第32話 忘れたくないんですが。

「どうしましょうか……」

「そうだねェ。あの子の為には、消すのが一番だろうさ」

「……放り出すんですかー?」

「身体が治るまではここに置いてあげるさ。でも、そこまでだよ。覚えてない方が、あの子にとって幸せさ」

「本当に……そうでしょうか……?」

「今ならまだ普通の生活に戻れるんだよ。安穏とした生活に勝る幸せはない」

「それは……そうですけど……」


 閉められた扉の前に立っていると、そんな会話が聞こえて来た。

 声の主は恐らく、朱鷺トキさん、ルリさん、織部オリベさんだ。

 ……私の事を話してる。

 私の記憶を消して元の生活に戻す、そんな相談をしてるんだ。


 元の生活に戻れるんだ……何も知らなかった時に。

 そしたら、また普通に会社行って残業して、時々ストレスをうどん生地にぶつけて、そしてまた会社に行って──


 今腹に抱えた、心の傷の痛みも悲しみも、怒りも、全部忘れてしまえる。


 忘れてしまえる……

 ……。


 命を助けてくれた、命懸けで守ってくれた、蘇芳スオウさんの事も忘れるの?


 約束した事も?


 散々人をもてあそんんで殴って翻弄した、天雲紫苑アイツへの怒りも忘れて?


 それでいいの?


「私は、忘れたくない」

 あの文様がある左手をギュッと握り、扉をバタンと開けて部屋にズカズカと入る。

 驚いた顔をして、織部オリベさんとルリさんが立ち上がってこちらを見た。

 朱鷺トキさんは一人、厳しい顔つきで私を見据えている。

「……アンタの為だよ。忘れた方がいい」

「そう思うなら、ふん縛って押さえつけて記憶を消せばいいです。全力で抵抗しますけどね」

 鋭く冷たく言い放ってきた朱鷺トキさんの言葉に反抗する。

「……アンタの力なんて大した事ないんだよ。分かってるのかい?」

「勿論。それを痛いほど実感しましたよ。……ついこの間」

 私と朱鷺トキさんの言葉の応酬に、ルリさんが眉根を寄せて悲しい顔をする。

「確かに私の力なんてゴミみたいなモンですよ。でも、ゴミにはゴミの矜持きょうじがある」

 そう言い放つと、朱鷺トキさんが目を剥いて、そして──

 爆笑をし始めた。

 私も驚いたけど、何より朱鷺トキさんの横にいるルリさんと織部オリベさんが一番驚いていた。

「いいねぇその啖呵タンカ! そんな気持ちよく啖呵タンカを切る女の子なんて久々見たねェ!」

 そうお腹を抱えて笑う朱鷺トキさん。浮かんできた涙を指で拭いつつ、鋭くも挑戦的な目で私を見つめた。

「でも、気概だけで物事が上手く進むなら戦争なんて起こらない。アンタに何が出来る?」

 射竦められてしまいそうなその朱鷺トキさんの視線を、毅然として正面から受け止める。

「何も。今は。だから朱鷺トキさん。私を上手く使って下さい。何でもします。知識も、身体も、能力も。

 アイツから──天雲アマクモ紫苑シオンから能力を奪い返しましょう。

 そして、本来の後継者……織部オリベさんに返すんです」


 そんな私の強い言葉に、その場にいた誰しもが驚愕の表情を隠せずにいた。

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