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「最近、太郎君こないわねぇ」
小学校からの帰宅後すぐ、母の
どうやら体調崩したらしく、華子からしたら嬉しいことこの上ないことである。
太郎がいないだけで、これだけ解放的なことがあるのかと言うほどに。
「そのうち来るでしょ」
来て欲しくないのが本音だが、言えるわけもないので、当たり障りのない返事を返した。
明後日からは小学校最後の夏休みである。
どうせなら、夏休みの終わりまで体調を崩しておいてもらいたいものだと、ランドセルを置きに自分の部屋へ上がろうとする華子を、華奈子が呼び止めた。
「華子ちゃん、ちょっとお見舞い行って来てちょうだい」
華子は母に似ているのだと良く言われる。
だから、きっと美人になるとも。
大きな黒目が楽しそうに微笑む。
けれど華子自身はそんなこと思ったこともない。見た目の問題ではない。
「太郎くんにケーキを焼いたの。あとクッキーも。ね、これ持ってお見舞い行って来て?」
「い、」
「うん?」
「、いいよ〜」
「ありがとう。それじゃ袋に詰めて準備しておくから、華子も準備できたらお願いね」
「は〜い」
嬉しそうに袋に詰める華奈子に笑顔で答えると、再び階段を登りはじめる。
母は華子が太郎を嫌っているのに気づかない。しかもあの太郎の裏の顔にも気づかない。確かに彼は演技の天才ではあると思うけれど、娘の自分があれだけ嫌がっていても、恥ずかしがっていると勘違いしてしまうほど、本当は好きなんでしょと勝手なことばかり言って、笑っている。
極め付けはこれだろう。
「じゃあ、太郎くんとワルムさんにもよろしくね、いってらっしゃい」
「いってきます」
渡された紙袋を覗き込む。
(病人にケーキとクッキーって、拷問としか思えないわ)
自分が貰って嬉しいかと言えば、絶対困る。
口には絶対しないけれど、華奈子は驚くほどの天然なのだ。
「これはこれは、華子お嬢さまお久しぶりにございます」
「ワルムさんこんにちは」
「今日は坊ちゃんのお見舞いで?」
「ママに頼まれて」
「ええ、ええ。それで構いませんよ」
どこか嬉しそうに碧い瞳を細めるワルムに、勘違いされては困ると華子はすかさずいうが、この老人はにこにこしながら笑う。
ここでも絶対何か勘違いされているようで、紙袋をワルムに渡してサッサと退散する予定でいた華子は、結局丸め込まれて太郎の寝室の前まで連れて来られた。
「……えーとワルムさん。風邪とかうつっちゃうとあれでしょ?」
「大丈夫です。坊っちゃまは別に風邪を引いておられるわけではありませんから。きっと、お嬢さまが訪ねてこられたなら、元気になられますとも」
小6にして遠回しに断ろうと頑張る華子をよそに、
「それではごゆっくり…」
仕方なく華子はその扉を開けるのだった。
夕方だといってもまだ明るいのに、部屋は夜のように暗い。
まるでここだけ別世界のような雰囲気を醸し出して、歩ませるのをためらわせた。
寝室の中には大きな
寝室なのだからそれで十分なのだが、なんだか妙に寂しい感じがした。
部屋の暗さが相まって、余計にそう思ってしまうのかもしれない。
入り口近くで、立ち止まっていても仕方ないのでしぶしぶと寝台に近寄っていく。
(やっぱり、風邪なんじゃない…)
近づくにつれて聞こえてきたのは荒い呼吸音だ。覗けばやはり苦しそうに眉を寄せて眠る太郎が横になっている。
いつもの彫刻のような端整な顔は、褐色の肌でわかりづらいが、赤く火照っているように見えた。
(黙ってれば本当に天使だなぁ〜)
その全てが整った顔立ちは、この世のものであるのが嘘のようで、まつ毛の一本一本にしても、作りものめいたように美しい。
それはもはや一つの芸術品だ。
「ーー……ぎ」
夢にでもうなされているのか、太郎は苦しげに小さな声音で呟いた。
自然と耳を傾ければ、華子は驚いたように寝台わきから飛び退る。
(……っ、聞き間違い…?)
早鐘のように鳴り響く心臓のあたりを、強く服がくしゃくしゃになるほど握りしめた。
「…っ…さぎ、…うさぎ」
「っ!!」
やはり聞き間違いではないようで、華子の瞳は極限まで見開かれた。
まさか自分のことを呼んでいるとは思わなかったので尚更驚く。
(いったい、どんな夢見てるのか…)
本当は、彼に自分の名ではない[うさぎ]と呼ばれるのは嫌ではない。他の人とは違う特別な感じがするからだ。
たしかに、会えば嫌なことばかり言うし、からかっても来る。それが嫌だというのは本当で、太郎を嫌っているのも本当だ。
けれどそのまた逆もあるにはある。
あの日あの時確かに眠る少年は華子には天使に見えて、一目惚れだった。
夢でまで呼ばれたら、少しは期待してしまうではないか。
「…んだ、今日は花柄のパンツか」
「はいぃ?!」
前言撤回。
思わず膝のあたりを押さえて見て気づく。今日はスカートなんて履いていないことを。そもそも太郎に会うときは、華子はスカートを履かないようにしているのだ。
どぎまぎしながら華子は再び太郎に視線を戻す。
(なんだ、…ただの寝言)
太郎はやっぱり目は閉じている。
けれど心なしか、最初見た時よりも安らかな顔つきになっている気がした。
「ー…夢でまでそんなこと言うのはどうかしてるでしょ」
しかも今日の柄はまさにそれだ。
腹立ちさと、ある意味恐怖を覚えながら、病人を怒るわけにもいかず、華子はため息をこぼした。
「もうお帰りですか?」
部屋を後にすると、ワルムがにっこりと微笑んで聞いてきた。
「…眠ってたから、もう帰るねワルムさん」
「起こしてくださっても良かったのですよ」
「そう言うわけにはいかないでしょ」
体調の悪い人を無理やり起こすなんてできるわけがないし、そもそも起こしたくもない。
さっきの寝言で余計にそう思った。
「まあ、いいでしょう。…坊ちゃんは明日にでも元気なお姿をお見せできるでしょうから」
「そうだと良いね」
そんなことはありえないと、華子は思っている。あんなに体調が悪そうなのに、明日元気になるなんてありえないと。
けれど、ワルムのあの楽しげに言った予言は当たってしまった。
「うさぎ。今日は久しぶりにスカートなんだな」
絶対来ないと思っていたからこそのスカートだった。
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