現実への復帰
タバコ臭い壁。薄暗い証明。それにしても冷房強すぎないか、この部屋。どうやら途中で外されたらしいコンドームが床に落ちている。ラブホか、ここは?ベッドで隣に寝ているのは出会い系のユリだ。よくよく見ると、心なしか怒ったような表情を浮かべている。
「あの、ちょっと中に出てたような感じがしたんですけど…気のせいですよね」
ユリが狼狽え気味に俺にそう言った。
「ま、大丈夫だとは思うんですけどね、一応…」
急に自分がしたことを再確認したくなって俺は状態を起こしながらユリに聞き返す。
「ご、ごご…ごめんなさい!あの俺、今まであなたとエッチしてたんですか?」
突然ユリの信じられないものを見たかのような表情。
「そうじゃなかったらなんなんですか!もう、洗ってきます!」
最低!とか最悪!とかなんとか呟きながら女はさっさとシャワーを浴びに行ってしまった。俺は確か、さっきまでサエちゃんといたはず…夢?戻ってきたのか?
ユリと別れ、コンビニで時間を潰してから帰路につく。なんだかどっと疲れが…まだ夕方の6時台か。そうだ、今日は定時退社の日ってことにしよう。そして、約束どおりリンと風呂に入る日。
玄関でただいまー、と言ってみるが、まだ誰も帰宅していないらしい。ダイニングのドアを開けると俺が今朝下げっぱなしにしていた食器がシンクに放置されていた。アイたちが帰ってくる前にちゃっちゃと洗ってしまおう。今までこんなことすらしてなかったんだな、俺は。
すると、玄関の開く音。
「ただいまー。あれ、パパ早かったんだね。話があるからアキトとリンが寝たらリビングに集合ね」
アイが俺の目を見ずにぶっきらぼうに言う。え、なんで?もしかしてバレた?
やや神妙な面持ちで夕食を済ませ、俺は珍しくアキトとリンを風呂に入れる。その後アイは寝かしつけをやってくれた。俺はその間ソファーに座り、手を腿の間に挟み込んでソワソワとアイが来るのを待つ。俺から打ち明けてさっさと謝ってしまった方がいいのか、それともアイが喋るのを待った方が得策か、俺の中で答えを出す前にどすどすとアイが隣に座って話し始めた。
「パパ、今日アキトが小学校で気を失って早退したんだ。それで帰りに病院に行ってきたから遅くなった。原因はこれから通院して調べるんだけど、もし大きな病気だったらって思うと私は今の状態ではすごく怖い。今私はひとりきりで子どもを育ててるみたいですごく孤独で、不安なんだよね。本当はこうなる前に話し合うべきだった。もちろん、あの会社は仕事量が多いし忙しいのはわかる。でもこのままユウゴが子どもたちに目を向けずにいるのに私は耐えられない」
俺はキョトンとしながら目をパチクリさせる。
「え?そのこと?」
と俺は言ってから、不倫がバレたのではないかと気にしていたのが気恥ずかしく思う。そして同時に言葉選びを間違えたことに気付いた。 俺は慌ててこんな風に続ける。
「ああ、えっと、そうじゃなくて、俺も実はそこはアイに謝らないとならないって思ってた」
アイがまくし立てるように俺の言葉を遮る。
「ユウゴ、今朝ノーメイクで出掛ける私に『その顔で出掛けるの?』とか言ってたけど、子どもたちにいってらっしゃいも言わなかったでしょう。それってどうなのよ?あ、でも朝の食器は洗ってくれてありがと。とにかく、これからアキトの対応で手がかかるかもしれない。そうなったらその分リンのフォローをしなければならないでしょう?私ひとりでは無理だよ」
一度深呼吸をして俺はアイの目を見てつづけた。
「俺さ、今まで食器もロクに下げない時あったよね。結婚したての頃はカッコつけてたけど、最近アイにとって全然いい夫じゃなかった。甘えてたよ、アイに。アキトともロクに遊んでやらなかった。リンと風呂に入るって約束も今日ようやく果たした」
アイは黙って俺の話を聞いてくれていた。俺は続ける。
「リンはもう頭からシャワーをかけても泣かなくなったんだなって、成長してるんだなって初めて思った。それで、色々考えてこのまま子どもたちの成長に目を向けずにいたら俺は後悔するってやっと気づいた。アキトなんか最近俺に遠慮してるのか、全然話しかけてこなくなっちゃったよな。情けないけどこんなことになって初めて申し訳ないことをしてたと思う。これからの俺の頑張りで償いをするから、頼むから離婚とかしないで。きっと、赤ちゃんの頃はもっと大変だったし辛かったよな。ごめんな、アイ。もちろん子どもたちにも申し訳なかった」
アイはしばらく俯いていたけれど、顔を上げてこう言った。
「子どものことに興味ないのかと思ってたけど、そんな風に思ってくれてたんだね。あのね、離婚なんてしないから。私はユウゴのことが今も好きだから、あなたと一緒に家族でいることを楽しみたいの。でもこれから子どもたちを少しでもないがしろにするようなことがあったら、その時は知らない」
久しぶりにパパではなく、ユウゴと俺のことを呼んでくれた。アイはまだ少しだけ膨れていたけれど、怒った表情すらも愛おしく思えた。そして俺たちは本当に久しぶりにキスをした。前にしたの一体いつだっけ。そんなこと、もうどうでもいいや。
そして、アキトが41度の高熱を出したのはその数時間後の未明だった。
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