幕間1
「先輩たちも来ませんし、暇ですねえ」
「………………」
僕と向かい合ってパイプ椅子に座る少女は、そんな言葉をぽつりと呟いた。
この狭い部屋には僕たち以外には誰も居ない。だから、きっと彼女の言葉は僕に向けられたものなのだろう。だが、僕はその言葉に答えない。正確には、答えることができない。どうやって、他人と会話したらいいのか。僕にはそれが解らないから。
僕は返答とも吐息ともつかない曖昧な何かを口元から小さく吐き出した。
けれど、彼女は僕のそんな中途半端な態度を許さない。
「ねえ、少しお話しましょうか、双葉くん」
少女は、逃がしはしないというように僕の目を見て、僕の名を呼ぶ。
「演劇部の新入部員同士なんですから、仲良くしましょう」
優しく微笑む彼女の顔を見つめ返し、僕はこの少女、樋川レイと初めて出会った日のことを思い返していた。
それは入学式の日の朝のことだった。
僕は自分のクラスを確認し、教室を探していた。幸い、僕が所属する一年A組はすぐに見つかった。だが、僕はその扉の前で足踏みをしていた。校門をくぐる瞬間もそうだったが、僕は未知の世界に一人で足を踏み入れるとき、ためらいを覚えてしまうことがある。この先にどんな光景が広がっているか解らない。そういう場所に足を踏み入れるのは、少し怖い。今まではアヤノが居た。何か新しいものに触れるとき、僕の一歩先にはアヤノが立っていた。僕はいつも彼女の背中を見つめていた。そうしていれば、知らない何かへの恐怖心は嘘のように消えて行った。彼女が居れば、僕はなんでもできるような気がしていたんだ。
だが、今ここにアヤノは居ない。アヤノは今、異世界に居る。いつ帰ってこれるともしれない、遠い世界。僕は今日から始まる学校生活を一人で過ごさねばならない。
そんな思考が僕の足の動きを鈍らせたのだった。
とはいえ、いつまでも教室前で固まっているわけにもいかない。僕が意を決し、教室の扉に手をかけようとした瞬間だった。
「え……?」
思わず漏れたと言った感じの声。それにつられて振り向くと、そこに立っていたのは一人の少女。彼女の瞳は確かに僕をとらえていた。
黒く長い髪には細やかな編み込みが施されている。大きな瞳の周囲を、長いまつげが縁取っている。鼻梁の描くラインは美しく、柔らかな頬は優しい丸みを帯びていた。
一言で言えば、おしゃれな雰囲気のかわいい女の子といったところか。そんな彼女は確かに僕を見つめて、目を見開いていた。
(何かやってしまったのだろうか……)
さっそく僕は何かをやらかしたのだろうか。まだ少し大きい制服の着こなしが間違っていただろうか。それとも、教室の前で何かおかしな挙動をしていたのだろうか。はたまた、僕の顔はそうやって驚かれるほど、おぞましいものなのか……。
僕は思わず通学カバンの中に入れていた分厚い日記帳に手を伸ばしかける。日記帳の向こうにはアヤノが居る。僕は彼女とのつながりである日記帳をどこに行くにも持ち歩いていたのだ。
思わずいつもの調子でアヤノに助けを求めかける。アヤノがこの場にいてくれたら、「あら、かわいいお嬢さん。この子に何か用かしら」などと冗談交じりに間に入ってくれていただろう。
だけれど、この場でいきなり日記帳を開くわけにもいかない。そんなことをすれば変人扱いされることは必至だろう。だから、僕は日記帳を開くことをぐっとこらえる。
僕がそんなことを考えている間に、僕を見つめる少女の表情はめまぐるしく変化していく。初めは明らかに動揺の見られた表情が、少しずつ落ち着いたものへと変わっていった。そして、次の瞬間には、にっこりと微笑んで、僕に向かって言った。
「私、あなたのことが気になるかもしれません」
と、そんなセリフだけを言い残し、彼女は僕の隣をすり抜け、僕が入ろうとしていた教室の中へと入っていった。
僕が教室の前で立ち尽くす時間が伸びたことは言うまでもない。
(この娘はいったい何を考えているのか……)
入学から約二週間。僕は成り行きで演劇部に所属することになった。その部活に同じく新入生として入ってきたのが、彼女、樋川レイだった。
今日までなんだかんだで僕は彼女を避けてきた。なんだか怖かったからだ。もちろん、可愛らしい女の子から「気になる」などと言われて、それこそ気にならないはずがなかったのだけれど、それ以上に、僕には彼女が得体の知れない存在に思えてしまったのだった。
元来、僕は人づきあいが得意ではない。相手が女の子となれば猶更だ。幼馴染のアヤノをのぞけば、女の子とうまく会話できたことなど、数えるほどしかない。そんな僕が彼女とうまく対話するなど、できるはずもなかった。
だが、今日、図らずも彼女と二人きりになってしまった。今日は先輩たちは何かの理由で部活に来るのが遅れているようだ。他の新入部員も用事でもあるのか、誰も部室には顔を見せていない。演劇部としての活動は数回目だが、こんな風な状態に陥ったことは初めてで、僕はどうしても身構えてしまう。
「そうですねえ、いくつか質問してもいいですか」
相変わらずの優しい微笑み。樋川さんはたいていいつもにっこりと微笑んでいる。それこそ、彼女のこれ以外の表情を見たのは、初対面のときだけな気がする。
「双葉くんは気になる人とか居ますか?」
「………………」
いきなり何を聞いているんだ、こいつは……。
繰り返すが、僕と彼女は出会って約二週間。その間、ほとんど踏み込んだ会話など交わしたことがない。それがいきなりこの質問である。
僕は言葉を失い、黙り込んでいるが、彼女は意に介した様子もなく、話を続ける。
「私には居ますよ」
「……そう」
僕はそうやって気のない言葉を返すしかなかった。
本当にこの娘は一体何が言いたいのだろうか。
少女はまた話を続ける。
「じゃあ、双葉くんは、何か好きな演劇とかありますか?」
「……好きな演劇?」
「はい。演劇部に入るくらいなんですから、何か好きな演劇があるのではないですか?」
「………………」
僕はあくまでとある事情から演劇部入ることになったのであり、特別演劇が好きで演劇部に入ったというわけではなかった。もちろん、まったく興味がないというわけではなく、別に嫌いというわけでもなかったのだが、そうやって問われて、答えられるほど、演劇に詳しいわけでもなかった。アヤノだったら、喜び勇んで好きな作品や役者を語りだしただろうけど。
「あんまり演劇には詳しくない……」
僕がようやく言葉を絞り出すと、樋川さんは「そうですか」とあっさりと引き下がった。
後で思い返せば、「じゃあ桶川さんは何か好きな演劇でもあるの?」とでも聞けばよかったのだろうと思う。だけども、繰り返すが僕は会話が苦手だ。気の利いたセリフどころか、そんな当たり前の会話すらままならない。
「じゃあ、なんで演劇部に入ったんですか?」
「………………」
それは至極当然の指摘であろう。
僕が演劇部に入った理由は至極シンプルだ。
『演劇部に入りなよ』
アヤノにそう言われたからだ。
『私はそっちに戻ったときに演劇部に入ろうと思ってるの』
そもそも、アヤノがこの高校に進学を決めた理由も演劇部だった。だから、彼女が演劇部にこだわること自体は至極当然だ。
『だから、タカキが先に入っておいて』
だけれど、その理屈は通らない。僕自身は別に演劇に興味があるわけではないからだ。確かに中学の頃は、一応、演劇部に在籍していたけれど、それだってアヤノがなかば無理矢理僕を演劇部に引きずり込んだからだ。事実、僕は完全に幽霊部員と化していた。
『タカキの書く脚本は面白いよ。だから、きっと認められるって』
……脚本を書いたのだってほんの戯れだ。僕が趣味で書いた小説を読んだアヤノにせっつかれて、一度くらいなら、と安易な気持ちで書いたものだ。事実、僕はそれを誰にも見せる気などなかった。アヤノは僕の机から我が物顔で引き出して、それを読んでいたけれど……。
『いいから演劇部に入るの。そうじゃなきゃ、私は異世界での冒険をこれ以上進めないよ』
そこまで言われては、もうどうしようもなかった。
アヤノには一刻も早くこちらの世界に帰ってきてもらわねばならない。
こうして、僕はしぶしぶ演劇部に入部したのだった。
「………………」
だが、それをどうやって桶川さんに説明したらいいのだろうか……。
「異世界に行った幼馴染に、僕が演劇部に入らないと冒険しないよって言われちゃったからさあ」とでも言うのか。
だめだ……控えめに言っても、頭がおかしい奴と思われる。
僕が何も言えず、黙り込んでいると、桶川さんはポンと手をたたいて呟いた。
「ああ、なるほど。わかりました」
「…………?」
いったい、何が解ったというのだろうか。
「いわゆる、人には言えない類の理由があるのですね」
「………………」
まあ、そうなのだが……その言い方は何が誤解を招いているような気もしなくもない。
「まあ、解りますよ、そういうの。私も似たような経験はあります」
「……そうなの?」
なぜか訳知り顔で話す桶川さんに僕はなんとか相槌を返す。
人に言えない秘密とはいったい何なのか。そんな言い方をされれば、さすがに少しは興味がわく。
桶川さんは、しれっとした顔で呟いた。
「私も幽霊が見えますからね。そういう人に言えない秘密っていうのはどうしてもできますよね」
「……え?」
この娘はいったい何を言っているのだろうか。
幽霊が見えると言ったのか……?
「幽霊……見えるの?」
「ああ、はい。見えますよ」
「………………」
聞き間違いではなかったようだ。
僕は別にオカルト否定派ではない。むしろ、肯定派と言ってもいい。願いが叶うというパワースポットに興味を持ったり、UFOをめぐる政府の陰謀論について調べたりと、むしろ、そういった類の話は好きな方だ。でなければ、異世界転生したというアヤノの話を信じたりはしない。
だけれども、彼女の打ち明け方は、あまりにもあっけらかんとし過ぎていた。普通、こういった類の話は前置きなりをして、聞き手に心の準備をさせた上で聞かせるものなのではないだろうか。虚を突かれてしまったがために、僕は彼女の言葉にうなずくことができなくなっていたのだった。
混乱している僕に追い打ちをかけるように、彼女は言う。
「あと、私、宇宙人でもありますし」
「は?」
さらに彼女は謎の設定をぶち込んでくる。
宇宙人……?
平然とした様子で彼女は言った。
「未来人でもあるし」
「え……」
「超能力者でもあるし、異世界人でもありますね」
「………………」
僕は黙って樋川さんを見つめる。
すると、彼女はにこりと微笑んで言った。
「まあ、嘘ですけど」
「嘘なのかよ!」
僕は思わず、目の前にある机に手をついた。
「まあ、八割くらいは嘘です」
「残り、二割くらいは本当なのかよ」
「まあ、そうですかねえ」
そんなことを言って、楽しそうに笑うのである。
本当にわけがわからない女である。
僕が抗議の意味を込めて、じっと彼女を睨んでいると、彼女は言った。
「やっと、私の目を見てお話してくれましたね」
「……え?」
「双葉くんったら、ずっとうつむいているんですもの」
「………………」
そう言われて気が付く。こうして、彼女の目を見て話したのは、そういえば、ほとんど初めてのことだったかもしれない。
樋川さんは、まるで子供を見るような優しい瞳で言った。
「つまらない『嘘』をついた甲斐がありましたね」
そんな笑顔を見ていると、僕は何も言い返せなくなり、
「はあ」
と、小さなため息をつくしかなくなるのだった。
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