幕間8

「どういう……ことなんだよ……」


 僕は日記を前にして身じろぎ一つできないでいた。

 ショックだった。

 アヤノから突き付けられた言葉。


『一緒に居てあげられなくて、ごめんね』


 そんな言葉は容赦なく僕を殴りつけた。

 ずっと頑張ってきたつもりだった。彼女を励まし、なだめ、助け、いつか彼女が戻ってこられるように、僕の前に立って手を引いてくれるように――

 ただ、それだけを願って頑張ってきたつもりだった。彼女もきっと同じように感じていてくれていると思っていた。

 だけれど、彼女はもう帰らないという。

 僕に事情の一切を知らせず、彼女は姿を消した。

 それは彼女に頼ってもらえなかったということ。

 ……僕を信じてもらえなかったということに他ならない。

 あれから何度も日記にメッセージを書き込んでみたものの、彼女からの返事はない。

 完全に彼女との通信は絶たれてしまった。

 彼女がこちらに働きかけようと思わなければ、自分には何もできない。

 自分の無力さを今一度痛感した。

 結局、僕は一晩中、日記の前から動くことはできなかった。




 次の日、僕は学校を休んだ。

 ずる休みではない、本当に体調が悪かったのだ。熱を出し、僕は寝込んだ。彼女と二度と会えないと知った精神的なショックのためかもしれないし、一晩中、眠りもせずに日記の前で呆然としていたことが、たたったのかもしれない。

 子供の頃、僕はよく熱を出していた。僕は普通の人よりも身体が少し弱かったのだ。僕が熱を出して学校を休むと、アヤノは学校が終わってから一番に僕の元へと駆けつけてくれた。


「タカキ、遊びに来てあげたよー」


 そう言って、本当に彼女は僕の部屋で遊んでいた。はしゃぎすぎて、僕の母親に叱られることもあったくらいだ。だけど、僕はそんなアヤノの姿を見ているのが一番楽しかった。彼女が居れば、どんな病気だってすぐに治ってしまう、そんな気持ちだった。

 一度だけ、僕が本当にひどい熱を出したことがある。

 頭が重く、全身がだるかった。意識は朦朧とし、世界はまるで壊れてしまったかのようにぐるぐると回った。

 そのときの僕の記憶は曖昧だ。だけれども、一つだけ覚えていることがある。

 アヤノはずっと僕のベッドの隣に座り、僕の手をそっと握ってくれていた。

 彼女のぬくもりが、僕は何よりもうれしくて、消えゆきそうになる意識のすべてを、彼女の柔らかな手のひらに預けようと思った。

 今の僕は、もちろん、そのときほど重症ではない。だけれども、もう一度、どうしても彼女の手に縋りたかった。

 もし、もう一度彼女の手を握れるなら、僕は決して離しはない。

 絶対に絶対に、離しはしないだろう。




 それから三日が過ぎた。僕は相変わらず学校を休んでいた。

 体調はだいぶ落ち着いていたのだけれど、ベッドから起き上がる気力がどうしてもわかなかった。もうすぐ、期末試験があることも、演劇部の文化祭に向けての準備が始まっていることも知っていたけれど、どうしても何もする気になれなかった。

 夕方ごろ、僕はまだベッドの上に居た。

 一日中眠っていたせいで夜に眠ることができず、中途半端な時間に眠りについた。その反動か、結局、夕方の時間帯まで眠りっぱなしだったようだった。


「あ、ようやくお目覚めですか?」


 寝起きで朦朧としていた意識が、その言葉で一気に覚醒する。


「な?!」


 僕のベッドの隣には、樋川さんが座っていた。


「来ちゃいました」


 そんな風に言って、彼女はいつも通りの微笑みで僕を見ていた。

 僕は思わず、布団を目深にかぶり、彼女から隠れながら言った。


「なんで、いるんだ……」


「お見舞いに来たんですよ。お母様に言ったら入れてくれました」


「………………」


 余計なことをする母親だ。そう思う。大体、本人が寝ている間に他人を部屋に入れるだなんて……。

 だが、そんなことは日常茶飯事だったことを僕は思い出す。

 アヤノが居た時は、そんなことは我が家にとって当たり前のことだった。


「思ったよりも体調は良さそうですね」


 実際、身体はもうなんともなかった。だが、学校に行く気力どころか部屋から出る気力すらわかなかった。アヤノという道しるべを失ってしまった僕は、まるで波間を漂う灘波船のようだった。これからどうやって進んでいけばいいのか皆目見当がつかないのだ。

 だから、僕は布団をかぶったまま樋川さんから目を逸らし続けた。ここ最近は、普通に話せるようになっていた樋川さん相手ですら、今はまともに会話できる気がしなかったのだ。

 しかし、いつまでも布団の中に隠れていても何も解決しない。僕は樋川さんと向き合わねばならないだろう。しかし、そう思ってはいても、僕の方から口を開く勇気はなかった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。先に口を開いたのは樋川さんの方だった。


「ごめんなさい、話したいことがあるんです。もしよければ、外に行きませんか?」


「……話したいこと?」


 一体、なんだろう。今更に改まった樋川さんの口調が気になり、僕は布団から顔を出し、彼女の顔を見る。

 そこに張り付いていた表情は、いつもの彼女の微笑みとは違っていた。眉尻を下げ、目を伏せ、口は引き結ばれている。いつもの楽しそうな笑みは消え、そこには確かな影が張り付いていた。

 ……少なくとも楽しい話でないことは確かそうだった。

 彼女の話が気にならないと言えば、それは嘘になる。だけれど、今、彼女の話に付き合う気分には到底なれなかった。

 アヤノともう会えない。

 その現実を消化するだけで、僕は手一杯で、到底樋川さんのことなど、構っている余裕などなかったからだ。

 だから、彼女の誘いを断ろうと口を開きかけた瞬間のことだった。


「話と言うのは、アヤノさんのことです」


 ――心臓が止まるかと思った。


「なんて……?」


「アヤノさんです。森永アヤノさん。あなたの幼馴染の」


「………………」


 彼女が言っているのは、間違いなく、あのアヤノのことらしい。

 どういうことだ?

 樋川さんはアヤノと知り合いだったのか……?


「この春に交通事故にあった森永アヤノさんのことについて、お話したいことがあるんです」




 屋上に上るともう夏だというのに、風は意外に冷たかった。沈み行こうとしている夕陽の色はまぶしく、なぜだかそれは、ひどく不自然なものに感じられた。どんなことがあろうと、世界は変わらず回っている。そんな事実がなぜだか無性に腹立たしかった。


「アヤノについて何を知っているんだ」


 僕は屋上の高いフェンスを握り、町を見下ろす樋川さんに向かって問いかける。樋川さんは僕が今まで見たことのないアンニュイな表情を張り付けたまま、呟いた。


「アヤノさんは、友達でした」


「アヤノと友達……?」


「昔、私がこの町に来たときに知り合って……彼女にはいろいろなことを教えてもらいました」


 確かにアヤノは社交的で交友関係が広かった。初めて会った人間とでも物怖じせずに話し、すぐに仲良くなってしまう。そういう才覚を持った人間だった。だから、僕が知らないところで二人が会っていて友人関係を築いていたということ自体は、あり得る話だと思う。


「彼女は私の憧れ……でした。気が付くと、いつも彼女のことを考えてしまうくらいに……私にとっては気になる存在でした……」


 彼女の言葉を聞いて、僕はふと思い出す。


「昔、部室で気になる人が居るって言ってたのは……」


「はい。アヤノさんのことです」


 なんだ、それは……。

 気になるってそういう意味なのか……。

 気になる人というからてっきり恋愛話なのだと思い込んでいたけれど……。

 しかし、樋川さんがアヤノの知り合いで、そして、今こうして僕にアヤノの話をするということは……。


「樋川さんは最初から僕がアヤノの幼馴染だって知っていたのか?」


「はい。知っていました」


 樋川さんは淡々とした調子で答えた。

 それで、僕は得心が行く。


「なるほど……だから、樋川さんはやたらと僕にかまってきたのか……」


 樋川さんのような誰からも好かれる少女が、僕に興味を持つ理由がどうしても解らなかった。だが、僕をアヤノの幼馴染として見ていたのなら、解らない話ではない。知り合いの知り合いということになれば、少しは違った扱いというものにもなるだろう。


「まあ、きっかけはそうでしたけど」


 そう言った後、彼女は口をつぐみ、僕を見つめる。

 そして、何かを言おうと口を開きかけ、しかし、何も言わずにそっと口を閉じた。


「なんでもありません。今は関係ないことでした」


 何か意味深な言葉を残して、彼女は小さくため息を吐いた。

 そして、樋川さんは何かを思い返すように空を見上げた。そして、一呼吸ついてから、目線を僕へと戻した。


「あなたはアヤノさんの身に起こった出来事について、どこまで把握していますか」


「どこまで……とは?」


「今年の三月に起きた交通事故についてです」


「………………」


 忘れるはずもない。なぜなら、僕はその現場に居合わせたし、なんなら当事者と言ってもいい立場の人間だった。

 僕は思い返す。

 アヤノが事故にあった日のことを。




 その日は透き通るような晴天に恵まれた気持ちの良い春の一日だった。

 僕たちが進学を決めた高校には、入学前オリエンテーションという行事があった。受験に合格し、進学することを決めた時点で、四月の入学より前に生徒は学校へと集められる。そこでは色々な書類を提出したり、新しく始まる学校生活に向けての心構えを説かれたりするのだ。

 そんなオリエンテーションからの帰り道。オリエンテーションは保護者同伴だったのだが、僕たちの親はまだ学校に残っていた。生徒を抜きで保護者だけに連絡することがあるらしい。だから、僕たちは二人で家路につこうとしていた。 


「いよいよ、高校生活が始まるね」


 アヤノは楽しそうに笑って話す。


「リアルJKとお友達になれるなんて、わくわくだよね」


「おまえもJKになるはずなんだがな……」


「それも含めて楽しみだね。色々はかどるし」


「おまえは相変わらずだよな……」


 僕は思わず小さな笑みをこぼす。

 新しく始まる学校生活に不安がないと言えばうそになった。僕は未知の世界に飛び込むことが本当に苦手だ。だから、高校入学などという一大転機をアヤノのようにポジティブに受け入れる気には到底なれなかった。勉強にはついていけるのだろうか。クラスにはなじめるだろうか。そんなネガティブな想像ばかりが、僕の頭の中に陣取っていた。

 だけれど、同時にアヤノが居れば、きっと大丈夫だろうという思いもあった。

 どんな場所でも、どんな世界でも、アヤノさえいれば大丈夫だと、僕は心の底から信じていた。




 今にして思い返しても予兆とか、予感のようなものはなかったように思う。

 それはあまりにも突然だった。

 僕が最初に持った違和感はアヤノの表情。彼女の表情が突如固まった。その表情の変化が、アヤノが僕の背後にある何かを見たことで起こったことに、気が付いたのは一瞬後。次の瞬間には、アヤノは僕へとまっすぐに駆け寄り、彼女は僕を払いのけるように突き飛ばしたのだ。僕はよろめき、地面に倒れこみ、そして、さらに次の刹那、僕が居たその場所をトラックが駆け抜け、そのままアヤノを轢いて、その先のビルの壁にぶつかった。

 僕は一体どれくらいの間、その場でへたり込んでいただろうか。

 人が集まり、誰かが僕を助け起こしてくれるまで、僕の足がまったく動かなかったことだけは間違いがない。

 自分の足が地面を踏みしめた瞬間に、僕は反射的にアヤノの元へと駆け出していた。

 どこだ、どこに行った?!

 僕はアヤノを見つけようと思った。

 混乱し、動揺する僕は、なぜだか僕がアヤノの元へ辿り着きさえすれば、すべてが解決するような気がしていた。

 アヤノならトラックにぶつかったとしても、大丈夫だ。そんな謎の楽観が僕の中にはあった。今ならわかる。それは、絶望的な現実から目を逸らすための妄想。それ以外の何物でもない。だけれど、僕にとってのアヤノはヒーローだった。どんなことがあっても笑っている無敵の存在だった。きっと、アヤノなら平気な顔で立っている――

 僕がよろめく足でたどり着いた先。

 アヤノは嘘のように赤い血だまりの中、人としての原型をとどめてはいなかった。




「アヤノは……交通事故にあって死んだ……」


 アヤノをはねたトラックの運転手は運転中に心臓麻痺で死亡していたらしい。つまり、運転手を失ったトラックが暴走した結果、起こった事故だった。

 そう……アヤノは死んだ。

 だが、それは表向きの話だ。

 アヤノは生きている。異世界で。それは間違いがないことだ。

 アヤノはトラックに轢かれて死亡したことで、異世界に転生を果たした。

 最近のライトノベルではよく見られる展開だ。もちろん、そんな出来事が現実に起こるだなんてにわかには信じがたかったけれど、アヤノが死んでしまったなどというありえない現実などよりは、よっぽど真実めいていた。


「………………」


 僕は樋川さんにその事実を告げるべきかどうか逡巡した。出会ってすぐならともかく、今ならこの少女のことも、少しは理解している。くだらない嘘をつくことも多いけれど、信用できない人間ではない。少なくとも僕が事実を告げたところで笑い飛ばしたりするような奴ではないだろう。

 樋川さんはアヤノと知り合いだったようだし、アヤノが死んでしまっていると思ったままでいるのは単純にかわいそうだという思いもある。

 だから、僕は樋川さんにアヤノは異世界で生きているという事実を告げてやろうと思った矢先のことだった。

 先に口を開いたのは樋川さんの方だった。


「アヤノさんは異世界に居ると思っているんですよね……」


「な……」


 寝耳に水とはこのことだろう。

 なぜ、樋川さんがその事実を知っている……?

 アヤノが異世界転生を果たしたという秘密を知っているのは僕だけではなかったのか……?

 動揺し、立ち尽くすだけの僕に向かって、樋川さんは告げる。


「結論から言います……。タカキくん、アヤノさんが異世界に居るというのは、彼女の嘘です」


「何を言って……」


 僕は予感する。

 これから告げられる現実は容赦なく僕を打ちのめし、壊し、否定する。きっと、その衝撃の後に、僕は立ってはいないだろうということを。

 早鐘のように鳴り響く心臓の音がひどくうるさい。

 樋川さん、君はいったい何を言おうとしている……?


「あなたの幼馴染、森永アヤノさんは――」


「やめ――」


「異世界転生などすることなく、死亡しているのです」


「やめろ!」


 僕の叫びを無視して、樋川さんは淡々と話を続ける。


「あなたが日記越しにアヤノさんと話せていたのは、その日記が異世界に通じているからではありません」


 再び叫ぼうとしたやめろ、という言葉が喉元で止まる。

 僕は本当は樋川さんが言おうとしていることを、どこかで察してしまっていた。


「日記越しにあなたがアヤノさんと会話ができていたのは――」


 その思考に思い至ったとき、僕は何の言葉も発せなくなった。


「死んだアヤノさんの霊が日記に憑依していたからです」


 身じろぎ一つ取れず、ただ樋川さんの静かな言葉に打たれているほかなかった。


「ですから、アヤノさんは……」


 樋川さんは、目に涙を滲ませ、声を震わせ、それでも僕から目を逸らさずに言った。


「もう二度と戻ってくることはないでしょう……」




 トラックに轢かれて死んだという幼馴染が異世界転生を果たし、日記越しに無事を告げる。

 そんな都合の良い展開があると、僕は本当に信じていたのだろうか?

 異世界が絡んでいれば、どれほど都合が良くて、夢のような出来事だって起こりうる。

 そんな都合の良い妄想に、僕は心の底から浸れていたのだろうか?


 ――でも、仕方がないじゃないか。


 アヤノがそう言ったんだ。

 他ならぬアヤノ自身が、自分は生きていると告げたんだ。

 だったら、僕はそれを信じるしかなかったじゃないか。

 不都合なバッドエンドから目を逸らし、都合のよいハッピーエンドに縋るしかなかったじゃないか……。




 僕たちはマンションの屋上にしつらえられた小さなベンチに座る。

 すでに太陽は山の向こう側へと消えていた。暗い夜の世界が、僕たちの頭上には広がっている。今の夜空に星は見えているだろうか。ずっとうつむき、地面を見ている僕には、そんなことも解らなかった。


「私はずっとアヤノさんとお話をしていました」


 樋川さんは静かに落ち着いた調子で語りだした。


「私は、幽霊が見えるんです」


 幽霊……が見える……?

 樋川さんの言葉の意味をうまく咀嚼できず、僕は呆然と樋川さんの話を聞き流す。


「前に言いましたよね。『私は幽霊が見える』って」


 確かに冗談交じりにそんなことを言っていたような気もする。普段のくだらない嘘の中に紛れていたので、まったく信じていなかったが……。


「アヤノさんの幽霊に気が付いたのは、入学式の朝です。あなたの持つ日記に憑依していたアヤノさんを見つけたときは、本当に驚きました」


 そういえば、確かに初対面のとき、樋川さんは僕の方を見て、目を見開いていた。あれは、僕ではなく、アヤノを見ていたのだとすれば、あんな反応をしたことにも説明が――


「……!」


 樋川さんはアヤノの幽霊を視ていた。その言葉の意味を理解した僕は思わず顔を上げ、つかみかからんばかりの勢いで樋川さんに詰め寄る。


「なら、今もアヤノが見えているのか?!」


「落ち着いてください」


 樋川さんの言葉と瞳に、僕はいくばくかの冷静さを取り戻す。

 僕は固唾を呑んで、樋川さんの次の言葉を待つ。

 樋川さんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「今のアヤノさんは、私にも見えていません」


 そう言って、樋川さんは僕がずっと肌身はなざず持っていた日記の方に目をやった。


「アヤノさんは今もその日記に憑依はしているようです。ですが、その気配は限りなく小さなものになっています」


 気配が小さくなっている……? それがアヤノが反応しなくなった理由なのか……?


「……その原因はなんなんだ?」


「わかりません……」


 樋川さんは肩を落とし、呟く。


「そもそも、なぜアヤノさんが日記に憑依することができたのか。それが不思議と言えば不思議です。死んでしまった人間が皆、何かに憑りつけるなんてことはないわけでしょう? アヤノさんが特別だったのか……。あるいは、その日記に何か特別にな力が眠っていたのか……」 


 この日記は昔、二人でただの雑貨屋で買ったものだ。何か曰くがあったということは考えにくいだろう。アヤノに何か特別な力があったのか……。それも少なくとも僕には解らなかった。


「そもそも私は霊が見えると言っても、幽霊が見える以外に何の力も持っていません。だから、詳しい理屈とか理論は、私にも解らないんです」


 要するに、今の樋川さんにはアヤノと話す手段はないということか……。


「アヤノさんがそこに憑りつき、言葉を交わせていた今までがイレギュラーだったんです。現世で過ごす時間が長くなるにつれて、幽霊の力というのは弱まっていきます。おそらく、アヤノさんが表に出てこられないのも、幽霊としての存在が薄れ始めているからではないか……と」


 理屈は解らずとも、樋川さんの言いたいことは解る。

 そもそも、これまでの日々が異常だった。

 死者は世界から消え去る。

 それがこの世界の摂理。

 本来、ねじ曲がっていた世界の道理が、少しずつ正しいものへと戻っていった結果、アヤノは消えた。

 言葉にしてまとめてしまえば、そんな簡単な話だった。

 それでも、僕は納得することはできなかった。

 この世界は今まで死者がこの世に居残るという奇跡を黙認してきたんだろう? ならば、その奇跡に責任を持つべきではないのか。ずっと、ずっと、死者がこの世界に留まることを許すべきではないのか。

 今更、アヤノを連れて行くなんてことが認められるわけがないではないか。

 僕の中に生まれた激情。

 それをぶつけるべき理不尽な神様は僕の目には見えない。

 だから、僕はそれを一番手近な人間にぶつける。


「樋川さん、きみは知ってたんだろ? アヤノがもう死んでいて、幽霊として日記に憑りついているだけの存在だって」


 樋川さんは僕の言葉に目を潤ませ、しかし、決して逸らすことなく答えた。


「……はい」


「なぜ、教えてくれなかった!」


 僕は叫ぶ。


「知っていたら、僕は……!」


 だが、次の瞬間、僕は言葉に詰まる。

 知っていたら、僕はいったいどうしていたのだろう……。

 アヤノを救えた?

 アヤノを助けられた?

 アヤノの秘密を受け入れてやれた……?


「アヤノさんは――」 


 樋川さんは言う。


「あなたに秘密を告げるな、と言いました」


 樋川さんは言葉を続ける。


「入学式の日、アヤノさんの霊を見つけた私は思わず、その名前を呼びそうになりました。当然です。死んでいるとは思っていなかった知り合いが霊となって立っていたのですから」


「………………」


「だけれど、アヤノさんは言いました。『黙っていて』と。『うまくごまかしてくれ』と。『レイちゃんならできるでしょ』って……」


 樋川さんの両頬に熱い涙が線を描いた。


「だから、私は笑って……アヤノさんに……アヤノちゃんに教えてもらった『嘘』をついて、誤魔化した……」


 彼女は両手で顔を覆う。


「私だって、私だって話したかった! アヤノちゃんが死んでしまったなんてことを知らないふりして、演技をして、嘘をついて……そんなことしたかったわけじゃない!」


 樋川さんの叫びは空を裂き、天を打つ。


「だけど……そうしてくれって頼まれたから……」


 消え入りそうな小さな声が、固いアスファルトに落ちた。


「アヤノちゃんが死んだと知ったら、双葉くんは生きていけないからって……」




 きっと、それはその通りなのだろう。

 事実、アヤノの懸念は当たっていた。僕は確かにアヤノが死んだと聞かされて数日後、今いるこの屋上から身を投げ、死のうとした。アヤノからのメッセージが初めて届いたのは、僕が日記に遺書を綴ろうとした瞬間だった。


『異世界転生しちゃった』


 冗談めいたふざけた言葉。

 だけれど、そんな言葉が何よりも嬉しくて――

 僕は涙を流して日記を強く強く抱きしめた。




「本当は、アヤノさんには何も言うなと言われていました」


 ひとしきり泣き、落ち着きを取り戻した樋川さんは言う。


「自分は異世界に居る、生きているということにして、二度とこちらの世界に帰るつもりはなくなったとタカキくんに告げて、自分のことを忘れさせる。最初からそういうつもりだったみたいです」


 僕は何も言わず、樋川さんの言葉を黙って聞く。

 アヤノは最後に僕への別れのメッセージを残した。本当ならそんな言葉すら残さず、消えるつもりだったのだろうか。


「だけど、それは間違ってるって思った。そんなの正しくないって思った……そんなの私が憧れたアヤノちゃんじゃないって思ったから……」


 樋川さんはベンチから立ち上がる。


「だから、教えました。それでタカキくんがどうするのか。何をするのか。それはあなた次第です」


 樋川さんは僕に背を向け、ゆっくりと歩きだす。


「アヤノさんは……アヤノちゃんは、死んでもあなたのために生きてきました。次は、あなたがそれに答える番なのではないでしょうか……差し出がましいかもしれませんが、私はそう思います……」




 僕はバカだった。

 バカなんていう言葉が生ぬるいくらいに、愚かで情けない最低のクズだった。

 樋川さんの言葉が僕の中で繰り返し、響く。


『アヤノちゃんは、死んでもあなたのために生きてきました』


 アヤノは、死んでしまった後ですら、僕のことだけを考え、僕のためだけに行動してくれていた。

 どうして、僕はそれに甘えていたのだろう。

 もちろん、気が付かなかったと言えば、話は簡単だろう。アヤノの演技力は誰よりも僕が知っている。彼女は存在しない架空の異世界の冒険譚を演じ切ったのだ。彼女が本当に演技をして、秘密を隠そうとしてしまえば、僕なんかがそれを看破する術はきっとなかった。

 だけれど、同時に、僕は心のどこかで彼女の言動を演技ではないかと見抜いていたような気もしているのだ。

 彼女が語る異世界が、かつて自分が作った小説の設定と近似していると解ったことがそのきっかけだ。

 真相がわかった今なら、その理屈が解る。

 あれは、アヤノが異世界に居るという演技をするために、いわば、僕の書いた設定の一部を脚本として利用したのだ。

 それが故意だったのかどうかは微妙なところだ。

 自分でオリジナルの設定を思いつかなかったために、僕の作った設定を流用したのか、あるいは、僕に何かを伝えるためにわざと僕の脚本をなぞったのか……。

 どちらにしても、アヤノの居る異世界が、自分が作った設定をなぞっていると気が付いた時点で、僕はアヤノの嘘を疑ってもよかったはずなのだ。

 だが、僕はそんなことを微塵も考えなかった。

 それは、きっと思考に蓋をしていたから。

 たとえ、アヤノが目の前に居なくても、触れ合うことができなくても、話をできるだけの生活に浸っていたかったから。

 踏み込んで、今の生活が壊れることを怖がっていたから。

 だから、僕は彼女の演技に拍手をするだけの観客になっていたのだ。

 僕は本当に愚か者だった。

 アヤノに助けてもらえる価値などない、ただの臆病者だった。




 屋上から自室に戻った僕は、日記をもう一度読み返すことにした。

 過ぎ去った時間を噛みしめるためにゆっくりと一枚一枚ページをめくった。

 そこの書かれていたのは、異世界のことだけではない。さまざまなことが書かれていた。

 アヤノが感動した舞台の話。おいしかった食べ物の話。テスト勉強についての話。ただの天気の話。うまくいかなかった人間関係の話。僕との幼いころの思い出話。

 本当にくだらないことから、真剣なことまで、アヤノは何でもこの日記帳に書き込んでいた。

 渡された当の僕は、一行二行のおざなりな返事をしてばかりだった。時には、何も書かずにアヤノに日記を返していたことすらあった。今では、そんな過去の自分すら腹立たしい。本当に大切なことは失うまで気が付かない。

 日記の最初の一ページ。そこにはアヤノから僕に向けられた最初のメッセージが書いてあった。


『タカキが交換日記をしようって言ってくれたこと、本当にうれしかったです』


 僕はそんな文字を指先でそっとなぞる。

 そして、僕は思い返す。

 交換日記を始めた日のことを。




「憧れるよね、こんなの」


 それは僕たちが中学三年生の頃のこと。

 僕たちは、僕の部屋でアヤノが持ってきた演劇の映像を見ていた。アヤノは僕の部屋で、よく上映会を始めた。プロの演劇から、僕たちのような学生が行った演劇まで、その内容は様々だった。出不精で、積極的に外に出たがらない僕はアヤノからの演劇鑑賞の誘いをほとんど断っていた。だから、彼女はせめて映像を見るときくらいは一緒に見なよ、と言っていつも僕の部屋で演劇の鑑賞をしていたのだ。

 その日見ていた演劇は、どこかの大学生が地方の演劇大会で披露した作品であったらしい。

 内容は比較的わかりやすいラブロマンス。一人の女性がつけていた日記にある日、突然メッセージが現れる。誰かのいたずらかと思った女性だったが、その日記を見ているとメッセージは誰が書くでもなく、一人でに現れていることに気が付き、彼女は驚愕する。日記帳は別のどこかに居た男性の日記帳と繋がっていたのだった。


「アヤノって、こういういかにもな恋愛もの好きだよね」


 彼女は演劇と名が付けば、どんな作品でも喜んで鑑賞する人間だったけれど、特にわかりやすいラブロマンスのようなものを好むようだった。

 僕がそう言うと、


「……まあ」


 と、アヤノにしては珍しく歯切れの悪い返事をした。

 僕はそれを見て、言う。


「みんなには隠しているつもりかもしれないけど、バレ

バレだよ」


「……何が」


「アヤノが本当はベタな恋愛物が一番好きで、かわいいもの好きって、こと」


 アヤノの私服のセンスや部屋の小物、本棚に飾られた本を見れば、彼女が密かに少女趣味を持っていることは一目瞭然。幼馴染の僕に隠すということの方が無理な話だった。


「………………」


 僕がそう言うと、彼女は顔を真っ赤にする。


「……うるさいなあ」


 そして、彼女は呟く。


「私はかっこいい系で売ってるから、恋愛物が好きとか言いにくいの」


「かっこいい系かどうかは微妙だけどな……」


 まあ、確かに純愛物が好きと言えば、皆に驚かれるキャラクターであることは間違いないだろう。

 だから、僕は言ってやることにする。


「別にいいじゃん。恋愛物が好きでも。そういうのも、かわいいと思うけど」


 僕の言葉に彼女はさらに顔を赤らめる。


「タカキって、たまにぶち込んでくるよね……」


「何が?」


「いや、別にいいけど……」


 アヤノは僕から目を逸らしながら呟いた。

 僕は画面の向こうに映る日記を見つめながら言う。


「交換日記したいの?」


「え?」


「交換日記に憧れてるのかなって思って」


「………………」


 アヤノは一瞬ツンと澄ました顔になり、また僕から目を逸らす。だけれど、次の瞬間、一つ小さく息を吐いて、消え入りそうな声で呟いた。


「……やってみたい」


「ははは」


「何笑ってるんだ!」


「だって――」


 アヤノがこんなに恥ずかしがって物を言うところなんて、ずっと一緒に居た僕でも、本当に数えるほどしかなかった出来事だったから。

 照れているアヤノがかわいくて、僕は思わず笑みをこぼしてしまった。

 本当に、彼女がいとおしく思えて――


「じゃあ、やろうよ」


「え?」


「僕たちで始めよう」


 僕はアヤノをじっと見つめて言った。


「アヤノと僕の二人で交換日記を」


 そんな僕の言葉を聞いたアヤノは目を白黒させて、そして、なぜだか少し瞳を潤ませて言った。


「……うん」


 そう消え入りそうな声で呟いた後、


「うん!」


 もう一度、大きな声でそう返事をした。




 僕はアヤノのために何かをしてやりたくて、アヤノを喜ばせてやりたくて、そんな提案をしたはずだった。

 だけれど、次第に僕の日記の返事は適当なものへと変わっていく。アヤノの気持ちを考えれば、アヤノが僕にしてくれていたことを考えれば、決してそんなことはできなかったはずなのに。

 僕は最初の一ページをもう一度読む。


『タカキが交換日記をしようって言ってくれたこと、本当にうれしかったです』


 僕は、ただ、アヤノが綴った文字をそっとなぞる。


『ずっと、ずっと、この交換日記が続いて、私たちがおじいさんとおばあさんになっても続いて――』


 日記が、ぼやけて見える。


『私は、ずっとタカキの側に居られたらなって思っています』


 もう――見えない。


「う……あ……」


 瞳を満たした涙は、とめどなくあふれ、僕の頬を濡らしていく。


「う……う……うう……」


 喉元から漏れた嗚咽は、誰も居ない部屋にしんしんと降り積もる。

 そして、僕は涙をぬぐい、アヤノの書いたメッセージを見る。


『私は、優しいタカキが大好きです』


 僕は――

 涙の雨は地を濡らし、慟哭は天を裂く。

 僕は日記を胸に抱いた。

 いつまでも、いつまでも、日記を抱きしめ、そこにあったはずの彼女のぬくもりを探したのだった。




 樋川さんは言った。


「次は、あなたがそれに答える番なのではないでしょうか……」


 僕はアヤノのために一体何ができるのだろう。

 僕にできることは多くない。だからこそ、僕が彼女のためにできる何かがあるとしたら、それはたった一つしか思いつかなかった。

 それはきっと険しい道だ。

 それはきっと途方もないことだ。

 だけれど、やり遂げて見せる。

 それが、僕にできる最後の彼女への恩返しだと思ったから。

 そして、僕は――演劇部の部室の扉を開いた。



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