第57話「追憶」



 気がつくと、俺は不思議な空間にいた。


「……」


 声が出せない。ここはどこだ。俺は辺りを見渡した。一面が黄色いもやもやとした何かで覆われている。とても綺麗だ。俺はここで何をしているんだ。自分は浮いているのか、それとも地面に足をついて立っているのか。それすらも分からなかった。


 ただ……


「……うぅ」

「……?」


 どこからか声が聞こえてくる。声の居場所は掴めない。だが、確実に誰かがいる。この声は……


「……うぅ」


 幼い女の子の声で、しかもすすり泣いている。その声はラジオのボリュームをひねったように、次第に大きくなっていく。


「うぅぅ……」

「!?」


 その時、俺は彼女を見た。目の前にいるわけではない。なのに、彼女の姿がはっきりと捉えられる。黄色いボブカットの弱々しい女の子の後ろ姿が見える。黄色……? まさか……


「うぅぅ……陽真くぅん……」


 女の子は泣きじゃくりながら、俺の名前を呼んでいる。助けを求めているんだ。俺はゆっくりと彼女に手を伸ばす。




 ……いや待て。なんで俺は自分の名前を呼ばれてるなんて思ったんだ? 俺の名前はアーサーだ。陽真なんかじゃない……はず。それに、アイツは俺とは関係ない。赤の他人だ。俺は手を引っ込めた。アイツを助ける義理なんて、もうないはずだ。


「……」


 しかし、どうも違和感を感じる。俺の名前がアーサーであること、助けようとした手を引っ込めたこと、アイツを赤の他人と思い込むこと。全てが間違っているように感じられる。なぜだ……一体どうなってる……。


「陽真君……助けて……」


 アイツはまた泣いた。涙がだんだん大粒のビー玉のように大きくなっていく。目を凝らせば、俺の姿が反射して見えそうだ。俺は目を反らす。なるべくアイツの姿を見たくなかった。なぜなら……


「うぅぅ……陽真君……」

「……」


 思ってしまうんだ。アイツの泣く姿を見ると。


“頼む……泣くな……泣かないでくれ……”


 本当にどうなっているんだ。アイツは俺とは関係ないはず。なのに、アイツが泣いているのを見るだけで、心が激しく締め付けられる。だからといって、アイツを視線から反らそうとしても無理だ。どうしてもアイツを見てしまう。


 そして思ってしまう。助けてやりたい、涙を拭ってやりたい、抱き締めてやりたい、精一杯の愛で受け止めてやりたい。他人なのに……他人じゃない。

 アイツが涙を流すことが、世界の道理から外れているように感じる。アイツが泣いてしまうような世界は、絶対に間違っている。俺がアイツの世界を変えてやりたいと思ってしまう。


「凛奈!!!」


 やっと声が出た。俺はアイツの名前を叫んだ。そして、また不思議な思いが飛び込んでくる。アイツのこの「凛奈」という名前、決してつい最近覚えたわけではない。ずっと昔から覚えていた。


 俺は……幼い頃からアイツと……


「凛奈ぁー!!!」


 俺はアイツに……凛奈に手を伸ばす。彼女もこちらの声に気がついて振り向く。アイツの小さな頬に触れる。


 カァァァァァ……


「!?」


 凛奈に触れた途端、周りの黄色い空気が眩しく光りだした。俺は目を閉じた。次の記憶に引きずり込まれた。






 ここはあの時の教室。俺と凛奈が初めて会った場所だ。もう不思議でたまらない。なんでここが初めて会った場所だって分かったんだ……?


「……」


 幼い凛奈は一人で席に座り、所々ページが破れたり、落書きされたりした本を読んでいる。周りのクラスメイトはそれを眺め、密かに笑っている。一人でいるのを惨めに思っているのか。なんて奴らだ。


 凛奈を嘲笑うクラスメイトの中で、一人だけ笑わずに心配そうにアイツを見つめる男がいる。幼い頃の俺だ。とてもいたたまれない顔をしている。




 そうか……俺はどこかで気づいていたのかもしれない。アイツの苦しんでいる気持ちに。助けを求めている心に。


 放課後、幼い俺は凛奈に声をかける。


「なぁ、一緒に帰らね? 家同じ方向なんだからさ」

「え?」


 そうだ。初めてアイツを見つけた時、まるで牢獄に閉じ込められたお姫様のようだと、俺は思った。今にもうつ向いて泣き出しそうなその姿を見ると、不思議と助けてやりたいという気持ちが芽生えたんだ。

 その気持ちは、宛先のわからない郵便物のようだった。こんなに誰かに寄り添いたくなることは初めてだ。


 初めて会った日にして、初めて一緒に歩いた帰り道。アイツはなかなか笑わなかったが、俺の後だけはしっかり付いてきた。

 俺はとにかくアイツに笑ってほしかった。うつ向いていないで、泣いてばかりいないで、女の子らしい花のような笑顔を見せてほしかった。


 だから、俺はできるだけアイツが喜んでくるように、一生懸命明るくふれ合った。俺のできる最大限の力を尽くして。


「いい景色……」

「だろ♪」

「すごくいい!」


 真摯に向き合った末に、やっとアイツは笑ってくれた。アイツの笑顔を見れた時、素敵な宝物を見つけたような嬉しさを感じたんだ。一人の少女を笑顔にできた。もっと笑顔にしたい。アイツにもっと幸せになってほしいと思ったんだ。


 アイツがいじめられているという確信を得た時は、助けずにはいられなかった。あんなに可愛くて素敵な笑顔のできる奴を、傷付けるなんて許せない。


「ありがとう。陽真君は私のかみさまだね」


 アイツはまた笑ってくれた。アイツを笑顔にできた嬉しさから、俺は決意した。彼女のことを一生守ってやろうと。彼女を取り巻く絶望や悲しみを振り払ってやろうと。アイツがたまに見せる涙は、その気持ちをより一層高ぶらせた。


「陽真君!」


 彼女が笑いながら俺の声を呼ぶ。俺は嬉しくなる。


「陽真君……」


 彼女が泣きながら俺の声を呼ぶ。俺は悲しくなる。そうやって俺達は共に生きてきた。




 いつしか、アイツを守ることが俺の全てになっていった。だが、俺は次第に心の距離を感じていた。部活にのめり込むようになった頃からだろう。

 確かに走るのは楽しかった。走ることをずっと研究していきたかった。だが、自分ばかり先へ先へと走り、彼女のことを置き去りにしてしまったことに気づけなかった。守ってやるという誓いを忘れてしまった。


 俺は無責任極まりない、どうしようもない馬鹿野郎だ。


 そこから俺は自信を失くしてしまったのかもしれない。自分の力が信用できず、凛奈にも寂しい思いをさせてしまった。

 だから彼女が告白してきたことは正直驚いた。いつだって、俺の方から凛奈の懐に飛び込んでいったのに。彼女は俺ともう一度寄り添い合って生きていこうと、勇気を出して俺のことを好きだと打ち明けてくれた。


 それなのに……


「悪ぃ、時間をくれないか」

「えっ?」

「少し、考える時間がほしい。返事は……その後にさせてくれ」


 俺はすぐに返事ができなかった。まだ今の自分には、凛奈の隣にいる資格が無いんじゃないかと思ってしまった。俺が情けないばかりに、アイツの心はどんなに傷付いたことだろう。




 ごめん凛奈、本当は俺もお前のことが好きだった。お前の本当の笑顔を見た瞬間、俺はお前のことを好きになったんだ。

 これからも凛奈の笑顔が見たくて、お前の隣にずっといたくて、強くなろうとした。お前を守れるような強い男になれば、俺はお前の隣にいる資格を得られるんじゃないかと思った。


 だが、俺は全然強くも何ともなかった。迷ってばっかりで、流されてばっかりで、はっきりできないでいた。現に凛奈の告白の返事を曖昧にしてしまったじゃないか。


 終いには凛奈との思い出を全て忘れ、アイツに剣を向けた。拳を振るった。思い出を消し去ろうとした。俺は本当の俺を棒に振ろうとした。何をやってるんだ俺は。


 この罪はとても消えそうにない。心臓をナイフで何百回と切り刻まれようが、全身の骨をめちゃくちゃに叩き潰されようが、頭を銃で撃ち抜かれようが、帳消しになることなんてない。どれほどの苦痛を受けようが、到底割に合わない。

 だってアイツは……凛奈はそれ以上の屈辱を心に受けているのだから。アイツの悲しみに比べたら、俺にできる償いなんて残されていないも同然だ。


 それでも、きっと凛奈は許してくれるのだろう。どこか不器用な笑顔で。アイツはそういうやつなんだ。女神のように優しい女だ。自分に背負わされた重荷も全て引っくるめ、俺の思いを全身全霊で受け止めてくれる。なんて素敵な人間なのだろう。


「陽真君……陽真君……陽真君……」


 凛奈が俺を呼んでいる。彼女の声が鮮明に聞こえる。俺にはその声に応える資格は無いかもしれない。だが、はっきりしない男が一番カッコ悪い。彼女が本当の俺を取り戻そうとしてくれている。俺を心から求めている。


 ならば、それに応えなくてどうする。俺は陽真だ。浅野陽真だ。アーサーとして戦うことももちろん今は大事だ。だが、それよりも大事なことがあった。

 それをアイツが教えに来てくれた。アイツは本当に面白い奴だ。笑顔、泣き顔、困り顔、天気のように目まぐるしく変わるアイツの表情に、俺は守るべきものを見出だした。




 俺は凛奈のそばにいたい。今度こそ彼女を笑顔にしてやりたい。守ってやりたい。救ってやりたい。精一杯愛してやりたい。


 俺も……凛奈が好きだ。


「凛奈……凛奈……凛奈……」


 凛奈と過ごした日々が甦る。一緒に遊んだ場所、口にした食べ物、見た景色、共有した感情、全て大事な思い出じゃないか。忘れるな。絶対に忘れるな。もう一度彼女と始めるんだ。幸せな人生を。アイツとじゃなきゃ、始められない。


「凛奈!」


 俺は凛奈の心へ必死に手を伸ばした。


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