エピローグ、あるいは物語の本当の始まり
【side ???】
深い闇の中だった。
果てない続く暗闇、あるいは、一切の虚無。
そんな空間に私は居た。
今はまだ私は「私」を認識できている。「森永アヤノ」と呼ぶべき一個のアイデンティティを自己の中心に据えられている。だが、それも辛うじてと言ったところだ。いつ、私がその自己同一性を失い、自分が自分を認識できなくなるか解らない。
今、この瞬間に「森永アヤノ」という存在は消え去ってもおかしくないのだ。
思えば、ここまでこうしてこの世界にしがみついてこられたこと自体が奇跡というしかなかった。
自分が死んだ前後の記憶は曖昧だ。
ただ、一緒に居たタカキを守ることができた。
そんな記憶だけが残っていた。
なら、よかった。
一瞬、そう納得しかけた。
しかし、死に行く私に縋りつく、タカキの悲壮な顔を見たとき気が変わった。
私はまだ消えるわけにはいかない。
自分がもう助からないことは、感覚で理解できた。
なら、命は諦めてやる。
その代わりに、私をタカキの側にいさせろ。
私は居るのかどうかも解らない神に、そう命じた。
祈ったのではなく、命じた。
こんな理不尽で命を奪うのだ。それくらいの命令は聞き入れてもらわなければならない。そんな風に思った。
気が付けば、私は幽霊になっていた。
もちろん、そのことを理解し、納得できるようになるまでには時間は必要だった。なにせ自分は生きていたときと変わらずに周囲を見ることも、音を聞くこともできたのだから。自分が死んだと思ったことも、夢か何かだったのではないかと考えてしまったほどだ。だが、私は物に触れることはできなかった。何より、私自身の葬式で号泣する両親とタカキを見て、私は自分が本当に死んでしまったことを受け入れた。
受け入れざるを得なかった。
一番心配なのはタカキだった。
私の死の瞬間、最も側にいたのはタカキだった。そして、考えようによっては、私はタカキの身代わりになって死んだとも言える。精神的に脆いところのあるタカキが、それを気に病んでいないはずがないからだ。
私はタカキの側で彼を見守ることにした。
彼は私の葬儀以来、ずっと自室に引きこもっていた。無理もないことだろう。まともに食事もとらず、日の光も浴びず、彼は日に日に憔悴していくのが見て取れた。
歯がゆかった。
彼に私の姿が見えていれば、一言言ってやれるのに。
たとえ、見えなくても、言葉だけでも届けられれば……。
タカキが引きこもりを始めて数日、初めて部屋から出た。
その日、彼は朝から私たちの交換日記を読み返していた。そして、最初から最後まで何度も、何度も日記をなぞるように読み、何十度目かのとき、日記を閉じ、それを胸に抱いてそっと立ち上がったのだった。
夢遊病者のような足取りで彼は家を出て、タカキは私たちが住んでいたマンションの屋上へと向かった。
屋上の扉を開けると、世界を焼く夕焼けがタカキを赤く照らし出した。
そして、彼は屋上を取り囲むフェンスを強く握りしめる。ぎしりとフェンスが嫌な音を立てた。
そのときになって、私はタカキが何をしようとしているかに、ようやく気が付いた。
私は戦慄する。
もはや、存在しなくなったはずの心臓がどくりと高鳴ったような気がした。
それだけは絶対にダメだ。
私は考える。
私はタカキが何をしたとしても許してあげたかった。彼が泣いて暴れて誰かに当たって気が済むならそれでいい。私を引いたトラックの運転手を恨み、復讐しようと考えてくれてもいいとさえ思っていた。それで、タカキが立ち上がれるなら、私は構わないと思っていたのだ。
だけれども、タカキは最悪の道を選ぼうとしている。
それだけは絶対にダメだ。
ほかのどんなことも許せても、それだけは……。
タカキは私が想像していた以上に脆かった。私はタカキのことを何でも知っていると思っていた。きっと、タカキも私のことをわかってくれていると思っていた。私たちの心は誰よりもつながっていると、そう信じていたのだ。だけれど、それは間違いだった。ただ、私が死んで、言葉を届けられなくなっただけで、私たちの心はこうもすれ違ってしまう。
私はただタカキが生きていてくれさえすれば――。
タカキはフェンスを背に日記を開く。
そして、震える手でペンを握った。
私は直感する。
タカキは遺書を書こうとしている。そして、それを書き終えた後に死ぬつもりだ。
……私を追って。
私はここに居るというのに。
――届け、届け、届け!
私は願った、祈った。死んだ瞬間にもすがらなかったはずの神様の足元に泣きついた。
何でもする、何でもするから、私のこの言葉をタカキに届けて。
私は決していなくなってなんかいないのだ。
今、タカキの目の前に居るのだ、と。
私は日記に必死に飛びつき、触れた。
その瞬間だった。
(あ……れ……?)
それはなんとも言いようがない不思議な感覚だった。
私が日記に触れた瞬間、私の中の何かが日記とつながったのだ。それは、あとでレイちゃんに聞いたところによれば、いわゆる日記に憑りついたという状態であったようだ。依り代を得た霊は、ただの浮遊霊とは異なる特別な力を得ることがあるらしい。
この瞬間、私は日記に自分の言葉を書き込む術を得たことを直感した。
理屈はいい。それよりも得たチャンスを無駄にするわけにはいかない。
何という言葉を伝えればいい?
どういえば、今のタカキを止められる?
私は必死に考えた。
タカキは私が思っていた以上に弱い存在だった。そんな彼に今の真実を伝えて、果たして立ち直れるだろうか。日記に言葉を記す術を得たとはいえ、私が死んでいることには変わらない。それに、この状態が続くという保証もない。いったい、どれだけの言葉を綴るチャンスがあるのだろう。たった一つの言葉を伝えた瞬間、私の存在が消滅してもおかしくないのだ。そんな事実を突きつけて、彼は本当に前向きに生きることができるのだろうか。
そして、私は一つの結論を下す。
演じるしかない。
私は役者だ。
死した私は、生を演じる。
たった一人の観客のためだけに演じる一世一代の晴れ舞台。
見事に演じ切ってみせよう。
そして、私は日記にセリフを吹き込んだ。
(この音は……?)
低く唸るようなブザー音。
舞台の上で何度も聞いた開演を知らせる懐かしい音。私の身体に染み付いたその音色が、私を深い闇の底から引きずり出す。
もはや、意識が戻ることもないと思っていた。私はタカキに、私の後を追うという最も愚かな選択をやめさせた。だから、私の奇跡のような時間はもう終わり。私の意識は闇の海をたゆたって、この世界に溶けていくのだろうと。
だが、その予想に反して、私はもう一度覚醒した。
私の意識を呼び起こしたのは、舞台の始まりを告げる開演ブザー。
その音を聞いた私は気が付くと、観客席の一席に座っていた。
そこは学校の体育館。タカキが居る……私が通うはずだった学校の体育館。
わかる……。観客席の人々のざわめきが引く波のように消えていき、すべての視線が舞台の上へと集まる気配。
私が何度も味わい、その度にいとおしく感じた舞台の始まり。
私はステージの上から目が離せなくなっていた。
そして、予感する。
これから始まる舞台が、私にとって特別なものになるのだということを。
演劇、あるいは誰かのための物語
これは、とある世界の物語……この現実から隔てられ、けれども、確かに隣にある世界。
一人の少年が、自分の手の甲をしげしげと見つめています。
「なんだ……これは? いつの間にこんなものが僕の手の甲に」
掲げられた少年の手に刻まれていたのは、赤い刻印。複数の真円が重なり合って構成された紋章でした。
「それは、神より授けられし、勇者の御印である」
少年は声のした方へと振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女でした。
少女と表現されたのは、その年恰好故。なるほど、彼女の肉体のみを表現しようとすれば、その存在は少女と形容される他ないでしょう。しかし、彼女がその愛しき相貌の奥に秘した精神は、少女などというか弱き形容を許さぬ鋼。
少年は彼女に一振りの剣を幻視しました。
「祝福を。君は新たな勇者に選ばれた」
「僕が新たな勇者……?」
少女は語る。
「私は君という新たな勇者を導く『前代の勇者』。たった今、この瞬間から、君は私を継いで勇者となり、魔の王を討ち果たす責務を得たのである」
少年は戸惑いを隠しません。
「どうして、僕が? 神はなぜ僕のような矮小卑賎の輩にそのような大役をお与えになられたのか?」
少女は答えます。
「問うことは神を試すこと。人は神を試してはならない。我々は常に神によって試されている。神によって与えられたものは享受せねばならない。それが祝福であろうとも、試練であろうとも」
少女は宣言します。
「立て。新たな勇者よ。なぜ、貴様が選ばれたのか。その答えは、天啓ではなく、自身の足で見つけるのだ」
こうして、少年は、少女と共に旅に出ることとなったのでした。
しかし、勇者に選ばれた少年は、おおよそ勇気ある者とは呼べぬ存在でした。
彼は臆病だったのです。
これから、始まる旅路に不安のみを抱き、希望を見出せずにいました。
「神よ、なぜあなたは僕を選んだのですか?」
問うてはならぬと言われても、少年は問うことをやめられません。
少年は下を向いたまま、少女の足跡追う他ないのでした。
勇者に選ばれた者には特別な力が与えられます。
少年は地を割ることも、海をかけることも自在でした。
それほどまでに勇者の力は並外れたものだったのです。
けれども、臆病者の勇者は、その力を振るうことができません。
彼にとって倒すべき魔物は恐怖の対象であったからです。
「助けてくれ! 僕はあんな恐ろしいものとは戦えない!」
少年が何度助けを求めても、少女は手を差し伸べてはくれません。
「そなたは勇者。振るうべき力はすでに与えられている。あとは、それを扱う心だけ。それだけは、神は与えぬ。それだけは、自分自身でつかみ取らねばならぬ」
少女のどのような助言も少年の盾にはなりません。
少女のどのような叱責も少年の剣にはなりません。
結局、少年は与えられた力で逃げることしかできないのでした。
そんな少年に向かって、少女は言います。
「肝要なるは心なり。貴様はすでに勇者となりえるだけの心を内に秘めている。ゆえに、その御印は与えられた」
しかし、少年は少女の言葉にうなずくことができないのでした。
ある日のこと、少年は魔物に襲われている幼子を見つけます。
勇者としての力を振るえば、少年は幼子を救えたでしょう。
しかし、彼は臆病でした。
少年は、幼子を救うことができなかったのでした。
「………………」
やはり、自分は勇者にはふさわしくない。
そう考えた少年は進むべき道に背を向け、故郷へ帰ろうとします。
その背中に向けて、少女は言います。
「私もかつては今の貴様と同じだった……」
前代の勇者たる少女にも、自らの手で拾い上げられたはずだった命を救えなかったことがあったと言います。
「私は脆弱であった。怯懦であった。差し伸べれば届いたはずの手を、拾えたはずの命を、私は取りこぼしてしまった」
「………………」
少年は少女を見つめます。
「人は過ちを犯す。神は人の子を不完全な状態で世界に産み落とす。初めから完全な人間など一人としていない」
「………………」
「踏み越えろ。成長しろ。貴様の力はきっと誰かのためになる」
少年はそっと目をつぶります。
そして、呟く。
「もう少しだけ、進んでみよう」
それからどれだけの年月が流れたのでしょうか。
少年が「勇者」であることを疑うものは、もう誰もいなくなっていました。
あるとき、少年は尋ねます。
「前代の勇者よ、あなたの名前を教えてほしい」
少女は一度たりとも少年に名乗ったことはありませんでした。
故に少年は少女の名を知らなかったのです。
「何故、今更そのようなことを?」
少年は言います。
「僕がここまで歩んでこられたのも、すべてあなたが居たからだ。あなたが居なければ、この場所に私は立っていない。そんな恩人たる人物の名を知りたいと思うのは、至極当然のことではないか」
「………………」
少女は一度、目をつぶり、うつむいて呟きます。
「勇者となった者に名は不要。勇者は唯一無二。故に、勇者を呼ぶときは、ただ『勇者』と呼べばいいからだ」
しかし、少年は少女の瞳をのぞき込み、言います。
「今はその名は僕のもの。すでに『勇者』とは、僕を呼ぶ言葉へと変わった。ならば、あなたには名が必要だ。あなただけを指し示す名前が」
「………………」
少女は複雑な顔を見せます。喜びと悲しみの入り混じったそれは、少年が初めて目にするものでした。
「それは道理……。ならば、そなたに……あなたにだけは我が真名を教えましょう……ほかの誰にも明かしてはなりません。ただ、一人、あなたにだけ、教える私がかつて捨てた名前を」
少女は少年の耳元でささやき、そして、優しく微笑みます。
そして、少年は少女の素顔と共に彼女の名を知ったのでした。
長い旅路の果て、少年は魔の王の城へとたどり着きます。
かの魔の王は、玉座にて少年を迎え入れました。それは残虐にして、非道。悦楽にして狂気。ありとあらゆる負の感情を閉じ込めたそれは、一個の人間の形を成していました。魔の王こそが、今まで屠ったどの魔物よりも人の形をしていました。
魔の王は言います。
「再び、死を賜りにきたか、勇者よ」
その言葉は、前代の勇者である少女に向けられていました。
魔の王は少女を一瞥して言います。
「いや、やはり、その身はすでに朽ちている。死して亡者となり、貴様らを造りし神の定めし摂理に反しようと、我に爪を立てんとするか……」
少年は魔の王の言葉を聞き、少女の顔を見て、理解します。
前代の勇者たる少女は、すでに魔の王に敗北し、すでに死んでいたということを。
呆然とする少年を前に少女は言います。
「確かに、我が肉体はすでになく、我が魂も間もなく擦り切れよう。だが、私の勇者としての心だけは、まだ確かに残っている」
少女は少年を指して言う。
「我が心の誇りは、確かにここにあり」
少女は穏やかな表情で姿を消します。
そして、少年は一人、魔の王と向き合うのでした。
【side アヤノ】
観客席に居た私は理解する。
この劇は、きっとタカキから私に向けられたメッセージ。
勇者たる少年の役を務めていたのは驚くべきことにタカキだった。中学時代、何度誘っても舞台の上に立とうともしなかったタカキが、あろうことか主役を務めている。もちろん、彼の演技は拙いものだった。セリフの記憶は完璧だが、間の取り方、立ち回り、表情。自分なら指摘し、指導できる点がいくつもある。けれども、そこに込められていた思いだけは間違いがない。本物の、ある意味で本物以上の物だった。それだけに、彼がこの劇に入れ込んでいることが理解できたのだ。
だからこそ思う。きっと、あの少女は私なのだろう。
前代の勇者である少女の役を務めていたのはレイだった。レイには何度も助けられた。タカキには吐露できなかった気持ちを彼女にぶつけてしまったこともある。いくら感謝してもしたりないくらいだ。
だけれども、この感情はなんだろう。
私は彼女に嫉妬しているのだろうか……。
この後の筋は読める。きっと、あのタカキが演じる勇者は、魔の王を打ち倒すのだろう。そして、前代の勇者である少女の雪辱を晴らし、自らを導いた少女に感謝し、これから一人で立派に生きていくことを誓うのだろう。
そう考えた瞬間、頬を熱いものが伝った。
泣いているの……私は……?
もはや、肉体どころか魂さえも朽ち果て、涙などとうに枯れ果てたと思っていた。なぜ、私は涙を流しているのだろう。
私は望んでいたはずだった。タカキが私に頼らず一人で生きていけるようになることを。死して幽霊になってまで、この世界にしがみつき続けたのは、そのためだったはずだ。
タカキが自ら死を選ぼうとした瞬間、私はタカキが生きてさえいてくれれば、もう何もいらない。そう思ったはずだった。
――本当にそうか?
私は聖人でもなければ、善人ですらない。人を恨み、妬み、理不尽に涙するどこにでも居る普通の少女。そんな私が、タカキが生きてさえいてくれれば、自分がどうなろうとも構わないなどと綺麗すぎる感情を本当に抱けたのか?
それは、嘘だ。
嘘だ。
悔しい、悔しい、悔しい。
そうだ、悔しかったんだ。
なんで私が死ななくちゃいけない?
どうして、私だけがこの世界を去らなくちゃいけない?
ふざけるな! なんで私なんだ?
私は、まだまだ生きたかった!
まだ読んでいない大好きな漫画を読みたかった。
有名な演劇の舞台になった土地にも行ってみたかった。
自分の部屋のふかふかのベッドで布団に包まれて眠りたかった。
お母さんの手料理がもう一度食べたかった。
また、お父さんとお芝居を見に行きたかった。
高校に入学してたくさんの人と友達になりたかった。
タカキと、もっともっとくだらないおしゃべりをしていたかった。
そして、何より舞台に立ちたかった。
タカキが書いた脚本の舞台に……。
【舞台】
それは死闘と呼ぶ他にないものでした。
峻厳苛烈な猛攻。
恐ろしさ故、いっそ美しくすら感じる戦い。
永遠に続くとすら思われた戦いにも終焉は訪れます。
「あり得ぬ……あり得るはずがない……」
膝をついたのは魔の王。
そして、立っていたのは勇者でした。
「なぜだ、人間……。何故、貴様はそこに立ち、我が膝をついている……」
魔の王は地に伏し、勇者を睨みつけます。
「貴様の方が我に勝っていたというのか……」
勇者は言います。
「……それは僕にも解らない……ただ、一つ言えるのは、僕は与えられた祈りと託された心のために戦った。それだけだ」
魔の王は、勇者を睨み、そして、闇の中へと消えていきました。
闇の中に刺す一筋の光。
光の降り注ぐ彼方を見上げ、勇者は呟きます。
「僕は魔の王を打ち倒した。これで誰もが僕を勇者だと認めてくれるだろう。だが、僕が勇者足りえたのは、かの少女が居たからである」
勇者は前を見据えます。
「彼女が居なければ、今の自分はなかった。彼女が居てくれたから、僕はここに居る」
そして、勇者はそこに居るはずの誰かに縋りつくように言います。
「前代の勇者よ。どうか戻ってきてはくれまいか?」
【side アヤノ】
「前代の勇者よ。どうか戻ってきてはくれまいか?」
私は舞台の上に居るタカキから目が離せなくなっていた。
「君の肉体はすでになく、魂すらももう擦り切れた。これ以上、君がこの世界に居残ることは、我々を選んだ神をも裏切る行為なのかもしれない」
勇者であるタカキは語り続ける。
「だが、僕は君が欲しい。君が消えた世界に、もはや寸毫の意味も見出すことが叶わない。勇者が世界を愛し、世界を慈しむ者なのだとしたら、すでに僕は勇者たる者の資格を失っているだろう」
私は悔しかった。
私が悔しいのは、今、私がここに居るからだ。
観客席に座っているからだ。
タカキが作り上げた舞台の上に立っているのが自分ではないから――
(立ちたい……)
立ちたい。あの舞台の上に。
「戻ってきてくれ、前代の勇者……いや――」
勇者は、タカキは観客席にいた私を確かに見据えていた。
「——『アヤノ』よ。僕には君が必要だ」
『アヤノ』。それが勇者を導いた少女の名。
「それが世界の理に反することなのだとしても、それが神に歯向かうことなのだとしても、それでも、僕は永遠にあなたにそばに居てほしい」
そして、私は――
【side タカキ】
やっとここまで辿り着いた。
脚本を書き上げ、演劇部の皆に頭を下げ、限られた時間の中で稽古をし、そして、今、僕はここに立っていた。
その道のりは僕にとって余りにも遠く、険しいものだった。今、振り返れば、僕は自分がこんな道を歩いてきたのだと信じられないくらいに。
僕は臆病だった。
自分の殻に閉じこもり、そのくせ、外の景色から目を背けることもできなかった。
だから、僕はずっとアヤノに縋ってきた。僕の前を歩くアヤノ。その手を握ってさえいれば、僕は外の世界とつながれた。
僕にとって、彼女は世界のすべてだった。
だけれど、彼女はもう居ない。
僕の前を歩いてはくれない。
なら、どうする?
どうればいい?
この舞台が僕が出した答えだった。
僕はアヤノが居なくても世界と繋がれる。それを彼女に見せたかった。証明したかった。
僕はもう、アヤノに守られるだけの存在じゃないのだ、と。
だけど――
「――僕は永遠にあなたにそばに居てほしい」
それは、アヤノを諦めることではない。
死んでしまった人間はこの世界に居てはいけない。幽霊は必ず成仏しなければいけない。
それは一体だれが決めたルールなのだろう。
神様? それとも、運命? あるいは、今を生きる人間たちか。
誰でもいい。
ただ一つ言えるのは、そんなルールなんて、ぶち壊してやるっていうこと。
どんな物語でも、死者を生き返らせることは悪で、世界は生者のためだけに回っていく。
それがどれだけ独善的なことか、物語の語り手たちは気が付いていないのか?
大切な人を失った人間が、その人の手をもう一度取りたいと願うことは本当に悪なのか。
――僕は認めない。
たとえ、世界中の人間が僕を批難し、蔑んでも、僕はたった一人の死者のために世界の理を捻じ曲げる。
僕はアヤノに側に居てほしい。
彼女がもう僕の前を歩いてくれなくても構わない。
今度は僕が君の手を引いていくから。
僕は確かにそこ居るはずの君の瞳を覗いた。
「僕は君を愛している」
僕以外の演者はすべてこの舞台から降りた。ステージの上には、ただ、僕一人が立っている。きっと、観客には、そう見えているだろう。
だけれど、それは間違いだ。
このステージの上には確かに君が居る。
――アヤノ……。
光だ。光が満ちている。僕が見据える先には、確かに光が降り注いでいて、
「はい、私もあなたを愛しています」
僕はそのセリフを、声を、確かに聞いた。
そして、その声はステージの上に響き、僕の心の中へと消えて行ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます