装が彼にとっての制服となっていた。アパートから会社までは電車で七駅であるが、ドアを開けてすぐの共用通路からは曇っていない日だと会社のあるオフィス街の隆起したビル群がくっきりと見えた。昼夜煙でも吐き出していそうな景色だった。今にもこのアパートごとトンネルを通って音を立て煤を撒き散らしながらあそこへ走り出すのではないか、そうでなくとも明日には、あの不格好な集合体の方からこちらへ、ここらの日々を吸収しにやって来るのではないか。そんな錯覚の立ち現れる程に、慣れることのない嫌な景色だった。

 フランス語でユーフォ―のことをオヴニというらしいというのは、大学一年の頃、学生とは一定の距離感を保ったままフランス語の授業を淡々と進める教員が思い出したように挟む雑談のお蔭で知ったことだった。馴染みのない響きと四字の綴りの手頃なサイズ感が妙に愛おしくて、その頃小説を書いていた浩輝は一時期そのモチーフに熱中したものだった。とはいえ個人的な熱情などというものは、格段に強いものでない限り、人に隠して抱え込んでいる内に自分で圧迫してしまって、気が付く前に殆ど意味を失っているのが常なのであるから、オヴニに託した浩輝の豊かな皮膚感覚はすぐに収縮して元あった輪郭、即ち言葉の持つ本来の枠組みに回帰した。

 小説という空間は、ある時点での自分の必死な願いや切実な感情を閉じ込めておくことの出来る特別な膜を持っている。手放した想いはその空間で気化し、或いは雨化して、来客と全的な邂逅を果たすだろう。


 日曜の通勤は動物園の客と幾駅か車内空間を共有することになる。動物園は季節を問わずそこそこの賑わいを維持していて、ベビーカーやブラウスや黄色い小さな靴やモッズコートがいつもオフィス街の一駅手前で一斉に降車する。東京という街は、大通りを逸れて一本内側の道路に出ると途端に雰囲気が変わって、同じ服装でその道のアスファルトを踏んで歩いていることにどこか浮遊した感じを覚えたりするところだから、何気ないような分岐が実は絶対的なものなのだ。身を包むという行為一つとってもそうだ。例えばどんな靴を履くか、という選択は個人に委ねられているようでいて、一度嗜癖化してしまえば他の道に遠出するのは容易でなくなる。一度教えられたことを人々は忠実に守ろうとする。それゆえに社会が滞りなく機能しているのであって、絶え間なくやって来る電車によってぐるぐると対流を起こしている東京の空は固定された人々の生活をかき乱すには至らないのだ。園内の観覧車とモノレールの青くてがっちりとしたレールが視界を横切り、浩輝はむしろ大きな檻の一面に並ぶ景色を夢想した。

 ざ、ざ、と足音は階段に急いで、そのままビー玉が滑らかな板の上を転がり落ちるように地下へ流れ込んでいく。まるで軍靴の行進だ。階段は銀色の手すりによって真ん中で仕切られているので馬の速駆けするスペースはない――。舞台転換の最中にかいた汗など、何の意味もない。早く済ませなければ何千万人もの人で創り上げるこの壮大な劇は台無し。舞台袖は様々な服装の人達でぎゅうぎゅう詰めなので、肺の空気をさっと入れ替える暇もない。

 蝋人形みたいな何ものかの視線をずっと感じるのだった。生身の人間に対して感じた悪意や、恐怖や、身体が気付いたら拒否している感じが凝固して白い悪夢になって、浩輝を常時見詰めているのだった。その冷徹な目は時に前触れなく実体に反射して、彼を身震いさせて終わりのない影の場所へと追い込んだ。

 交番の前に掲示された白いボードの「本日の死亡者」の欄には1の字が、容赦ない日光を受け止め反射しながら街の動きを眺めていた。駅を出るとすぐに大きな横断歩道があって、合流と分岐を繰り返しながら流れて来た人々は今一度大きなまとまりとなり、合図があると堰を切ったように一斉に街の構造に取り込まれていく。こうして今日も、大勢の人の不要な汗と仮面を舞台袖に撒き散らして、街が始まる。アスファルトはキラキラと朝の光彩を放っている。もっと急ぐ誰かが、肩を擦っていく。駅に隣接した百貨店がシャッターを開ける。

 とてつもなく長い時間を旅して来たようでいて、実際家を出て一時間も経っていない。この街の空気に同化することなど出来ないな。風がコーヒーショップの窓を撫でて思った。慣れることのない場所。それが実際に毎度観客の変わる舞台であるならば望ましい態度だろう。けれどここはどこ。この舞台からは下の様子なんて全く見えないじゃないか。浩輝はいつも通り日陰のある方の道をペースを落とさずに歩きながら意識を可能な限り上空へ飛ばした。慣れることのない嫌な景色だった。

「上島さん、これ今週号のインタビュー記事。昼までに校正お願い」

 分かりました、と言って上下二段組十ページ程度の記事を受け取った浩輝は、少し嬉しく思う。インタビューの相手は上京前から愛好して聴いていたロックバンドのメンバーだった。浩輝が彼等を知ったのは高校三年のときで、その頃彼等はまだシングルを二枚出しただけのメジャーとは言えない存在だったし、その後メンバーの変動もあったが、今は全国に多くのファンを獲得して知名度も高まっている。

 今回校正を行う雑誌は浩輝が就職した出版社の小さな部署がつくっている週刊誌で、音楽雑誌ではなく文芸的なテーマと時事的な話題を中心に扱う総合誌だが、巻頭のインタビューはなるべく広い視野を持って構成するというのが現在の方向性で、作家でなくとも言葉を扱って創作や表現をする著名人なら誰でもインタビュー対象である。それを聴く人がいて、文字に起こす人がいて、それを校正する人がいる。誰かの放った言葉が、こうして閉じ込められて保存され、やがて出荷される。ある意味では小説を書く行為よりもスリリングな作業だ。自分のギリギリのところやそこを少し外れた領域に飛散したものに、外部の人間達の手によって体系が与えられてしまう。インタビュー記事は一番人間に近い文章であるようでいて、人間の全部ではないし、人間の一部とさえ言えないかもしれない――、とはいえ浩輝はこの記事を一足先にじっくりと読めるのが嬉しかった。カタカタという音が休みなくあちこちで響く空間は意識の置き場所を間違えるとひどく精神を疲弊させる。がたがた、カチャカチャといった鳴りやまぬ連続音のようなものばかり意識される日々がある瞬間にぱっと少し、舞台の背景を変えた。……、ただそれだけのことであるのに。

 ゆったりとした時間、差し迫るものがごく小さな、それも実体のはっきりと視認出来るものであるだけに、自分の部屋で過ごすそれよりも随分とゆったりとした時間を浩輝は久しぶりに過ごした。とはいえ、日曜日は比較的に楽の出来る曜日だ。担当している週刊誌は毎週木曜発売で、火曜までに雑誌としての体裁を整えれば良いので、これだけ短いスパンで急を要する仕事が舞い込んで来る特殊な仕事の性質上、本当に気を抜くことなど出来ないが、それでも慣れて来ると、悪く言えば中だるみするような一日である。部署の人員は木曜から日曜までの間に一日休みを設定することになっているが、それ以外にこういった日があるのはどう考えても健康に良い。その証拠に、日曜日に休暇を取得する人は一人もいない。

 こまごまとした他の仕事も一通り終え、十一時半に校正原稿を提出すると、浩輝は昼食を摂りに外へ出た。ちゃんとした時間に昼ごはんが食べられる可能性が高いのも日曜日の良いところだ。一階に降りて自動ドアを抜けると、猛烈な暑気に思わず片腕で顔を覆う。さて何を食べようか、別に食べたいものなどないが、食事という行為をゆっくりと――出来ることならばいつまでも、満喫したいものだな。そんなことを考えながら、取り敢えず駅の方へ踏み出す。この食事が上手くいけば、ひとまず今日は上手いことやって切り抜けられるのでないかな。熱気に頭の方から身を委ねるようにして、出勤時と同じ速くも遅くもない足取りで浩輝は歩いていく。根源的な行為こそ、素知らぬ顔で切り離された空間で。個人的な行為に、意味を与えること。孔をこそ探せ――。

 現代社会において人間らしさを担保する為に必要なこと。それを考えると胃がキリキリと痛んだ。今朝の十五時間ぶりの食事であるコンビニのはちみつトーストは美味しかった。遠い遠い場所からふんわりと運ばれて来た味がした。

 孔、孔――

 小さなビルの地下の店でドライカレーを食べることにした。階段を下る一段一段で、頭部だけがまるで残像のように遅れて付いて来る心地がした。


 ――波が貝殻を攫っていく。

    日はどんどん照っていく。

   忘却と孤独とは背中合わせ。眠れぬ夜と明日の喧騒とは――


「三時から会議。アナウンサーのスキャンダルがあって緊急案件」

 椅子に座るなりコーヒーを片手に持った先輩の原田さんが嫌な報せを運んで来た。

 原田さんはいい人だ。困った事態に陥ったとき頼れば大抵はすぐに解決してくれるし、タイミングを見計らって持ち掛ければ相談にも乗ってくれる。年齢は三十五、六といったところで、この部署に務めてもう十年になる。特別に任じられている訳ではないが、実質的にデスクワークを統括しているのが彼だ。

 彼のことを考えると、いつも、入社して数ヶ月が経ってやっと彼との信頼関係が構築されて来た頃に犯してしまった重大なミスのせいでひどく叱られたことを思い出す。部長にだって怒られたけれども、あまり直接的な関わりがないから、ショックは小さ目だった。暑さで表面が溶けてしまった壁の上に白いシートで応急処置を施す。その繰り返しで、この楼閣は容姿を保つ。上部の朽ちて倒れて来る柱を咄嗟に受け止め、肩で力一杯押して元通りの場所に戻す。風に埃が舞う。青空に尖塔を突き上げる。長い囲いの塀の外側に散在する無数の眼玉にも、十分に昨日と同じ姿が映るように。そうやって浩輝は笑ったような爽やかみたいな顔をして返事する。

「分かりました」

 人の入れ替わりが少ないこの部署では、一番の新入りは浩輝で、彼と他の人達との間には今もなお大きな共有の断絶がある。とはいえ、彼の仕事は基本的には取り上げる話題の下調べだったりインタビューの文字起こしだったり校正だったりと、他の人達の仕事の下請けのようなものばかりだったので、その「差」が業務内容に大きく影響することはなかった。お腹の空くような仕事ばかりだ――渦を巻くように。浩輝は部長に一言声を掛けて取材に出掛けていくベテランの人達を椅子の背中で見送りながらいつもそう思う。ベテランと呼ばれる人になりたいとは思わない。責任も昇級も後輩も、想像するだけで腹から下がずっしりと重くなる。雑務の内には幾つか楽しいと思えるものもあるが、この仕事を好きだとは決して言えない。その事実が、出社時も昼食時も夕食時も、ずっと、渦を巻くように――。


 ガガ、ガ、ザピ……


「明日の十二時から記者会見だそうです。取材班から三名そちらに」

「火曜までに記事に出来るか?」

「おそらく」

「明日のその時間だったらデスクもまだ余裕あるし、上島君使ったら?」

「いや結構。人員は足りてるんだ。それより次々号のインタビュー相手はやく決めてくれよ」

「じゃあ文科省の記事は差し替え?」

「そうなりますねぇ。いっそのこと掲載もう一週遅らせて、インタビューも含めて総特集組むのもありかも」

「そんなに話題性あるかねぇ」

 取材班の飯島さんは何故だか知らないけれど発言力がある。部署全体での会議になると彼と部長とデスクワークの梶山さんがよく喋る。よく喋る人、というのが浩輝にとっての彼の印象で、それは初めから今まで変わることはなかった。梶山さん――こちらは飯島さんと同じ三十代初めくらいの女性――はどちらかと言えば楽し気に発言をするが、飯島さんは椅子に落ち着けた腰より上の部分をしばしば前後に運動させながら、なんだか苛ついたような話し方をするのが常だった。

 毎週新たな週刊誌を生み出して流通させる為には会議は不可欠で、というより、毎週行われていることは全て不可欠なのであって、このオフィスでの日々はその終わりない連続というのがもっとも正確な表現であった。コーヒーや太陽やワックスといったもの――浩輝の場合ははちみつトースト――から今日も一日がまるでシステムにログインするように始まって、共有、下請け、雑務、会議――。見慣れた頭に囲われた白いデスクの反射する蛍光灯の光。書き込みや付箋でびっしり埋められた大きなカレンダー。音も立てずひたすら滑らかに回り続けるありふれた時計の針。


 帰り道、雨どいの下を走り抜けていく一匹の黒い鼠を見た。目で追うと次の瞬間、鼠は民家の軒下からその脇を流れる澄み切った川の方へ走り始めていた。

 観光客がわんさか訪れるようなところではないが、紅葉の美しいことで有名な川だった。市役所には市の街並みの大きな模型があって、川の上流は大きな滝になっていた。ガラスケースの内側で、ツルツルした滝の表面を滑り落ちる丁寧な色彩が、今まさに白い水飛沫と結合しようとしていた。溶け合ってつるりと流れていくある観念的な季節の模様。

 ――共存という模様。


 その日も多くの仮面が合図を待っていた。四角くて奥行きのある、前面の張り出した大きな舞台に幾つものスポットライトが照射され、その中にいる人達は真っ白な濃い煙と全身で触れ合いながら休みなく動き続けている。

 一つの感情で何かを成し遂げることなど殆ど不可能だ。決して緩むことのない時間の速度に、感情は混ざり合って、いつかは深い土の底に沈んでいく。不意に表出する、ともすれば短い言葉の方が先に出て来るような単色の感情は決して大樹に育ち得る芽などではなく、一種の噴き上げのようなものだ。その小さな自前の力に仮面を剥ぎ取られることもあれど、それは本当に突然の出来事なのだから、身を守ること能わないのは仕方のないことだ。

 蝋人形の眼が支配する劇場の外は、強風が吹き荒ぶ草原だった。音を聴けば分かる。人間が道具を使うようになって、言葉を得て、社会を構築していく過程はまさに小さな劇場を作って次々と演目を替えながら上演し続けるようなものだ。人々は色々なものを忘れるから、違う演目で同じことを何度も言わせて、同じ笑顔や同じどよめきを創り上げる。その壁の横を象が掠めていく――。


 言葉の沈んでいくような黒さを見る。日常生活から排斥された、或いは排出されたあらゆる不要なもの達が集められ、流れ着いた出口のない黒い湖。地面すれすれにその水は湛えられていて、時折風が水面を撫でれば、ぷくぷくと冷たい噴き上げが返事をするかのように表出する。


 ブーン、ザザザ、ザピ……


 記者会見の会場はオフィスのすぐ近くで、十時頃取材班の飯島さん以下三名は賑やかに出て行った。カタカタといういつもの音があらゆる特異なことを少しずつ分解しては埋めていき、変わらぬ空間というものを演出していた。匂いだけが違っていた。月曜日のオフィスは、旅先の早朝のような、肉体の奥深い場所まで風を運び込む、静かな急きと名残惜しさの香りに満ちていた。明日には生産者の手を離れて回収不可のところまで飛んでいく、何人かの人間のかけがえのない文章達に、蛍光灯とモニターの眩い光に包まれた空間が緊張感を持って最後の抱擁を与える。

 入社以来、何度この月曜日を過ごしてきただろう。浩輝はデスクの上の棚に栄養ドリンクの空き瓶を並べた梶山さんの波のような前髪を遠目に眺めながら思う。今このオフィスは、社会に文章を放射する直前の貯め込みの時期にある。栄養ドリンクやコーヒーを買いに外へ出れば何てことない平日だが、紛れもなく彼等を包む空気は膨張していた。

 二時過ぎに飯島さん達が帰って来て、荷物や機材をそれぞれのデスクに置くと昼食を摂りにそそくさと出て行った。浩輝も丁度掲載広告の整理作業を終えて仕事が一段落ついたところだったので、意図せず後を追うようにエレベーターホールへ出た。下へ向かうエレベーターは丁度行ったところで、幾らかの安堵を覚えた。

 酸化する今日の過ぎ去ったルーティンワーク、照り付ける日差し、あの人の背中それを反射して、信号……

 浩輝はいつも通り右手の方――駅のある方角へ歩き出した。出社するときは東側に位置する向こうの道を通ってここまで来て信号を渡り、昼食の際はこちらの道を利用するのだ。


 滝から途切れることなく繋がっているその穏やかな川に、もみじの流れる頃には、風を切って遊んで、絶え間なく蒼穹と何かをやりとりしていたものだった。

 あの頃周りにいた人達の顔を、僕は一つでも思い描くことが出来るだろうか。


 火曜日の朝の東京には――正確には月曜日の夜中から断続的にそうだったのだが、強い雨が地面を打ち付けるようにして降っていた。大して眠れず、早目に家を出た浩輝は、三十分近くの余裕を持って駅に到着すると、可能な限り綺麗なトイレを借りる為、駅前の商業施設の上層へと向かった。一番上のレストラン街の一つ下の階、時計店やスーツの店が入居するエリアでエレベーターを降りて、他に客のいないフロアの上をゆっくりと歩いた。空調がやけに効いていて、少し濡れた袖口やズボンが急速に冷えて体温を奪った。

 トイレの入口へ繋ぐ通路の一番先、少しだけ静かな一角の窓から眼下の大通りを眺めた。太陽の最も接近したこの窓から、一体どれだけの人が灰色の地上を眺めたろう。

 裂けていく空気、眺める窓の内側、車は走り出す雨を裂いて――涙が出て来る。このスピード感に身を任せた作業のせいだ、ただ眺めているだけなのに、思考はとめどなく――

!!「「「「ザピ、ザザザザ OK、977町の毒の都はキエサッタ、」」」」


                ***


 とある浮遊が、日常を攫って眼下のその風景に大きすぎる風穴をあけることがあるかもしれない。


                ***


 月曜の夜は焦げ付いた鍋を根気良く掃除するときのように段々とその天球に黒い雲の占める面積を増やしていき、屋根屋根の彼方に光る三日月を覆い隠した。空のペットボトルにこの日を詰めて、色々な人の声を記憶に残っている内にギリギリまで詰めて部屋の端から並べていく作業が、家に帰ってやがて眠りに就くということの一連の流れであった。いつか実験でも出来そうな空虚な景色が多くのときを経たように横たわるのを見る。見たくないものから目を背けるというより、それでも直視せねばならぬようなときにこそ、そこにない世界というものが頭の裏側から滲み出て来て広がっていく。どんどんどんどん面積を拡大していき、この部屋を飛び出さぬようにこの世界を飛び越えて、奥行きを増し、匂いを創り出すそのはたらき――

 その運動それ自体の向こうからやって来た竜巻のような抗えぬ力が、その世界を壊さぬようにこの部屋を、それどころかこのアパートを、この街を巻き込んでいく。どんな景色もどんな言葉も、オヴニが既に知っていた。言葉にならぬような衝動も酩酊も苦悩もその全てをそれは代弁した。

 浩輝はそれにあらゆるものを投げかけ、それは彼にあらゆる返しを与えた。それは確かに言葉を操った。顔だけが見えなかった。より正確に言えば、届かない顔というものをそれは持っていたのだった。視線さえも届かぬ顔――それは直感的に分かる事実だったし、その一点における距離が浩輝のそれに対する全的な投機を勝ち獲った。それは恐らく、うつつの世界に現れ出てはいけないものだった。それだからこそ浩輝はそのときベッドの上から浮遊したのだった。

 気が付いたら二時間程眠っており、薄暗い世界の少しだけ静かな一角で、彼はいつもより数十分早く起床したのだった。


 浩輝はオヴニに語りかけた。それは日曜日の帰宅途中のこと。

 プラットホームの端から、ホームドアの向こうの光る線路を眺めていた、その日の自分のこと。呼ばれたようにそこへ近づいていきそうになって、ふと横を見ると、沢山の人達が各ホームドアの前にずっと奥の方まで並んでいて、その顔の集合を見て急速な後退と呼ぶべき恐怖を覚えたこと。無論オヴニは全て知っていた。時間を超越して、つい先程のことのように知っていた。

「ホームドアのあの衝動的悪夢、あの日の僕は今の僕の奥にずっと待ち構えているのだ!」

「視えてルヨ、ちゃんとそこにいる、眠ってるノサ」

「そうか、それなら良いんだ、自分の顔なんて、あの幾つかの顔に比べりゃずっとましだもの」


 鈴の音でリス達は起床する。その世界は断片的な記憶を希望の名の下に繋ぎ合わせた楽園に違いなかった。そちらの世界には、ただ酸素だけが足りていなかった。外に向けて広がっていくか、自分の中に極限まで収縮するかという問題が根本にはあった。収縮の運動は音を立てて、いつも酸化を呼び込んだ。

 眠りに戻るか、早目に出発するかという問題が根本にはあった。

 黒い雲が緞帳を下ろした。ドアを開けると、雨の音がまるで拍手のように周りを三百六十度包んだ。三秒おきに視界は甦生して、樹木の香りが遠い遠い場所からふんわりと漂って来た。

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