すれ違いの始まり
アイと俺は職場恋愛だった。女だけど総合職で、営業成績も優秀。同期で入社して同じ部署に配属された俺たちが恋人同士になるのにそう長く時間はかからなかった。
「相馬クンへ。今日は焼き鳥行こ」
昼休みになると時々俺のデスクに貼られる付箋。ヘタな鳥の絵が描かれているのが笑えた。LINEすればいいのにわざわざこんな風にやりとりをするのが彼女にとっても俺にとっても職場恋愛の醍醐味だったのかもしれない。デートの誘いはアイからが多かった。普段は男勝りだけど2人きりになるとなかなか可愛いところがあるやつで、俺はすぐアイに夢中になった。付き合って2年目、神妙な顔つきでアイに呼び出された。まぁ、俺はその表情だけで全てを悟ったのだけど。
「大事な話がある。相馬クン、私…」
「もしかして…できたの?なぁ、そうなんでしょ!」
「ねぇ、どうしよう…」
「決まってんだろ、俺と結婚してください!ダメ?」
アイの表情がみるみるうちに解け、俺たちは婚約、入籍、結婚式と、怒涛の日々を過ごしていった。俺はこれから所帯を持って、こいつと支え合って家族で生きていくんだ。これからもっともっと仕事頑張らないとな。きっとアイはいい母親になるぞ。そんな風に意気込んでいた。
1人目の子ども、アキトが産まれてからというもの、俺たちの生活は激変した。俺は部署の配属が変わり残業続きになる。育児休暇中のアイは毎晩の夜泣き、授乳、オムツ替えに追われていた。そしてみるみるうちに痩せ、愚痴っぽくなったり突然泣き出したり情緒不安定になっていった。仕事で余裕のない俺がアイに対してかける『母親なんだから…』という言葉に過剰に反応して、アイと俺は声を荒げて度々喧嘩した。
「勘弁してくれよ。俺も今仕事キツいんだ。アイも会社にいたんだからわかるだろ?俺だって疲れて帰ってきてるんだからそんないつもキリキリしないでくれよ。君はアキトと一緒に昼間に寝てくれればいいから」
「そんなこと言われても家のことだってしなきゃならないっていうのに、一体いつ寝るっていうの?ユウゴももう少し協力してよ!そんなこと言われないとわからないわけ?」
頭を掻き毟りながら俺が言葉を返す。
「アイがお腹痛めて産んだ子どもだろ。俺は仕事を頑張る。アイは子どもと家を守ってよ」
普段は理路整然と落ち着き払っているアイが取り乱し、泣きながら言う。
「ユウゴ…あなたはいいよね、会社に行けば仕事はある程度調整できるし、自分のタイミングでトイレ行けて、なんならタバコも吸えるでしょう?真面目に頑張ったら上司から評価されて査定も良くなる。その点私はアキトの後追いでトイレも開けたまましてるし、お昼寝もバラバラ。なかなか寝ない時なんてザラにある。離乳食を頑張って作っても食べずに遊んじゃってテーブルも床もめちゃくちゃ。育児って仕事と違って成果が見えないの。次から次へと予測できないことに対応しなきゃならない。しかもここまで頑張れば終わるっていう区切りがないの。もちろん誰も褒めてなんかくれないし、アキトに対する心配ごとも減らない。その辛さわかる?おまけにこうやってユウゴに言っても一切取り合ってくれない。母親なんだからっていつも言うけどさ、私の人生が突然アキトの付属品になっちゃったみたい。ねえ、助けてよ。ユウゴに助けてもらえないことが、今は一番辛いよ」
乳飲み子のアキトを腕に抱え、涙を零しながらアイは俺を叱責する。とにかく毎日、毎日、毎日、毎日だった。俺はいつからか食事をしたらすぐ自室にこもりがちになった。最初のうちは仕事が残ってるとか言い訳してたけど、だんだんそれすら無くなっていった。とっくに寝室は別々だった。
やがて、アキトが一歳になってから入れようと思っていた保育園に落ちた。
「ユウゴ、保育園ダメだったわ。これからどうしよ」
「アイが好きなようにすればいいよ」
俺は優しさのつもりでかけた言葉だったけれど、アイはその言葉をどんな風に受け取ったのだろうか。もっと他の言葉が適していたんだろうか。何も言葉を発することなくただ頷くアイの目はやや虚ろだったけれど、おぞましいほどシンクに積み重なった食器類を見ていた気がする。少しすえた生ゴミの匂いが三角コーナーから漂ってくる。アキトがリビングに散らかしたおもちゃ、クレヨンでされた壁のらくがき。アイは視界の隅にそんなものたちを見ていたような気がする。会社でバリバリ働いていた頃のキラキラしたとした面影は、もうほとんどなかった。
「うぇーん…」
2階の寝室に寝かせているアキトの泣き声。アイが溜め息混じりに寝室へ向かったので俺たちの話は中断された。
そして数ヶ月後、俺の飲み会帰りに気まぐれにしたセックスで、2人目のリンを授かった。その頃の俺たちは既にキスすらしていなかったわけだけど。アイがリンを妊娠してから俺たちはまたセックスレスになったんだ。妊娠がわかった時のアイの表情は、結婚したあの時と同じかそれ以上になんとも言いがたいものだったが、俺は気づかないふりをして、なるべく明るく言った。
「これで4人家族か!また賑やかになるなー」
「他人事みたい…」
程なくして、アイは会社を退職した。収入に関しては俺は同年代の中でも少ない方じゃないからまぁそれでも問題はないんだけど。これからは子どものことだけ考えればよくなるわけだし少しはアイも楽になるのかな、と思った。思ったけれど、その時は何も言わずにいた。夫婦の会話らしい会話は、確かこの辺りからどんどん少なくなっていった気がする。おはよう、いってらっしゃい、ただいま、おかえり。そのくらいが関の山って感じだった。
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