自身との対峙

寝室にリンをそっと寝かせて朝からしていなかった家事に手をつけ始める。幼稚園に連絡して明日からの延長保育の予約、そして会社にも事情を話す。あとは何をすればいいんだ。掃除機をかけながらふと顔を上げると、シェルフの上に置かれている家族写真が目に留まった。アキトを肩車した俺と、リンを抱っこしたアイの笑顔。どこで撮ったものだろう。写っているのは俺自身なのに写真を撮った場所の記憶が全くない。温泉街?どこだろう。こんなとこ、家族で行ったかな?無性に心がざわつく。子どもたちの大きさから判断して、それほど昔に撮ったものではないはず。それなのに思い出せない。これ、本当に俺なのか?

そのときだった。2階から誰かの歩く音が聞こえた。リン、起きたのか?子どもの割に歩幅が大きいような足音。第六感が警鐘を鳴らしている。リンが危ない!?武器になるようなものも持たずに気配を殺して俺は階段を上る。寝室のドアは少し開けたままにしていたのでそのまま部屋の中が伺えた。

「誰だお前!」

リンを抱いて背中を優しくポンポンと叩きながら身体を揺らしていたそいつ。それは俺自身だった。心臓の鼓動が激しく波打つ。俺は、もうひとりの俺と対峙する。

「リンをどうするつもりだ。すぐに手を離せ」

もうひとりの俺は落ち着き払ってこう答える。

「リンが起きてしまうだろう。聞こえなかったか?少し泣いていたから抱っこして落ち着かせてるんだよ。だから頼むから大きな声を出さないでくれ。ああ、そうだ。家族で行った箱根、すごく楽しかった。アイも子どもたちもすごく喜んでくれた。もうわかっただろ?ここにいるべきなのは俺なんだ。だからお前はサエちゃんのところへ戻れよ」

気味の悪いほど優しい笑みを浮かべたそいつから、俺はリンを無理矢理奪い取り、床に組み伏せる。大きな音がしたけれど、幸いにもリンは規則的な寝息を立てたままだ。

「俺は俺の選んだアイと、子どもたちと人生を歩みたいんだよ。邪魔しないでくれ。もう後悔したくない」

気がつくと俺はそいつの首を締めていた。目が血走り、苦しそうにあえいでいたが、まだ笑っていた。組み伏せられながら俺が俺に向かって声を絞り出す。

「なぁ、お前の肩に寄り添ってきた幸せがいつまでもそこにずっとあると思うなよ。お前の手でそれをなでてやって、お前の手でそれを掴んでおかなければ、俺はいつでも奪いにくるよ。覚えておけ」

挑発されたと思った俺は、喉仏をひと思いに潰してやろうかと思った。けれどどうしてだろう、それはできなかった。

俺が肩で息をして、一瞬目を閉じるとそいつはもう姿を消していた。

「お父さん?そこにいるの?どうして泣いてるの?」

リンが目を覚まし、床にへたり込む俺に声をかけた。俺は自分が泣いていたことに気づかなかった。涙を拭いて、リンを安心させるために言った。

「リン、ごめんな。起こしちゃったかな。そうだ、今日はリンの大好物を作ろう。何が食べたい?幼稚園はお休みする代わりにお父さんのお手伝いをしてくれるかい?お父さんな、お兄ちゃんとお母さんが帰ってきたらリンとふたりで美味しいものを作ってあげたいと思ってるんだ。それまでに上手に作れるように練習しよう。どうかな、やってくれるか?」

「お父さんお料理できるの?リン、一緒に作りたい!卵も割れるよ」

身体を起こしたリンを抱き上げてめいっぱい頬ずりする。俺たちはリビングへと降りていった。抱き上げたリンは、だいぶ重くなったと感じたけれど、絶対にこの手を離すものかと俺自身に誓った。俺はなんだか涙もろくなった。


◇◇◇◇


「アイ、明日は土曜だから俺の番ね」

「お父さん、僕、チキンカツがいいー」

アキトが満面の笑みを浮かべながらそう言った。

「リンちゃんタコわさー!」

リン、4歳児のくせに酒飲みのオッサンみたいな好みだ。俺の作る料理の影響だろうか。

「毎週末チキンカツとタコわさを食べてるような気がするけど…アイは?リクエストある?」

「異議なし!ねえユウゴ?今夜はゆっくり晩酌しない?」

ふたりで飲むなんて、一体どれくらいぶりなんだろう。今夜のアイは、なんだかいつもより妖艶に見えた。


「おまたせ。アキトもリンも寝た」

「ありがとう、相馬クン」

「え?」

子どもの寝かしつけを終えた俺に対する懐かしい呼び名。それはまだ子どもが生まれる前は、俺たちの合図だった。俺はドキドキしながらアイの小柄な肩を抱き寄せる。

アイが俺に身を任せてこう言った。

「寝かしつけまでしてくれて嬉しかったよ、ユウゴ。おかげで私、先に飲んじゃってる。ありがとう」

そう言って無邪気に俺にキスをする。微笑んでいるアイをそのままソファーに押し倒して口づけた。

「アイ、愛してるよ」

「どうしちゃったの?お酒飲まないの?」

「俺は後でいいの」

知り尽くした、それでもどこか懐かしい身体をゆっくりと愛撫すると、アイは控えめに反応し始めた。やばい…久しぶりすぎてもう我慢できない。

「そんなに焦らないでよ、相馬クン」

パンツを下ろそうとした時、またアレが起こる。後頭部に走る衝撃。なんだよ、俺たちの中でもう話はついたはずだろ?くそっ。


薄れゆく意識の中で、また俺はあいつとすれ違う。やめてくれよ、俺はもうそっちには戻りたくない。前と比べて異様な感覚。あいつは確かにこう言った。


『サエちゃんをよろしく。アイと子どもたちは俺が幸せにするね』


とてつもない恐怖の瀬戸際に自分が立たされていることに気づく。

「だから俺は、俺の選んだ女を幸せにする。俺の手で子どもたちを守るんだよ!」

もうひとりの俺を押し退けて、淀んだ意識の澱の中で、俺は元来た方角へ宙をかき分け必死に進む。サエちゃん、少し寂しいけどホントのホントにさよならだ。俺は、アイとアキトとリンと暮らすことを選んだんだから。

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