第3話
「パパぁ…ママぁ…どこお?」
両手で流れる涙を拭っている男の子は消えてしまいそうな声で家族を呼んでいた。
泥だけらけで濡れたTシャツを着て。
濡れ髪からは絶え間なく水滴が落ちている。
ゴシゴシと目の周りをこすりながら、時折しゃくりあげていた。
「ユリ…ちゃん、ねぇ、ユリちゃん?どうして返事してくんないの?
ここどこなの?帰りたいよ…。もう、おうち…帰る」
男の子は川の真ん中にいた。
真ん中に立っていた。
身長は100cmほどのはずなのに。
豊かな水量を誇る三升川の真ん中に立っていた。
川の流れに流されてはいない。
いや、おかしい。
こんな小さな男の子がむしろ川の流れに流されずに立っているのだから。
「パパぁ…暗くて何も見えないよ!」
うわーん!と大きな声を張り上げて泣き始めた。
「これ、坊や」
「ママ!」
男の子の顔がパッと明るくなった。両手をどけて、岸の方を見ると年はとっているが美しい女性が立っていた。
母親ではないことが分かると男の子の表情は暗くなってしまった。
「あなたのママでなくで、ごめんなさいね。おばあちゃんと少しお話しできる?」
男の子はちょっと口を尖らせた。
肩でしゃくりながらも、小さな声で「うん」と呟いた。
「私はそこへは行けないから、もう少しこちらまで来れるかしら?」
「ぼく、ここから動いたらパパとママにわからなくなる…」
「遠くにいかなければ大丈夫よ。さあ、いらっしゃい」
まだ涙はこぼれているものの、男の子は促されるまま岸辺を近づいて来た。
青い半ズボンと運動靴からザバザバと水が流れ落ちた。
女性はポケットからレースのついたハンカチを出すと男の子の顔や頭を拭き始めた。
ハンカチからは石鹸のいい香りがした。
男の子はその匂いを胸いっぱい吸い込むと安心した気持ちになった。
「こんなに濡れて、こんなに泣いて。大変だったわね。今までよく頑張ったわ」
「おばあちゃん、だあれ?」
不思議そうな顔で見慣れない女性の顔を見つめた。
「おばあちゃんの名前は美名子っていうの。」
「み・な・こ?」
男の子は聞き慣れない名前に首を傾げた。
美名子はにっこり笑うと男の子を川から抱き上げた。
「ミーちゃんとかミーばあちゃんって呼んで」
「ミーばあちゃん?」
「そう、よく言えたわね。あなたの名前を教えてくれる?」
男の子は言っていいものかどうか不安になったのか顔をうつむき加減にして答えた。
「けんし。きたざわけんし。…おともだちは、みんな、けんちゃんって呼ぶよ。」
「そう!けんちゃん!ミーばーちゃんもけんちゃんって呼んでいいかい?」
「う…ん。おともだちになってくるんなら」
「じゃあ、おともだちね!けんちゃん!」
美名子はそう言うと健志を抱きしめて、頬ずりした。
健志は初めてうれしそうに笑ってみせた。
「けんちゃん、こんな夜遅くにこんな山奥の川で何しとったと?」
「ぼく、川で遊んでたら、パパもママもユリちゃんもいなくなってて、ぼくひとりになってたの。パパのお迎えがないとおうちに帰れないから、ずっとあそこで待ってたの。そしたら夜になって朝になって、また夜になって…ずっとずっと待ってるんだけど、パパにもママにも会えなくて、怖くて、山には犬とかクマとか動物がいて、食べられちゃうかもしれないから、ここから動かないで待ってたの。」
抱かれた腕の中で身振り手振りを見せながら、健志は今までのこと必死に話した。
美名子は水死した子どもの霊だとわかっていたけれど、それを告げることはしなかった。
ただ、うんうんとうなづいて、優しく頭を撫でながら話を聞くだけだった。
「ぼく、どうしてこんな怖い目にあうの?…ぼく、悪い子なの…?」
「違うわよ。けんちゃんはいい子よ」
「なんでパパもママもお迎えに来てくれないの?」
また、涙目になってくるのを一生懸命に我慢した。
「きっと、迎えに来てくれるわよ。道が混んでいるのかもしれないわね」
「……」
「そうだ、けんちゃん。いいこと、思いついた!」
美名子はあくまで明るく振る舞った。
「いいこと?」
「けんちゃんのパパとママが早くお迎えに来るように、山と川の神様にお願いしてみようか?」
「神様にお願い?」
「そう。けんちゃんがいたこの川はね、三升川って言って神様が住むって言われる水蛇滝から流れて来ているの」
「?」
「その神様に『早く会えますように』ってお願いしてみましょう」
「うん!けんちゃん、する!」
美名子は健志を下に降ろすと屈み込んだ。
健志に滝がある方に手を合わせるようにいうと2人で目を閉じた。
(この地を守る御柱様、どうかこの幼子の霊をお導きください)
「けんちゃんのお迎えが来るようにお護りください」
「…っくださいっ!」
真剣な顔で、小さな手を合わせ、美名子の最後の言葉だけを繰り返した。
遠くで何かが、獣ともなんともわからない何かが嘶いた気がした。
そして、次の瞬間。微かな音がした。
ふぁさ…。
健志の足元に何かが置かれた。
いや、上から音もなく降ってきた。
「うわーっ、何これ!?お花?きれい」
健志は目を丸くして喜び、それを拾い上げた。
赤い曼珠沙華が健志の手に揺れていた。
「彼岸花ね。どうやら山と川の神様に、けんちゃんの願いが通じたようね。」
「ミーばあちゃん、パパとママ、来るの?」
「ええ。約束したって意味でお花をプレゼントしてくれたんじゃないかしら。」
「ゆびきりと一緒?」
「そうね…」
健志はにんまりと笑った。うれしそうに曼珠沙華を揺らして、美奈子の周りを行進して見せた。
そんな姿を見て、小さい頃よく遊びに来ていた孫の龍亜を思い出さずにはいられなかった。
「もうすぐ、龍ちゃんが来てくれる。
だから、ここで2人で待っていましょう…」
美名子は健志に聞こえないほどの声でそう呟いた。
いつのまにか真っ赤な曼珠沙華が2人を囲み、守るように花開いていた。
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