第16話
その日の夜はやり場のない怒りを抱えたまま、どうやってテーブルを離れて寝室まで行ったのか思い出せない。ショックなことがあると、あまりに強すぎる衝撃を脳が拒否して強制的にその時の記憶を消してしまうということがあるらしい。そのせいなのかどうかはわからないが、話し合いの夜の記憶は詳しく残っておらず、次に続く記憶は翌日の朝の様子からだった。
私は娘を起こしに子供部屋へ行った。その日はいつもより娘の寝起きが悪く、布団から出るまでぐずぐずしていたからよく記憶に残っている。
「起きて!起きないと遅刻よ」
「いやぁ。眠い眠い!学校休む」
「眠いって理由で休めるわけないでしょ。本当に遅刻するよ」
「じゃあパパに学校まで送ってもらうもん」
娘が発したパパという言葉にどきっとした。
あんな男でもこの子のパパなんだ・・・。
当たり前なことを改めて考えさせられた。この子の中には半分あの人の血が流れているのだと思うと、一瞬娘の顔から目を逸らしてしまった。この子に罪はないのに、なんだか目には見えない何かに娘を汚されたような気がしてしまったのだ。
「パパはさ・・・忙しいから送ってくれないよ」
娘は顔の下半分を布団で隠しながら眉間に皺を寄せて私を睨んだ。そんな娘の機嫌を取ろうと、優しい声で娘の柔らかい髪を撫でながら誘い出す。
「ねぇ、朝ご飯はワッフルにしようか!バターとシロップたっぷりかけて食べようよ!」
私の言葉に娘の目は急にぱっちりと見開かれ、輝いた。
可愛い。本当に可愛い。この子は私の子だ。私だけの子だ。私が十月十日腹に宿らせ、痛みに耐えて生み出した命だ。夫のものでも誰のものでもない。私の心に美しい愛情や愛おしさが湧き上がって、昨日から渦巻いていた負の感情が浄化されていくような心地になった。
「パパは?もうご飯食べたの?」
娘はそんな私の心の変化などまるで興味がないように問いかけて来る。
「え?ああ・・・食べてるんじゃないかな?それより早く顔を洗ってらっしゃい」
私の反応や表情など気にすることなく、娘は素直に布団を蹴飛ばして洗面所まで駆けていった。
これでいいのだ。こうでなくてはならない。子どもは何も知らなくていい。知らないまま育ってほしい。それが出来の悪い親の唯一の願いだった。
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