25.狼の血脈

 森全体の空気が変わった。

 誰もが予想だにしなかった展開に、この場の流れは一気にレオンたちのものとなる。


 以前の彼女の行動や言動を思い返してみて、妙に納得した。通りで怖いもの知らずなはずだ。彼女に恐れるものなどありはしないのだ。アシュレイはただの人間ではなく、魔物こちら側の人間だったのだから。


 彼女は人間の血よりも、狼のDNAを殊更ことさら濃く持った少女だった。故に、人里での生活には苦労も多かった。デストラがそうであったように、満月の夜には狼の血が騒ぎ、怒りや悲しみといった感情に心が掻き乱されると、理性では歯止めが利かなくなることも多々あった。寮での新生活が始まっても、それは変らなかった。


 本来の凶暴な本能を持て余すあまりに、夢に魘された朝は、枕やベッドシーツがズタズタに切り裂かれていた。これがいずれ他人の目に触れたら、自分はもうここにはいられなくなる。最悪、殺されてしまうかもしれない。


 異端への恐怖に支配された人間が束になってかかれば、狼女の一人くらいわけない。どんなに心の優しい人間でも、どんなに頭の良い人間でも、異形は怖い。恐怖は人間を悪魔へと変貌させる。


 アシュレイは、同じクラスの友人たちや、部活の先輩、笑顔の素敵な寮母が、自分の正体を知った瞬間に己を屠らんと武器を持つ場面を想像して、心臓が冷える思いに苛まれ続けていた。


 あなた、結構大胆そうな見た目なのに割とデリケートなのね。

 いつだったか、ショーコがアシュレイに言った言葉。確かにそうかもしれない。些細なストレスで夜も眠れなくなって、眠れたと思ったらベッドはめちゃくちゃ。故郷の山では一切そんなことはなかったのに。


 何よりもアシュレイが恐れたのは、愛してやまないショーコに自分の正体が知られてしまうことだった。怖がられるだろうか。嫌われてしまうだろうか。あの愛らしく潤んだ瞳が、化け物を見る恐怖の色に染まってしまうのが何よりも耐え難かった。そんな思いが、アシュレイを臆病にさせた。


 ショーコへの想いが募れば募るほど、それは多大なストレスとなって、彼女の中に流れる狼の血を刺激した。逃げ出してしまいたい苦しみと、ひた隠しにした親友への想いに板挟みになったアシュレイがどれほど苦しんでいたかなど、第三者には理解できよう筈もない。


「狼女だと……?」


 エドワードは、冷静であるよう努めていたようだが、その声には少なからず動揺の響きが込められていた。


 原始の人狼、デストラの血を引く者、アシュレイ・クレスウェル。

 長き時を経て脈々と紡がれてきた人狼の血が、今、怨敵を目の前にして本来の姿を現したのだ。


「人狼は決して人の前に姿を現さなかった。人の目を避け、一族の繁栄につとめ、人里離れた山での暮らしで命を繋いできたんだ。だから現代まで伝説として存在していた。おれも長いこと生きてきたが、本物を見たのは初めてだぜ」


 アルカードはわくわくしたように言い、彼女の肩からそっと手を離した。アシュレイの気持ちを尊重しての行動だ。

 ――行ってもいいぞ。君にはその牙で、その爪で、敵の首を断つことを良しとされるだけの資格がある。


 親友の仇を取れ。

 復讐は何も生み出さないなどと言う愚かな言葉に耳を貸す必要はない。これは復讐ではない。弔いだ。死してなお、その肉体に縛られ続けることとなった、哀れな少女たちへの弔いなのだ。


「死ね。お前は私が殺してやる、エドワード!」


 アシュレイは双眸から、血に染まった刃色の残像を引きながら、エドワードに向かって一直線に突っ込んでいった。

 目にも止まらぬ速さで敵の懐へともぐりこんだアシュレイは、凄まじい勢いで爪を振りかざすと、その美しい麗貌に四本の赤い線を刻み込んだ。


「小娘風情が……!」

 エドワードの顔が憎々し気に歪む。


 この瞬間、魔物たちの闘いの火蓋は切って落とされた。

 レオンはアシュレイに続いてエドワードを、アルカードは眷属として操られているショーコたちに向かってゆく。


              ◇◆◇


「こっちだ! おれは君らの主人を殺せるだけの力があるぞ!」


 チャチな挑発で少女たちを惹きつけたアルカードは、森を抜けて開けた場所に出た。水を打ったような静けさはたちまち破られる。


 彼の頭の中では、三対一という数での不利な状況を物ともせずに勝利を勝ち取るための布陣が展開されている。吸血鬼の中でも別段強力な力を持っているわけではないが、で言えばこちらに利がある。こういった状況で、どのような行動に出るのが賢い選択かというのは、とうの昔に理解していた。


「ごめんな」と、アルカードが呟く。

 誰に対しての謝罪か。

 そしてその青白い顔に張り付いた、今にも泣きそうな子供のような表情にどのような意味が込められているのか……、すぐに分かる。


 背後から、体重の軽い足音が迫ってくる。

 アルカードは三人の少女に向き直るや否や、音速を超えるスピードで三人の間をすり抜けた。

 たちまち少女たちはガクンと膝を折り、小さく唸り声をあげた。

 一瞬の隙をついて膝関節を外したのだ。


「ごめんよ、本当は女の子に乱暴したくはないんだけど……こうすることでしか君たちを助けられないから」


 少女らは、足の関節を外したまま立ち上がった。けれど、まともに歩くことも叶わず、すぐに地面に膝を付きながらも、主人の敵であるアルカードに向かってくる。白い膝頭を固い地面に打ち付けようとも、立ち上がることを諦めてズルズルと地を這いずりながら、さながら蛇のような妄執でアルカードに牙を剥く。

 そんな姿を見ていると、彼は胸が抉られるような苦痛を感じた。


「やめろ。そんなになってまで、どうしてエドワードあいつに忠義を誓うのだ」


 アルカードは少女らを不憫に思った。

 ショーコたちが抱いているエドワードへの忠義は、奴に血を吸われたことによる後天的なものだ。彼女らの本心から生まれたものではなく、エドワードに無理矢理植え付けられたものなのだ。


「ショーコちゃん、聞いてくれ。君が忠誠を誓うあの男はな、おれに君の親友を襲わせたんだぜ。偽物とはいえ、君の親友の姿をした少女を、おれに殺させた男なんだ。憎いだろう。君の敵はおれじゃない。あの男こそが、君の敵さ」


 アルカードは、冷静な声で諭すように言う。けれど少女たちは、何度も何度もその場に膝を付きながら、主の敵であるアルカードに向かってくる。


 しかし、彼は冷静であった。自分の声が、もう彼女たちに届くことはないとわかっていながらも、言葉で説得を試みたのは、そうすることで最後の希望が見えるかもしれないと思ったからだ。だが、その望みは絶たれた。ショーコたちは、アルカードの声には耳を貸すことはなかった。


 そんなことはわかっていた。わかっていたけれど、自分の言葉でアシュレイの大事な親友が戻ってきてくれることを願わずにはいられなかった。


 アルカードは、意を決したように、少女たちに向かって歩き出した。


「ああ、なんて……なんて胸糞悪い案件だ」


           ◆◇◆


 激昂したアシュレイは大地を駆け抜ける猛獣となって、不俱載天ふぐたいてんの敵たるエドワード・モーリスに突っ込んでいく。

 その後ろを追ったレオンは、手っ取り早くピストルを構えたいところだったが、万が一アシュレイに当たらないとも限らない。


「ハハハ! そうら、どこを見ている! 俺はこっちだ!」


 エドワードはまるで舞台上で舞でも披露するかのような動きで、己の肉体を抉らんと閃く彼女の爪から身をかわす。

 右、左、右、左と、その毒牙に獲物をひっかけるように、肩から両腕を力いっぱいに振り下ろすアシュレイ。


「落ち着くんだアシュレイ! めったやたらに喰らいつきゃいいってもんじゃない」


 レオンの制止の声は、理性を失った狼女の耳には届いていないようだ。

 彼女の心は今、目の前をうっとおしく踊りまわる憎しみの権化たる男の息の根を止めることだけに執着している。その左胸を引き裂き、存在する意味を持たぬ心臓を引きずり出し、この男の眼前で握りつぶしたい。全身から一滴残らず血を抜き取って、惨めに渇いてゆく様を見届けてから、自慢の爪でその首を切り落としてやる。


 アシュレイの頭は、エドワード・モーリスの血で赤く染まる未来を想像して、ありったけのアドレナリンを放出させた。


「あっ」


 その時、エドワードが声を漏らしながら、足元の石に躓いて前のめりに倒れた。その絶好の隙をアシュレイが逃すはずもなく、猫が死にかけの鼠に飛びつくみたいにして奴の腰の上にのしかかると、血に染まりたいと切望する我が爪を、エドワードの背中から心臓目がけて振り下ろした――……


「引っかかったな、小娘!」


 振り返ったエドワードの両目が、レーザー光線のように鋭い光を放った。

 その光と目が合ったアシュレイは、ぴたりと動きを止めると、その光に見惚れるような表情でぼんやりと瞬きを繰り返した。


 異変に気が付いたレオンは足を止め、ぴくりとも動かなくなったアシュレイの背中を見て、「まさか――……!」と顔色を青くする。


 その刹那、勢いよく振り返るや否や、アシュレイの爪は味方レオンの首を掻き切ろうと翻った。寸でのところで交わしたレオンは、そのまま地面を二転三転と転がって、アシュレイから距離をとる。


 正面から相対したアシュレイの顔は、高揚して毛を逆立てた獣のそれであったが、どうも様子がおかしい。

 キュウ、と小さくなった瞳孔の中心で、天にまたたく星のような光がちらちらと見え隠れしているのだ。今しがたまでエドワードに向けられていた殺意が、今や味方であるレオンに向いている。


「ああ……アシュレイ、奴の催眠術にかかったか」


 吸血鬼の得意とする技の一つに、他人への暗示をかけるというものがある。アシュレイは催眠術の届く範囲へと誘い込まれ、まんまとその策略に嵌ってしまったのだ。


「くそ、敵が増えちまった」


 レオンが銃口を下げて苛立たし気に呟くと、エドワードは彼女の後ろでニヤニヤと薄ら寒い笑みを浮かべている。これで勝ったつもりか。腹立たしい顔だ。


「その顔を見ていると、叩き壊したくなるな。気色悪い顔だぜ」


「フフフ、やってみたまえよ。できるものなら」


 その瞬間、物凄い速さでアシュレイの爪がレオンの顔をかすめた。白い頬に細く赤い線が三本走る。咄嗟に背を反らして避けることが出来たが、もしそれがかなわなかったら、今頃レオンの頭部は、胴体と生き別れになっていたことだろう。


 レオンは考えるよりも早く銃口を空に向け、引き金を引いた。

 天へ高く響き渡った銃声で鼓膜を揺らせば正気に戻るかとも思ったが、事態はそんなに単純ではなかった。

 それどころか、威嚇射撃の隙をつかれ、正面から体当たりされるような形で地面に引き倒された。


「ぐう……!」


 と呻いたレオンの手からピストルを奪い、遠くへ投げ捨てたアシュレイは、まるで獲物を甚振いたぶるかのように、すぐに手を下そうとはせず、獣の怪力で掴み取った細い首を締めあげた。


 息が出来ずに藻掻き苦しむ男を見下ろし、アシュレイの顔は恍惚と歪む。

 ああ、彼女の面影など、さながら拭い去ってしまったかのような残忍な狼。

 ギラリ、ギラリと唾液に濡れて光る牙が、今この瞬間にも首筋を噛みきらんと近づいてくるのではないかと思うと、いくら吸血鬼ハンターといえど、ゾッとしないではいられなかった。


 全身の毛穴から冷や汗が噴き出る音がするようだ。

 耳の傍で血管が強く脈打つ。

 生命の音となって、己の身に死が近付いてくるのがわかる。


「ハハハハハッ! アシュレイが相手では滅多なことはできないだろう。可哀そうな吸血鬼ハンター! 相手おれの力量を見誤ってしまった己の浅はかさを悔いて死んでいきな」


 芝居がかった言葉選びで、目の前の殺人劇に横槍を入れるエドワード。

 しかしその時、エドワードの後頭部に固く冷たい感触が突き付けられた。


「そこまでだぜ、エドワード」

 そのような声と共に、撃鉄の上がる音が響いた。冷たい音と感触。銃口だ。


「早くアシュレイにかけた催眠術を解け。脳みそぶちまけたいのか」

 アルカードだ。ひどく冷たい声。普段の能天気な調子からは想像もできないような冷徹さが滲み出る。


「アルカード、お前、どうしてここにいる。ショーコたちをさっさと殺してきたか」

 エドワードは身を固くしながらも、余裕綽々といった調子でうそぶいた。


「これ以上、うちの雇い主に手出しはさせない」


 その時だ。傍の茂みをかき分けて、何者かが飛び出してきた。ショーコだった!

 ショーコは真っ直ぐにレオンの方へと突っ走り、赤くぎらついた双眸を大きく見開いて、襲い掛かる。


 レオンは新たな敵の参上に「まじかよ」と絶望を覚えたが……事態は、想像だにしていなかった方向へと進んでいた。


「やめて、アッシュ……!」

 ショーコが、叫んだ。

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