第4話

アヌビス。

エジプト神。

黒き神。

ジャッカルの頭部を持つ半獣神。

冥界の神。

オシリスとネフティスの子。

上エジプト リコポリスの守護神。

死者の魂を導くもの。

聖地の主人。

自ら山にいるもの。

ミイラを布で包むもの。

清めの幕間の主人。


いつもの足取りで眞壁は階段を降りていった。

人とほぼ同じ大きさのアヌビスが守る扉を開けて、店の中に入ると空気が違っていた。

地下だからということもあるかもしれないが、よく言えば一種独特な雰囲気、悪く言えば常連でなければ近寄りがたい雰囲気があった。

「あら、今日は早いのね」

入ってきた眞壁の姿を見つけたジェディがすかさず声をかけた。

店内には彼女しかなかった。

正規の営業時間ではあったが、客は誰もいなかった。

彼女にそう言われるのも眞壁はわかっていた。

なぜかというとまだ日が高い昼間だからである。

いつもなら日が沈んでから訪れることが多いのだ。

「いえ、ちょっと」

眞壁はジェディがいるバーカウンターへ近づいて座った。

「暑いから涼みに?」

青く長い髪を揺らしながら彼女が笑った。

そして眞壁が座るやいなや間髪置かずにミントがてんこ盛りに飾られたグラスをバーカウンターの上に差し出した。

「はい、どうぞ」

「まだ、注文をしていませんよ」

「細かいこと気にしない!喉越しがいい飲み物って思ったでしょ?ビール以外で」

「それは、まあ…。」

「モヒートにしようかこれにしようか、迷ったんだけど。こっちにしたわ。」

バースプーンを魔法の杖のように持ちながらジェディは笑った。

「バーボン好きでしょう?」

眞壁はグラスを持ち上げると香りを楽しんだ。清涼感のあるミントがトップアロマ、その後にバーボンウィスキー独特の香りがした。

「ミントジュレップですか」

「ご名答!」

両手を叩いて喜んでいた。

彼女の左肩にあるバラとアヌビスのタトゥーも揺れていた。

「私もいっしょに飲みたいなあって思ってたところなのよ。ウィスキーをね」

彼女の手にはいつの間にかグラスとFour Roses Blackの瓶が握られていた。

それを真壁の目の前でゆらゆらと揺らして見せた。

「『聴いて』たのか?」

眞壁は「ウィスキー」という言葉でピンと来てしまった。

先日、二敷春彦に娘 怜奈の除霊の件を最終に報告に行ってた時に飲んだのがウィスキーだった。

ということは彼らが何を話していたのかをジェディは知っているのだ。

「あら、やだ、人聞きの悪い。聴いてないわよ、『視て』たの。と言ってもリアルタイムじゃないけど」

あの時、話していたことは秘密にするような内容でもなく、また彼女の性格をよく知る彼はそれについてどうこう言うつもりはなかった。

手酌でグラスにバーボンを注ぐと、ジェディはグラスを持って眞壁のグラスに合わせた。

心地よい音が辺りに響いた。

彼女は美味しそうにグラスの中身を飲んだ。

それを見て眞壁も冷えたグラスに手を伸ばし、体が欲する水分を補給した。

冷たさが飲むほどに体に染み渡った。

生き返るとはこう言うことをいうのだろうか。

「……」

ジェディは頬杖をつくような格好で遠くを見ながらグラスの中身をゆっくり回した。

眞壁は一息つくと、ジェディの視線の先、バーカウンターの端にある赤い花に目が吸い寄せられた。

幾何学的なクリスタルの花瓶に一本の花が生けらていた。

店に入ってきた時には気づかなかったのだが、その花にだけ間接照明が当てられていて、浮かび上がっているように見えた。

眞壁の視線の先に気がついたジェディはこう続けた。

「きれいでしょう。赤い彼岸花。艶(つや)やかで艶(あで)やかで。見ていると不思議なきもちになるのよね」

「この花、どうしたんだい?」

「お話ししていたの」

「?」

会話が噛み合わなかったので、眞壁は怪訝そうな顔をした。

彼女には不思議な力が備わっているので、何か理由があることはわかっていたが、具体的にはわからなかったので尋ねるしかなかった。

「誰と?」

「え?眞壁さん、視えてないの?お花のそばをよく視てよ」

カウンターの端、眞壁が座っている所から最も離れた場所にある花瓶に目を凝らす。

花瓶のそばには、なぜか湯のみと小鉢にきんぴらごぼうが供えられていた。

「年配の方だね…綺麗なご婦人だ。」

「ええ、そう。美名子さんよ」

「! 堂宮さんの?」

眞壁は驚いた表情を浮かべた。

それもそのはずだ。

この場所は『庭園の錬金術師』の本拠地であるため各種結界が張り巡らされている。

霊体がおいそれとは入り込めない場所のはずだからだ。

「んー。最初から話していくと長くなるから割愛するけど。堂宮さんのこれからが心配だっておっしゃるので、いい機会かなって思って、彼岸花を依代にしてここに招き入れたの。」

「で、お茶とお茶受けの煮物を肴にお話ししてたのよ。まさか、この時間に眞壁さんが来るとは思ってなかったわ。」

ジェディは黙って勝手なことをして悪いと思っているのか、すまなそうな表情だった。

「眞壁さんはわかっていると思うけど、堂宮さんの「力」は「触媒」よ。本人に全く自覚なしだから困るんだけど。本人が私たちのように霊的な力があって、何かをできるわけじゃないけど、そばにいるだけで術者の力を倍掛けにしてしまう。」

ジェディはグラスのウィスキーを半分ほど一気に飲んだ。

「今回の件でそれが明らかになったし」

「……」

「そもそも『黒柱会』の件が知りたいからという動機でネットから接触、そこから私たちの所に導かれるようにきた時点で起こるべきことが起こっている。できすぎよ」

眞壁はくすっと笑った。

この「業界」ではよくあることだとでも言うように。

「『準備が整うと…』っという訳でしょうね」

静かにそう言うとゴクゴクとミントジュレップで喉を潤した。

「だから、美名子さん心配だったみたい。堂宮さんがこれからどうなるのか。私たちみたいに力の使いどころがわかっている者がそばにいればいいけれど」

「そうではないものに魅入られた場合は…危険そのものですね…」

「そう」

「私もその危険性は認識しています。とりあえず、隠形のシジルを彼に携帯させて、存在を消してもらう方法で対応したのち、然るべき手段をとることにしますか…」

「そうね。他のみんなとも相談した方がいいかしら?」

「そうですね。みなさん、その道のプロですから、何か他にもっとよい方法をご存知かもしれませんね。次回の集まりの時に提案してみましょう。」

「OK」

ジェディは長い髪を耳にかけながらグラスの中身を飲み干した。

眞壁は腕時計をちらりと見て時間を確認するとミントジュレップを飲み干した。

「じゃ、そろそろ仕事に戻ります。ごちそうさま。」

「戻るって、どっちの仕事よ?」

わかってはいるが冗談のように聞いてみた。

「吟遊詩人の方に決まっているでしょう」

眞壁は黒い鞄を持って席を立った。

「吟遊詩人はおとぎ話に乗せて世界の「真実」を語るものですから」

「真実ね…」

ドアのところまで歩き寄ると眞壁は振り返って、再び曼珠沙華を見つめた。

「ジェディ」

「ん?」

「あなたが作った煮物、美味しかったそうです。今度は小さくて構いませんから三角揚げを出して差し上げてください。生姜とねぎをいっぱい乗せて。大好物だそうですから…」

そう言い残すと眞壁はドアの向こうに消えた。

眞壁の一言にジェディは驚きを隠せなかった。

(すごく弱いエネルギー体だったから、依代を使って可視化させたのに。…眞壁さんには視えないと思ったのにな。)

呆れたようにため息をつくと独り笑いをして呟いた。

「しっかり視えてるし聴こえてるんだから。相変わらず、食えないわね〜」

彼女の一言と同時に曼珠沙華から花弁がひとつ、音も立てずにバーカウンターに落ちた。

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