1-3 前髪さん

「あれ、さっきから気になってたけど、そーくん髪にグラデかけてるよね?」


 唐突に姉は僕の髪色のことを言ってきた。そう、僕の髪色は、前髪や後髪が青と翡翠色が混ざったグラデーションカラーだ。それに気づかれて恥ずかしくなった。


 対する姉は昔と変わらず、白銀色のセミロングほどの長さの髪だ。手入れが行き届いており綺麗である。

 運動をする時、勝負事がある時は決まって縛るか、ピンで止めたりするのだが、今はそのままで、ストレートな髪は肩甲骨の下あたりまで伸びている。

 そして、ネイビー色を基調とした花柄のワンピースをまとっている。男勝りな性格だが、その反面可愛らしい服を昔から好み、たしなんでいる。しかもそれがいつも似合っている。


「うんうん、昔みたいな地味色よりも派手目な髪の方がそーくんは似合うよ。いいねー。前髪さんもそう思うだろ?」


 と、先ほどの呼び方が気に入ったのか、姉はニヤニヤしながら前髪さんに同意を求める。


「はい、想くんはオシャレでセンスがいい」


 それに対し真顔で応える前髪さん。無論、口元しか見えないので真顔にしか見えないというのもあるが、さすがに会って間もない人に言われると照れてしまう。今日の僕は、仕事用の白と黒のツートーンTシャツに、デニムパンツでオシャレもクソもないのだが。


 姉は昔から僕を甘やかしてくるから慣れてるのだが、前髪さんも負けず劣らずの褒め癖があるのかもしれない。

 しかもこの人は、僕に引けをとらないくらいに感情を表に出さないタイプだろうな。なんとなくそう思う。そう思って親近感も湧くし、仲間意識も高まるが、周りからしたらやりにくいだろうなとも考えてしまう。自分の事ながら。

 それでも僕は自分のスタイルを変えることなんてできない。スタイルと呼ぶにはあまりにもそれは格好よすぎるかな。


「しっかしまぁイヤな職場だねー、なんだあの男は? 一発くらいぶん殴った方がいいよ?」


 楽しそうにニコニコしていた姉だったが、思い出したようにしかめっ面をした。喧嘩っ早い姉はすぐ拳で解決しようとするんだ。


「あぁ、あはは、横沢さんか。あの人はしょうがないよ。僕もトラブルは避けたいし、平穏が一番なんだ」


 姉が横沢さんを知っていたとなると、僕の現実の暮らしをこの部屋から見ていたということになる。そんなこともできるのか。ますます不思議だ。


「まぁ、そこがそーくんのいい所なんだけどさ。優しいと言うより受け入れることができる。それはすごいよ。でもさぁ、姉のあたしからしたら、可愛い弟がけなされてるのは許せないんだってば!」


 スイッチが入った姉は怖い。何もない空間に拳を当て始めた。今姉の目の前には横沢さんがいるのかもしれない。


煉美れんび、落ち着きたまえ。縦社会で生き延びるとは、そうゆう理不尽をも時には受け入れなければならないんだよ。想くんはそれを理解してる。大人だ」


 前髪さんは紅茶を飲みながらなだめた。わかってるってと言いながら姉は渋々ソファに身を沈める。

 前髪さん、姉の扱い方に手慣れてるな。一度暴れ出したら手のつけようがない猛獣だからな姉は。


「前髪さん、特訓は今からでもできますか?」


 僕は少しずつこの謎の男性を信用できるようになっていた。特に強くなりたいとか、特訓が楽しみだとか、そうは思っていなかったのだが、会話以外の事でも彼とコミュニケーションをとってみたいとそう思えたんだ。

 彼は、もちろんと頷き、ソファとキッチンの間にある空間に僕を誘った。先ほど対峙していた場所だ。


「筋肉トレーニングなど基本的なことは現実世界でもできます。今は2人でしかできないことをすべきですね。となると、やはり先ほどのようなスパーリングで、少しでも経験をつみましょう」


 やはりそうなってしまうのか。今まで格闘経験はおろか、人を殴ったことすらない、むしろ殴られる側なら少しあった。そんな僕なのだから不安はもちろんある。

 前髪さんは、どうぞと言わんばかりに待ち構える姿勢で手招いた。なら、やるしかない。



 やはりスパルタじゃないか。数十分ほど前髪さんに殴りかかってみたものの、僕の拳は彼を捉えることは全く出来ず、彼に蹴り飛ばされ、投げ飛ばされ、羽交い締めにされた。

 夢の中であるはずなのに、僕は息を切らしていた。彼は相変わらずの無表情。彼のあの自慢の前髪を揺らすことさえできなかった。


「動きは格段に良くなってるよ。素質は充分にある。あたしもうずうずしてきちゃったけど、流石に弟を投げ飛ばすなんてそんな残酷なことできないよ。お姉ちゃんは」


 姉は終始黙って見ていたがそこで呑気な言葉を挟んだ。動きが良くなったとは言ってくれたものの、僕自身には全く自覚はない。かと言って姉は世辞を言う人間ではないことはよく知っている。


「えぇ、想くんはまだまだこれからです。定期的に殴り合いましょう」


 無表情なのだが、少し言葉尻が弾んでいる。なんなんだよ「殴り合いましょう」って。

 でも、数十分立ち向かっただけだが、大分彼のことを信頼できるようになった。何故なのかは自分でもよくわからない。姉さんが信頼してる人だからというのもあるのかもしれない。


「そーくん身長も伸びた? お姉ちゃんに追いつきそう?」


 いつの間にか姉は僕の隣に立っていた。姉は僕と話す時、僕を子供扱いするように自身の事をこうして「お姉ちゃん」とたまに言うのだが、僕はそれが決して嫌ではない。嫌ではないのだが、いつもこそばゆくなる。

 確か姉は身長175cmくらいだったかな。僕は170cm越えたくらいで止まっている。その事を伝えると、


「そっかそっかぁ! 最後に会った時はそーくんまだ大学生だったよね。うん、おっきくなった!」


 と言いながら滅茶苦茶嬉しそうに頭をぽんぽんしてくる。あの頃からは数cmも伸びてないから、全く変わってないはずなんだけどなぁ。親馬鹿ならぬ姉馬鹿なんだ。

 姉はふと思い出したように微笑んでから、僕の目を見て語り出した。


「そーくん、特訓や実戦で経験を積むのは大事だけど、戦いにおいて最も大切なことを教えておく。それは、想像力だ」


 姉がいきなりスイッチを入れたことにも驚いたが、その答えも意外だった。姉はストイックで、「技術と経験」という考えのタイプだと、僕はずっと思い込んでいた。


「人によっては発想力だと言うかもしれないが、あたしは敢えて想像力と言わせてもらう。発想力と言ってしまうと戦い方は限られてしまうんだけど、想像力は無限に拡がる。そしてその人にしかできない戦闘スタイルを導き出してくれるんだ。相手の想像力を上回れば上回るほど、それは確実に勝利へ繋がる大きな一手になるとあたしは確信している」


 姉の意見はとても説得力があり、益々尊敬の気持ちが強まってしまう。


「そのためにも相手の行動に反応するということはとても意義のあることなんだ。だからさっきのトレーニングも決して無駄にはならない」


 姉はそう続けた。その表情は別段険しいわけでもなく、ましてやニヤニヤ嫌味ったらしいわけでもない。極めて柔らかい表情であり、優しく言い聞かせてくれる。それは僕にとって、とても懐かしい心地で、暖かく、安心できた。


「姉さんはすごい。わかった、想像力を駆り立てること、絶対に忘れないよ」


 僕のその言葉を聞いて、姉は目を細めて微笑んで頷いた。この笑顔にどれだけの男性がやられてしまったことだろうか。我が姉ながら罪な人だなとは思う。そして、その男性たちにねたまれやしないかと、あの頃はひやひやしたものだ。


煉美れんびはふざけてばかりだが、3日に1回の割合で真面目になっていいことを言う」


 と、静かにしていた前髪さんが口を開いた。果たして茶化してるのか真面目なのか、どちらにも受け止められる。確かに姉さんが真面目になるのは、本当に親しい間柄の相手だけではないだろうか。


「そいつはどうも! 褒め言葉として受け取っとくな!」


 目が怖い。だが、そんな姉の嫌味にも前髪さんは意に介する素振りもなく、ソファの角に寄りかかりながら紅茶を飲んでいた。

 姉もそんな前髪さんの態度に慣れているのか、それ以上突っかかることはない。よくあるやり取りなんだろうな。


「そーくん、何笑ってんのさー?」


 姉はすぐ目敏く気づいた。僕も知らないうちに笑っていたことに、自分自身驚いた。普段笑うこともなくなってしまっていたな。


「姉さんて、相変わらず子供っぽいとこあるよね」


「あぁ? そーくんまであたしをいじめるの? 泣くよ!?」


 はいはい、と僕は肩をすくめる。姉が泣く所なんて逆に見たいくらいだ。涙などは絶対他人に見せないような人間なんだ。


 と、前髪さんが何かに気づいたように顔を上げる。


「どうやら向こうの世界が呼んでるようだ」


 向こうの世界。それは現実のことを指しているのだろうか。

 姉もはっとして、


「あ、つい時間を忘れて話し込んじゃったね。あたしも久しぶりにそーくんに会えて嬉しくて、またこうやって話せるのも楽しくてさぁ。夢中になっちゃった」


 そう言って、本当に嬉しそうな顔をしながら僕の手を握った。そうか、もうお別れなのか。僕だって夢の中とは言え、姉と再び言葉を交えるのは楽しかったし、それこそ夢にも思わなかった。


「ふふ、大丈夫。またすぐに会えるからさ。ちゃんと普段から筋トレしとくんだよ?」


 そう言いながら僕の頭に手を置いた。


「想くん、現実は本当に残酷で過酷だ。仕事はその一部でしかないが、私は君をここから応援している。がんばってくれ」


 前髪さんからの熱いエールに僕はお礼の言葉で返した。彼がここまで思ってくれるのはとても意外で、とても嬉しく、胸が熱くなる。


「さ、そんじゃ行っといで! 我が弟よ! 現実の世界が君を待っているよ」


 「クアルト」と呼ばれるこの部屋にすっかり居心地の良さを感じてしまい、離れるのが名残惜しくなってしまったが、姉がまた会えると言った以上はきっとまた来れるはずだ。


 姉の言葉を受け止めて、この部屋を出ようと決めたら、その方法を考えるまでもなく、自然と意識が薄れ、視界が揺らいでいくのであった。

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