1-2 姉

 誰かに下の名前で呼ばれるのは何年ぶりだろうか。社会に出た今となっては、あの呼びにくい苗字で呼ばれることが多く、周りからも不平を買っていた。

 「そう」という僕の名前、その名付け親は姉だったといつか本人が言っていた気がする。

 僕の姉、弖寅衣てとらい 煉美れんびは文武両道かつモデル体型の美人で、男女共に周りから好かれていた。そして、何よりも喧嘩が強かった。あらゆる格闘技に手を出し、自己流で身につけ、毎日のように荒事を繰り返していた。


 また、恋愛に興味がなく疎かった姉は、言い寄ってきた男性を片っ端から返り討ちにしてきたらしい。「付き合ってください」を「(拳を)突き合ってください」と勘違いしてたに違いない。


 そして、僕が小学生の頃も、中学生の頃も、僕がいじめられていた時は助けてくれ、仕返しをしてくれた。

 あれは確か僕が中学1年の頃だっただろうか。当時3年生の見知らぬ先輩に突然殴られ、パシリにされ、罵倒され、そしてまた殴られた。

 僕自身、それくらいなんとも思っていなかったので、平静を装って帰宅したが、姉は目敏く僕の顔のあざに気付き、僕の手を引っ張り件の上級生の家に赴き、彼を殴った。

 当然その場で彼の父親が出てきた。いかにもチンピラ風で強面のその父親は激怒し、数人の仲間を呼ぶと、誰もいない公園へ姉と僕を連れていき、30代から40代の男性たちが5人で姉一人を囲んだ。そして姉は当然のように全員返り討ちにし、こう言った。


「お前は自分の息子が姑息ないじめをして、お前自身もこんな卑劣なことしかできなくて恥ずかしくないのか? 男なら正々堂々生きろ」


 この時姉は高校3年生であった。そして、それ以来僕は中学だけでなく、高校、大学に行ってもいじめられることは一切なくなった。


 そう、こんな言い方をするのは全くもって照れ臭いのだが、姉は僕にとって絶対的なヒーローだった。

 しかし、姉は6年前に死んだ。その姉が目の前にいるということは、これは夢であり、この姉は僕の記憶の断片でしかないのだ。


「ははーん、やっぱこの状況には戸惑ってるなぁ?」


 目の前にいる死んだはずの姉は、僕の顔を覗き込みながらニヤニヤ笑い、僕が困惑している様子を楽しんでいるようだった。昔からそういう人なんだ。


 薄暗かった部屋はいつの間にか明かりが灯っていて、そこでようやく僕は自分がいる場所を視認することができた。

 そこは円形の、リビングのような空間であり、真紅の絨毯が眼下に拡がっている。僕が今いる位置から左手には円卓のローテーブルが置かれて、それを囲むように緑色のソファが三つ。

 周囲の壁に沿ってアンティークな食器棚、本棚、机等が並べられており、ソファから対格位置、僕から見て右手にはキッチンと思われるカウンターが見える。

 円形の天井からは花の形を模したシャンデリアが吊り下がっており、まるでどこかの洋館の一室のようである。そして、扉や窓の類は一切見当たらなかった。


「いつまで突っ立ってるんだい? とりあえずくつろいでいいからさ」


 と、昔から変わらず白銀色の髪をしている姉は、3つあるソファのうち一番大きな3人掛けソファをいつの間にか占拠していた。まだまだ混乱は収まらないが、言われるがまま姉の左隣に位置する1人用ソファに着席した。


「すごく、お洒落な部屋。ここは一体どこなの?」


 率直な感想と疑問を口にするしかなかった。


「夢の中だと思ったでしょ? ほとんど正解だ。ここはそーくんの夢の中、のような場所。今はそう思っていてくれていいよ」


 なんだか含みのある言い方だ。


「この部屋はね、『クアルト』って名前なんだ」


 耳慣れない単語だ。「4番目」を意味する「クアトロ」の間違いだろうか? 疑問に思ってその旨を問いただしてみると、


「4番目って意味もあるんだけどね。クアルトはポルトガル語で『部屋』を意味するんだ」


 つまりそのまんまさと、姉ははにかんだ。

 と、そこへ先ほどの前髪男がキッチンからやってきた。


「紅茶をお持ちいたしました。先ほどは突然の無礼な行動、謹んでお詫び申し上げます」


 と、深々と頭を下げられてしまった。


「いえ、体はどこも痛くもなんともないので平気です」


 改めて照明が灯った部屋で前髪男を見ると、ワイシャツの上にジレを着てスラックスを履いている。バーテンダーか執事のような印象を持ってしまった。前髪さえ除けば清潔感のある正装だ。

 僕の返答を聞いて安心したのか、頭を上げ、ほっと小さく息を吐いた。しかし間髪入れずに姉の言葉が飛んでくる。


「だいたい、君はちょっとムキになりすぎなんだって。一発パンチかます程度でよかったんだよー?」


「何を言ってるんだ!? そもそも煉美れんびが言い出したんだろ? サプライズだの力試しだの四の五の言って」


 先ほどの丁寧な謝罪が嘘のように、彼はまくし立てながら姉さんにも紅茶を渡した。

 はいはいありがとと言いながら姉さんはカップに口を付ける。僕も恐る恐るその紅茶を飲んでみたのだが、コクがあってとても美味しい。夢の中なのに不思議だ。


 姉さんにここまで突っかかる事ができるという事は、相当仲がいい間柄だ。まさか恋人? あの姉さんに? 謎は益々深まるばかり。

 しかし、夢の中なのになぜ僕の知らない人が出てくるのだろう。夢であって夢ではないということか。


「サプライズ? 力試し? 僕を試したの?」


 先ほどのやりとりを聞いて、口を挟まずにはいられなかった。


「そう。今のそーくんがどれだけの実力を持っているか見たくてね。日頃あまり体を動かさない割にはよく反応できてた。採点すると、『よくできました』って感じかな?」


 斜め上を見ながら言葉を発した姉は、右隣のソファに腰掛けた前髪男に同意を求めるように視線を移した。彼は無言で頷く。部屋が明るくなった今でも表情は読み取れない。


「せっかくこうして再会できて積もる話もあるけど、単刀直入に本題に入ろう。今、世界には危機が迫っている。そして、それは人類社会に何年も前から潜んでいる。そーくんの身近にもね。だから来るべき時に備えて力をつけておかなければならない。いつ巻き込まれてもおかしくないんだ」


 姉からの現実離れした言葉に唖然とする。世界の危機? そんなものが人々の暮らしに潜伏してるとはにわかに信じ難い。こんな映画や漫画みたいな話はいかにも夢特有だ。


「力をつける? 運動面で大してとりえもないこの僕が?」


 思っていたことがそのまま口に出ていた。


「あぁ、そうだ。大丈夫、そーくんは自分が思っているより体力はある。なんてったって、あたしの弟なんだからさ。だからしばらくこの部屋で彼を相手に特訓してみるといい」


 姉さんにそう言われると少しでも自信がついてしまうから怖い。自分なんかが姉さんのように、喧嘩や格闘技などをできるようになれるとは到底思えない。

 前髪男の特訓? スパルタなのだろうか。先ほどの容赦ない猛攻を思い出す。今でもまだ恐怖は少し残ってる。

 恐る恐る彼の方を見やる。視線に気づき彼は顎に触れていた手をこちらに向けて振る。


「大丈夫です、もちろん加減はします。幸いなことに、ここの家具や壁はどんな衝撃を受けても一切壊れることはありません」


 家具の心配までは気が回ってなかったのだが、そう言った彼はジレの内側に手を入れて拳銃を取り出した。

 そして、テーブルの何も置かれてない場所に目掛けて発砲した。バンッという発砲音が部屋中に響き渡り、うわっ、と僕は思わず悲鳴が口から溢れてしまった。

 テーブルを見やると、弾痕は一切ない。銃弾は沈み込むように消えていったように見えた。テーブルの下に落ちてる気配もない。


「こら、野蛮だよ! 一言ちゃんと断ってからにしてよー。あたしもびっくりしちゃったー。死ぬかと思ったー。もう死んでんだけどさー」


 ジョークにもならないようなことを言う。でも、2人が真剣なのは言葉からじゃなく、僕を見てる時の圧力でわかる。圧力と言うと強すぎるかもしれない。期待感と威圧感が混在している不思議な感じ。

 本題について考えよう。姉さんの言葉、それはすごく突拍子もなく、飛躍していて漠然としているが、それでも僕は信じてる。なら、今僕がすべきことは何なのか? まだまだ戸惑いは晴れないが、それでも従順に受け入れるべきなんだ。


「わかった。自信はないけどやってみる。前髪さん、よろしくお願いします」


 言った後で、つい「前髪さん」と呼んでしまい、はっとした。自分のことを呼ばれたのかと、姉さんと僕を交互に見ている前髪さん。

 それに対し、姉さんはクスクス笑っていたが、口元を押さえながら立ち上がり、


「よくぞ言った! さすがあたしの弟! 前髪さんに手取り足取り、優しくしてもらわなきゃな!」


 胸を張って機嫌よく快活にそう述べた。

 自分がどこまでできるのかはわからない。大きな取り柄もなく、ただ流されてるだけだった人間だ。


 その僕に相対するように、万能で決断力もあって周りから慕われていた姉。僕はその姉に対して劣等感を抱いていたわけではない。むしろ、尊敬と感謝とそして密かな自慢の念を持っていた。

 もちろん他人に姉を自慢した事は一度もない。それは誰かに不快感を与え得る可能性があるからだ。


 自分があの姉のようになれるとは思っていない。しかし、姉の生前に何一つ恩返しができなく、後悔の気持ちをずっと抱いて生きてきた僕にとっては、この訓練で恩返しができなくても、彼女の気持ちに応えることをしたい。

 ただただその思いが胸の中を駆け巡って、抑えつけることができなかった。

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