24.狼

 狼女ウルフガール

 いつの時代においても、この存在は稀有なものであった。


 遥か昔、外国のとある小さな田舎町に、狼のDNAを持った赤子が誕生した。男の子であった。

 その赤子は母の胎内で急速に成長し、十月十日とつきとおかことわり覆し、妊娠五か月目でこの大地に生まれ落ちた。

 出てきた赤子は、五か月以上の早産であったにもかかわらず、身体はしっかりと出来上がっており、見えているのかはわからないが、剃刀色に光る右目を開いて、己を取り上げた助産師を見つめていたという。


 不気味な赤子だ。助産師はゾッとしないではいられなかった。母親への労いの言葉も忘れて、思わず言葉を失ってしまったほどである。

 現代の医療では解明できぬ奇跡の赤子なのか、それとも――……。


 その時、赤子の小さな口が物を食べるときのように大きく開いた。彼女は再び、背筋を冷やした。口の中には鋭く尖った歯がずらりと並び、むせるようにいくつか咳をした後は、産声一つ上げずに助産師の手の中で、さながら食事を催促するかのように、カチカチ、カチカチと歯を噛み鳴らしたのだ。


 多くの謎が生じた。

 人間であるはずの両親から生まれた子。しかしその姿は人間とは言い難く、生まれて間もなくその身に現れた特徴から考えると、まるで獣である。小さな顎の中に窮屈そうに収まったギザギザの歯がカチカチと鳴る度に、周囲の人間は不気味そうに背筋を強張らせた。


 子どもは名前を授かるより早く、その生体を研究するための施設へと連れてゆかれた。山の中腹にある、秘密の研究施設である。


 その時代の高名こうめいな学者たちも、彼の奇怪な生体には首を傾げるばかりだった。

 誕生してからの彼は、人間の子供と同じ速度で成長した。

 食事は肉を好み、特に火の通っていない、血の滴るような生肉を所望した。

 言葉もたくさん覚えた。

 普通にしていれば、人間の男の子と遜色のない成長ぶりを見せている。


 ……しかし、この少年を、普通の人間でないことを証明する問題があった。

 彼は――誕生時に右目が開いていたことから、デストラ(右)という仮の名をもらい受けた――デストラは、感情が昂ると、人の姿を捨て、狼へと変身した。その感情とは、主に《怒り、悲しみ》。

 まだ多くの言葉を持たず、何が気に入らないのか、どうしてほしいのかを言葉にできずに癇癪を起したことは一度や二度ではない。その度に周囲の研究員たちが総出で彼のご機嫌取りに全力を尽くしてきた。


 そうした彼の性質を調べた結果、彼の体内にあるDNAには、明らかにおかしな点があることが分かった。両親から受け継いだDNAと、……狼のDNAが混ざっていたのだ。

 彼の体内の狼のDNAは、デストラの体温の上昇に伴って活発に作用することが明らかになった。


 だが、それ以上のことは何もわからなかった。

 どのようにして狼のDNAが混ざり込んだのか、彼は人なのか狼なのか――。


 満月の夜は外へ出たがり、施設の人間の監視の下で外へ出ると、藍色の空へ向かって、高々と遠吠えをする。まるで、この世界のどこかにいるかもしれない仲間に呼びかけるかのように……己はここにいると、孤独を訴えるかのように……。

 前例のない未知の生命体デストラのルーツは、長きに渡って明らかとなることはなった。


 デストラが十五歳を迎えた年、事件は起こった。

 その夜も、白い満月が冴え冴えと輝く空の下、デストラは悲しそうに天へ向かって鳴いていた。

 彼の呼び声に応えるかのように、空の星々はちらちらと瞬き、その輝きを一層強めた。


 いつもと変わらぬ夜であった。快晴の空、紺色のローブを羽織る王様のように堂々たる威厳を見せる白銀の月。手を伸ばせば触れることすら出来そうなほど近くにある、不気味なくらい大きな満月だった。


 天から降り注ぐ銀色の粒子に照らされた深緑の木々たち。眩しい程の銀色と、月光の当たらない部分に色濃く張り付いた黒い影のくっきりしたコントラストは何度目にしても清々しく、そして美しかった。


 冬の夜は風がなくとも冷える。ましてやここは深い山の中なので、人に溢れた都会の夜よりも孤独のような冷たさが体の芯まで入り込んでくるようだった。


 凍てつくような夜気を震わせるデストラの声は不思議と心地よく、遠く果ての地まで駆け抜けてゆくような力強さに、心がすっとする。


 死のような静寂しじまを切り裂く咆哮。彼は何を思い、叫んでいるのだろう。狼の言葉を理解することなどできない人間にはわかるはずもない。けれど、一通り鳴き終わった後、こちらを振り返る彼の表情は決して明るいものでないことくらい、ここにいる研究員たちは心得ていた。きっと、デストラは探しているのだ。己を受け入れてくれる同胞なかまの存在を。


 今夜も、デストラの声は一方的に夜の底へと放たれるばかりであった。返事を求める声だけが夜に包まれる世界を揺るがし、眼下に佇立する木々が、彼の呼び声に呼応するかのようにさらさらと音を立てた。


 ……その時、長い尾を引いて木霊する遠吠えに、遥か彼方から応える声があった。


 監視役の研究員はびっくりして顔を上げ、遠くの山からこちらへ向かって飛んでくる獣の声に耳をすませた。狼だ。これは、狼の声だ!


 デストラは呆然と、声のした方を見つめていた。彼はずっとこの山のどこかにいるであろう同胞たちに向かって呼びかけていた。


 誰かいないか。俺は狼だ。


 己の存在を知ってほしくて、同じ言葉を幾度も繰り返し叫んでいた。人間の両親から生まれたデストラ――その身体の中に住む狼の血が、同胞を求めて泣いていた。子どもの頃からずっと、彼は仲間を探し求めていた。その叫びに今、ようやく同胞からの応えが返ってきた。

 デストラには、相手からの遠吠えが何を言っているのか、理解できていた。「来たければ、来い」と。


 研究所での生活はいくつかの決まりや制限はあれど、決して苦痛を伴うものではなかった。

 学者や研究員たちはデストラを《心を持つ者》、《言葉を持つ者》として接してくれたし、人として生きるための知識も与えてくれた。

 けれど、デストラの心の中にあったもう一つの心は、この生活に多少なりとも苦痛を感じていたように思える。

 として生かされていることが、彼の中に眠る狼の心を緩やかに抑圧していたのだ。だがこの瞬間、人間の理性に押さえつけられていたもう一つの血が、デストラの中で一気に沸騰し、なけなしの理性を飲み込んでしまった。


「……カバネルさん」

 デストラは、遠くの山を見つめたまま、寝言のような声で監視役の研究員の名前を呼んだ。決して振り返ろうとしない背中が、微かに震えている。


「どうした……?」


 カバネルは答えを聞く前から、不安に駆られずにはいられなかった。この少年の想いが、言葉ではなく、後姿から伝わってくるような気がしたからだ。

 儚げな背中。まだあどけなさの残る弱々しい背中。そんな小さな後姿から感じたのは、言葉にできない、しかし、心でのみ感じ取ることのできる本能からの懇願だった。


 デストラは数呼吸の間黙っていたが、月明かりの下、今にも泣きだしそうな顔でそっと振り返ると、たった一言、


「ごめんなさい」


 ……カバネルが、その一言に言い知れぬ衝撃を受けている間に、デストラはもう一言、力強い、それでいて心の底からの謝罪と感謝の気持ちを込めてこう言った。


「今までありがとう。俺は行かなくてはなりません。……さようなら」


 彼は、デストラに向かって手を伸ばした。


 ――行くな……!


 そう言うか言わぬかの内に、デストラは視界の中から消えていた。

 瞬きをした一刹那、まるでそこには最初から誰も存在などしていなかったかのように、ただの夜という景色だけが静かに存在していた。


 冷たい風が吹き、大きく揺れた木々が、ざあっと乾いた音を立てた。


 デストラは、人の手を離れた。

 なかまのいる自然界へと帰っていった。


 結果として、狼のDNAを持って生まれた赤子について多くの謎が残されたまま、時が流れた。

 デストラの行方が分からなくなってから十年以上が経ったある日、山の奥深くにある小さな町にまつわる奇妙な噂話が人里に流れてきた。


 その街には、人狼が住んでいる……と。 

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