4話
イタリアンレストラン・ブルーはログハウスだった。各テーブルの真ん中に小ぶりの小さな花が飾ってある。人気店なので、ほぼ満席だった。
理沙と麻衣ちゃんとテーブルを挟んで座り、自己紹介を簡単にした。「ママが中学生の頃に同じ学校だったの。美希です。よろしくね」と。
すかさず理沙は麻衣ちゃんに、「こちらこそ、よろしくだよね〜、ほら」と声を掛けた。麻衣ちゃんは、大きく、うん、と頷き「はじめまして。麻衣です」と言うと、私にとびきり可愛い笑顔を向けてくれた。
◇
麻衣ちゃんは、オレンジジュースとナポリタン。理沙は、グラタンとサラダセット。私は、ヨーグルトスムージーとバジルスパゲッティを注文。
麻衣ちゃんのオレンジジュースはすぐに来たけど、それ以外のものは混んでいるから、時間がかかっているようだった。理沙は、メニューを指差しながら麻衣ちゃんに「好き」「嫌い」を訊ね、サラダは体に良いとか、頭が良くなるのよとか話していた。そのうち食べ物の話に飽きた麻衣ちゃんが、「お腹すいた!」と駄々をこね始めた頃、私が注文したヨーグルトスムージーが運ばれてきた。
私がスムーズを指差し、麻衣ちゃんに
「これ飲む?」
と訊くと、理沙は
「ごめんねー。いいの?」
と言いながらさっとグラスを取った。
なんだかそれが嬉しかった。理沙が私に遠慮しない事と、強い母親になった事が、同時に嬉しかった。
麻衣ちゃんはストローでスムージーを吸おうと頑張ったけれど、なかなかうまくいかない。見かねた理沙が、グラスからストローを取り出し「このまま飲める?」と言いながら麻衣ちゃんの口元へグラスを近づけた。小さな両手でしっかりとグラスを持ち、スムージーを飲み始めた麻衣ちゃんを、理沙は見届けると、私に笑顔を向けた。
「
一瞬で、理沙の苦労を想像して、大きい、そう思う。15歳の時にお兄さんを亡くし、その悲しみを経験し、20歳で子供を産み、育てる喜びも辛さも理沙は知っている。
感動に近い動揺があった。
理沙は大きくて強くて。だけど私は小さくて弱くて。湧き上がる興奮じみた尊敬の念と、自分に対する不安が入り混じる。それに飲み込まれそうになりながら、それでも私は当たり障り無い答えをした。
「ふうん。そっか」と、笑顔で。
理沙に「美希の仲良かった子達は?」と訊かれ、私は想い出す順に話していった。おそらくそれは私にとって衝撃的な順だった。
「えっと……。さやちゃんはね、2年前会った時は腰に手を当ててよたよた歩いていて。どうしたの?って訊いたら、彼氏が独特なプレイする人だったらしくて。で、まあ、腰痛。ヘルニアとかも言ってたかな?」
幸せから遠い話は止まらなかった。
念願の劇団に入った子は、座長から「俺と寝るなら主役を与えてやる」と言われ、劇団を辞めたとか。結婚した子は夫からのDVがひどくて大変な目にあっているとか。忙しく看護師をしている子は、病院の経営が傾き始めているから転職を考えているだとか。
理沙は、そういう私の話を「ふうん」と聞き流して、それからあの子は流産、あの子は欝、あの子は無職、と淡々と喋った。
私も「ふうん」と相槌を打ったけれど、やっぱり酷く寂しかった。
だって15歳の時は、みんな一緒の制服を着て一緒に授業を受けてみんな同じだったのに。高校から、それぞれの学力で振り分けられて、その後は、またやりたいことのために進学したり、しなかったりで……。
そして大人になって今、大きな社会という渦の中で、人間関係や男女関係で様々な経験をし苦労している。私は、それに対してどうしようもできないことに、まだ戸惑っているのに……。理沙は、あっけらかんと、辛かったであろう自分の過去まで笑顔で話した。
「結婚してさ。3年は、まあ、良かったんだけど、そのあとだよね。地獄だったわ。耐えられなくて去年離婚しちゃった。それで、あそこで働き始めたの。今は実家でお世話になってる」
3年はまあ良かったけど、そのあと地獄……。それはよくわかる。私は同棲という経験だけれど、その結婚生活の苦しさは想像がついた。
「美希は?」と訊かれ、私は思わず目を外らしながら、「うーん。仕事は順調。合っているみたいね。秘書的なことは……」と自信なく答えると、理沙は「かっこいいじゃん」と言った。
カッコイイという言葉に、私の心が反応して、「え? かっこよくなんてないよ。ありがと……」と答え、下を向いた。ここ1年、毎日毎日、寂しい生活を送ってきた自分を思った。惨めな、弱い自分。
黙っていると、
「何? 恋人とうまくいってないとか?」
と真っ直ぐに訊く理沙。
どう答えるべきか迷っていたら、理沙は、「別れちゃえ別れちゃえ!」と言って笑った。まるで未来を放り投げたようなものの言い方に、びっくりして理沙の顔を見たけど、私はノリよく「何それぇ~?」と答えた。理沙は、「冗談っ!」と言ってまた笑った。でもそれから理沙が下を向いて、吐き出すように「あーあ。合っていたと思ったのになぁ!」と、別れた旦那さんとの話をした。
聴きながら、そうなんだよな、と思う。健人とは、合っていた、と思った。私だって、ずっと一緒にいれると思った。結婚できると思った。3年目までは……。
そう思えた時期があったから、あの頃に戻れるのかもしれないと、どこかで期待し、すがった。私は確かに健人と恋をしていたんだもの。私達は幸せだったんだもの……。
理沙は話し終えて、くすっと笑ってから、「でも失敗なんかじゃなかったよ。この子がいるんだから」。そう言って、テーブルの上のナプキンを手に取った。麻依ちゃんの上唇の周りに白いヨーグルトスムージーがくっきりと付いている。
「ほら。麻依」
優しくその可愛い口元をナプキンで拭く理沙の手を見つめていたら、「失敗なんかじゃなかった」ーー理沙が放った言葉が、ゆっくりと心に落ちて沁みていった。
失敗なんかじゃなかったのかもしれない。私はただ忠実に待った。健人が、私のところに帰ってくるのを。でも健人といると、寂しい。健人はそこにいるのに、いない。
一緒に笑ったり、一緒に泣いたり、一緒に苦しむ事ができない人とは、家族にはなれない。私は、私の寂しさを想像できない人とは、一緒にはいれない。
今、私は、自然とお互いの輝きを与え合える人間関係を望んでいる。理沙とこうしてちゃんと真っ直ぐに向き合い、自然と1つの空間を共有して、心が交流するような、そんな関係。
進むべき道を選ぶためには、心に蓋をしてはダメなんだ。感情を切り捨てたらダメなんだ。むしろ感情が私を前へ進める力なんだ。
とりとめもない言葉が心にあふれて、だけど、すごく整理されて、自分の現状と心境が、急に腑に落ちて、急に進める勇気がわいた。
「ふふふ」
私が笑うと、
「何?」
と、理沙が言うから、
「別れちゃおうっ!」
と勇気を言葉にした。
理沙が、くすっと笑って、
「別れちゃえ別れちゃえ!」
と、また未来を放り投げる。
明るい沈黙。
そこには、『人生が、思ったよりも難航するものだと大人になって知ったよね。お互い頑張ろうね』と、言葉を交わさずとも理解し合える空気があった。
心の底をそっと優しく支えるエネルギー。友。
今晩、帰ったら引越しの準備をしよう。新しいアパート先も調べよう。そして、「私は恋人として愛されたいから」そう言って、健人に別れたいと告げよう。そして、「今までありがとう」を伝えるのも忘れずにしよう。
そう思ったら、次々と注文したメニューが運ばれてきた。ナポリタンは鮮やかな赤。グラタンはグツグツと音を立てていたし、バジルスパゲッティは香りが濃い。
「うわー! 麻衣の好きなナポリタン美味しそうだね!」と言う理沙の声に、嬉しそうに大きく、うん、と頷く麻依ちゃん。
「うわー! 美希のバジルソーススパゲッティの香りすごい!」という理沙に、「本当! 美味しそう!」と、明るい大きな声で答えれた。自然に発した自分の声は、元気だった。前を向いているエネルギーに満ちていた。
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