第2話「かみさま」
「はっはっはっはっ……」
私は住宅街のとある一本道を走っていた。もうスニーカーの濡れた感触も気にならなかった。暗い夜道は人の気配を隠した。誰かが助けに来ることはない。いくら人が賑やかな住宅街でも、夜になれば人の気配を無くす森同然だ。
私は私だけの力で逃げ切るしかない。
「いた! 待て!」
先回りをされ、前から男の人が走ってきた。私は横にある狭い路地に飛び込んだ。
「ああっ! くそっ!」
この路地は幼稚園児や小学生のような、小さな子どもにしか通れないような狭さだ。大人や太った体型の人が通るのは難しい。
それでも、男の人は体を押し込んで私の跡を追う。どうやら比較的細身な体型らしい。私はそれ以上後ろを振り返らず、前だけを見て進んだ。そして路地を抜ける。
ガシッ
「はい、おかえり♪」
路地を抜けた瞬間、もう一人の男の人に捕まった。今度は腰を掴まれ、持ち上げられた。
「よくやった!」
狭い路地から男の人が顔を出す。私は完全に捕まった。最後の悪あがきとして、派手に暴れる。
「離して! 離して! 誰か助けて!」
「こらこら、女の子がそんな暴れちゃダメじゃないか。グフフフ♪ おじさんがしっかり調教してあげなくちゃね♪」
男の人は、気持ち悪い笑顔を私の顔に近づけてくる。ハァハァと息が頬に当たり、不快感が増す。もう終わりだ。私は誰にも助けられずに……
「君達、何をやっているんだ?」
男の人の後ろから、また別の男の人の声がした。見てみると、そこには警察官が立っていた。右手に握り締められた懐中電灯が、私の泣き顔を眩しく照らしてくれた。
交番で20分程待った後、ママが暗闇から走って来た。私はママの元へと駆け寄る。
「ママ~!」
「よかった! 無事で本当によかった!」
ママは思い切り私を抱き締めてくれた。私はようやく恐怖から解放された。一時的に。あの男の人達は警察署へ連行されて行った。
ママは私の手を握りながら、警察官から詳しい話を聞いた。あの時、偶然警察官が近くを巡回していなかったら、私は今頃どうなっていたことか……。
「本当にありがとうございました」
「いえ。子どもの夜の出歩きには、十分な配慮をお願いしますね。それでは、お気をつけください」
警察署は交番の奥へと戻って行った。私とママは手を繋ぎながら、夜道を歩いて帰る。手を繋いでくれることによる安心感が、私の足とランドセルを軽くした。恐怖はどこかへ消え去っていった。
家にたどり着くと、まるで過酷な冒険から生還したように疲れがどっと溢れてきた。時刻は午後8時を回っていた。
パパの方は、家で私が帰ってくるのを祈りながら待っていたそうだ。パパも心配してくれていたらしい。申し訳無さが体にのし掛かる。疲れている私の気持ちを察して、今回の件を隅から隅まで聞いてくるようなことはしてこなかった。
「ママ……眠れない」
不思議なことに、疲れている割になかなか寝付けなかった。やはり、まだ恐怖がどこかに残っているのか。そんな私を、ママは快くベッドに迎え入れた。
ママは安心して眠れるように絵本を読んでくれた。
「うぅ~、こまったなぁ~。そうだ! かみさまにおねがいしてみよう!」
ママが読んだのは『かみさまのひとだすけ』という児童向けの絵本だった。頭に手を当てて悩む男の子が、次のページでは笑顔になり、何かを閃いたようだ。かみさま?
「ママ、かみさまってなぁに?」
かみさまの存在を知らない私は、興味本意でママに聞いた。
「かみさまっていうのはね、困っている人を助けてくれるの。私達にはわからないことを、何でも知っているのよ」
「へぇ~、かみさまってすごいんだね」
「そう。かみさまはとっても素敵な存在なのよ」
その後は、ママのおかげで安らかに眠れた。だが、その安寧も一瞬の光に過ぎないことを、すぐに思い知らされた。翌日、案の定あの誘拐未遂の件が話題となったのだ。
「ねぇ、昨日の夜のことだけど……帰りが遅くなったのって、本当に男に追いかけられてたからなのかい?」
「え?」
パパが話の芯を突くような質問をする。
「それにしては帰りが遅過ぎなように感じたんだけど……」
「どうなの?」
ママも加わって聞いてくる。私は言葉がごもる。だが、息を整えてきっぱりと答える。
「そう。ずっと追いかけ回されてたの。あのおじさん達に……」
「本当かい!?」
「それは怖かったわよね。よしよし」
「今度そのような目に遭ったら、パパかママに言うんだよ」
頭を撫でてもらうことで、一時的な温もりを得る。
嘘だ。本当は少し違う。確かに男の人に追いかけ回されていたが、学校でのいじめが根本的な原因だ。あれがなければ、もっと早く帰れていた。あの男の人とも出会わなかったかもしれない。
だが、それは言わない。いじめの件だけは絶対に話せない。これ以上パパとママを困らせたくない。私は嘘に嘘を重ねて、偽りの安心を立てる。
どうして人間は力を得ると、弱い者をねじ伏せるためにその力を使うのだろう。この世界の正常な仕組みなのか。歯車がずれて出来上がった法則なのか。誰に助けを求めればいいのか。誰が助けてくれるのか。
私の机の中には、相変わらず悪口が殴り書きしてある紙切れが詰め込まれている。
バカ アホ グズ ゴミ 臆病者 弱虫 泣き虫 学校来るな 消えろ 死ね
どれも私の代名詞らしい。私はそれらをすべて引っ張り出してランドセルに押し込む。後でビリビリに破って文字が読めない状態にして捨てるのだ。
そのまま捨てたら、先生か誰かが気づいていじめの存在が発覚する。バレたら先生にも迷惑だ。誰かが迷惑に感じるくらいなら、私が我慢すればいい。何度も自分に言い聞かせた。
「うぅぅ……」
そして、また泣いた。ずっと自分を騙し続けてきたけど、決して安心できることはなかった。私は弱くて、泣き虫で、臆病な女だからだ。
我慢すればいいと思っておきながら、やはり内心誰かの助けが欲しかった。この絶望的な状況から救い出してくれる人に会いたかった。一度でいいから、心の底から笑いたかった。
“かみさまは困っている人を救ってくれる”
ママの言葉が頭をよぎった。もしもかみさまがいるのならば、私は願う。私をこの世の地獄から救ってくれる、かみさまのような人を。
“どうか私を……助けてください……”
ガラッ
教室のドアが開いて、担任の先生が入ってきた。
「みんな席に着いて~」
友達とお喋りをしたり、じゃれ合ったりしていたクラスメイトは、一斉に自分の席に戻って行った。私は初めから自分の席にいる。誰かの元へ駆け寄る度胸も余裕もない。
「みなさん、おはようございます」
『おはようございま~す!』
先生の声に続いて、みんなで元気な挨拶をする。その「みんな」に、私はいない。私だけが声を出せなかった。先生は話を続ける。
「朝の会を始める前に、みなさんにお知らせがあります。なんと、このクラスに新しいお友達がやってきました!」
新しいお友達……転校生だ。当然の発表に、クラスメイトは騒ぎ立てる。
「え? 転校生!? やった~!」
「男の子かな? 女の子かな?」
「楽しみ~!」
転校生がやって来ると、普通はみんな喜ぶはずだ。その「普通」にいない私だけが、無表情で自分の机を見つめていた。
「では紹介します。入ってきて~」
ガラッ
転校生は教室のドアを開け、教壇へとゆっくり歩いて行く。
「男の子だ!」
「カッコいい……」
「素敵~♪」
女の子達が静かに呟く。どうやら転校生は、かなり顔立ちの良い男の子のようだ。
「名前書いてね。それと、自己紹介をお願い」
男の子はチョークを掴んで黒板に名前を書く。静まりかえった教室に、チョークの音だけが響く。名前を書き終え、チョークを置いた男の子は、私達の方を向いた。
「
パチパチパチパチ
男の子の自己紹介に続けて、みんなが拍手をする。私は勇気を出してそっと顔を上げ、彼の顔を確認する。確かに、みんなが言うほどの立派な顔立ちだった。そして、私には到底真似できそうにもないくらいの、素敵な笑顔だった。
みんなは陽真君を心から迎え入れた。男女両性から慕われ、絶大な信頼を得ているようだった。
それもそのはず。彼はスポーツ万能、成績優秀、他人とうまく接することができる優しさ、気遣い、ある程度の剽軽さを兼ね備えていた。驚くほど出来過ぎた人間だった。一日中ずっと友達に囲まれていて、笑顔を絶やすことがなかった。
彼はたった一日で、クラスメイトのほとんどと仲良くなった。恐らくあのいじめっ子達とも。自分の人生を思う存分謳歌しているようだ。私とは別の人間だった。
「これで帰りの会を終わります。みなさんさようなら」
『さようなら~!』
一斉に帰る準備を始めるみんな。昼休みの間に例の紙切れを細かく破って捨て終えた私も、帰る準備をする。みんなはきっと、誰かと帰る約束をしていることだろう。一人で帰るのは私だけ……。
「なぁ」
ふと、ランドセルに教科書を入れる腕を止められる。まさか、あのいじめっ子達か。私は恐る恐る声をかけてきた人へ顔を向ける。
「お前、家どこの方?」
陽真君だった。彼が話しかけてくるとは意外だった。そもそも人に話しかけられること自体めったに無いからだ。珍しく話しかけられたと思ったら例のいじめっ子。そのパターンが多かった。
それにしても、なぜ家の場所を聞くのか。それも私に。色々思ったが、私は正直に答える。
「
「ほんとか!? 俺、
なぜ喜ぶんだろう。同じ学校に通っているのだから、家が近いことくらいそんなに珍しいことではないのに。それより、私にこんなに馴れ馴れしく接してくれる人の方が大変珍しい。
「なぁ、一緒に帰らね? 家同じ方向なんだからさ」
「え?」
初めてだ。誰かに何かに誘われるのは。私は少し戸惑ったが、相手の気分を害することはやはり避けたいため、承諾した。
「いいよ……」
「よっしゃ!」
素敵な笑顔だ。あのいじめっ子達とは違う。私を傷付けて楽しんでいる笑顔じゃない。私と接することを、純粋に楽しんでいる笑顔だ。私までつられて笑顔になりそうだ。
「あっ、そうだ」
陽真君は何かを思い出したかのように、私にまた顔を向ける。
「お前、名前は?」
そうだ。思えば始まりはここからだった。私と彼の記憶を巡る物語。私と彼が出会わなかったら始まることのなかった壮絶な冒険。私の人生はここから再開したのだ。
彼のおかげで、私は私の人生の主人公になれた。私は本当の笑顔をつくれるようになった。私は私を好きになれたんだ。
彼が、私を助けてくれたかみさまだった。
「凛奈……
「凛奈か、いい名前だな! 俺は浅野陽真。よろしくな!」
手を差し出す陽真君。私はその手を握る。友達と交わした初めての握手だ。
「よろしく、陽真君」
彼の手は、とても温かかった。
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