幕間2

 息が、切れる。


「はあ、はあ、はあ……」


 僕は膝に手をつき、荒い息を吐く。普段は静かな心臓が、ここぞとばかりに自己主張を始める。僕の頬を伝った汗が、ぽたりと地面に落ちた。


「大丈夫ですか?」


 僕の頭上から優しい声が聞こえる。

 なんとか呼吸を整えて、僕は言う。


「大……丈夫……」


 絶え絶えの声で、なんとか返事をした僕は、そのままその場から離れ、日陰に座る。

 すると、その声の主は僕を追いかけて、僕の隣に座った。


「水、飲みますか?」


 そう言って、樋川さんは僕に自分のものであろう可愛らしいピンク色の小さな水筒を差し出した。

 僕は首を振る。


「自分のあるから……」


 僕はそう言って、カバンから自分の水筒を取り出した。

 水筒を勢いよくあおると、冷たい水が喉元を通っていく。その感覚が心地よい。水がこんなにおいしいと感じたのは、初めてかもしれない。


「苦手なんですか? 運動」


 一息ついた僕に樋川さんは声をかける。

 僕はなぜだか気恥ずかしくなって、彼女から目を逸らしながら呟く。


「まあ……」


「演劇部の練習って、文化部にしてはハードですもんね」


 今日から新入部員の演劇部としての練習が本格的に始まった。

 演劇部というのは、文化部なのだけれど、吹奏楽部などの音楽系の部活と並んで、ハードな部活だと言われる。活舌と発声を鍛えるために早口言葉を言ったり、演技力をつけるために即興劇をしたりといった演技の練習もするのだけれど、それ以前に通常は体力作りから始めることが多い。ランニングはもちろん筋トレだってある。それが演劇部が「実質的に運動部」などと言われるゆえんだ。

 今日はランニングからスタートだった。運動場は野球部やサッカー部が交代で使っているので、僕たち演劇部は学校の外周を走ることになる。

 これがきつかった……。

 一周何メートルなのか解らないが、これを二周……。一周走っただけで僕はわき腹が悲鳴を上げていた。二周を終えたころには、僕はもう限界に達していた。


「来週からは三周になるそうですよ」


「………………」


 考えるのも嫌だった。


「よし、休憩終わり。次、体幹トレーニングいくよー」


 部長が部員たちに声をかけている。


「いけます?」


「……ちょっと」


 さすがにここから筋トレができる気はしなかった。

 樋川さんは僕を置いて部長のところに行き、何か話し始める。すると、すぐに部長がこちらにやってきた。


「双葉くん。今日はもう無理?」


 部長は眼鏡をかけた女性だ。僕とは二年しか歳が変わらないはずなのだけれど、ずいぶんと大人びて見える。


「……もう少し休んでいてもいいですか」


 僕はそう言うと、


「ああ、いいよ。まだ初日だもんね」


 部長は笑って、そう言うと部員たちの元へと戻っていった。

 僕は部員たちがトレーニングをしている様子を、日の当たらない場所からただ黙って見つめていた。




『いいなあ』


 演劇部の初日練習の様子を話した僕へのアヤノからの感想がそれだった。


『そりゃあ、演劇バカのおまえからすれば、地味なトレーニングも楽しいのかもしれんが』


『女子の体操服姿が間近で拝めたんでしょ? いいなあ』


『そっちかよ……』


 こいつは本当に何を言っているんだ……。


『まあ、でも、練習ついていけなかったんだ』


『ああ』


 結局、僕はランニングの後は見学だけで一日を終えてしまった。これからどんどん練習はきつくなっていくらしい。……正直、ついていける気がしなかった。


『中学のときは裏方専門だったもんね』


 中学の時も、僕は一応演劇部に在籍していた。しかし、実質的に幽霊部員だった僕は練習にはほとんど参加していなかった。それでも、なんとなく許されていたのは、常に人手不足の演劇部からすれば、地味な裏方作業に集中する僕のような存在はある意味でありがたかったからだ。おかげで、僕は演劇のスキルどころか、基礎体力すらほとんどついていないまま高校生になってしまった。


『今回は役者もやるの?』


『まさか』


 今の部活は裏方志望であろうときちんと練習はしてもらうという方針のようで、おかげで僕もきっちり練習に参加させられている。

 とはいえ、それほど肩肘張った部活ではないようだ。事実、僕が途中でギブアップしたことも、とがめられはしなかったから。練習だって、毎日ではないし、日曜日も本番直前以外は休み。全国のコンクールで本気で入賞を目指すような部活でないことは明らかだった。


『練習行くの嫌だな』


 僕はそう日記に書き込む。

 一瞬の間の後にアヤノは言った。


『演劇部、楽しくない?』


「………………」


 僕は思わず、彼女のメッセージをじっと見つめる。

 僕は演劇部をどう思っているのだろうか。

 決して楽しいものだと思ってはいないことは間違いなかった。

 単にアヤノに演劇部に入れと言われたから、演劇部に入っただけ。そこには、僕の意志は何もなかった。そんな僕が演劇部を楽しいと思えないのは当然で――

 いや、違うな。

 僕は演劇部が楽しくないと思っているわけではない。

 ……アヤノが居ない今の日々が楽しくないと思っているんだ。

 僕の沈黙をどうとったのだろうか。アヤノは言った。


『演劇部に入れって言ったのは、私だけど、もしも、タカキに他にやりたいことがあるなら、別に他の部活に入ってもいいよ』


「………………」


『タカキが楽しいと思えることをしてくれるのが、私にとっても一番楽しいことなんだから』


 僕が楽しいと思えるのは、アヤノと居る瞬間だけ。

 僕はアヤノのメッセージをただ黙って見つめた。




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