26.愛しい友の声

 その声は、闇夜の静寂を切り裂くように木霊した。希望の光など一切届かないと思われた魔の森の只中に、その瞬間、神の光を伴った救いの手が差し伸べられた。


 ――ショーコの声だ。


 怒りに我を失っていたアシュレイも、聞き慣れた愛する親友の声に、ぴたりと身動きを止める。

 レオンとエドワードは、何が起こったのか理解できないまま、事の成り行きを見守る他なかった。


 ショーコは素足で枯れ枝を踏み越え、レオンからアシュレイを引き剥がす。

 心待ちにしていた殺戮の瞬間を邪魔されたアシュレイは、今度はショーコに向かって牙を剥いたが、相手の瞳と視線が絡み合った瞬間、その顔から、本能のままに牙を剥いていた獣の気色がふっと掻き消えた。

 ショーコは、大人しくなったアシュレイの両頬を手で挟み、真っ直ぐに目を見つめた。


「アッシュ、私よ。ショーコ。わかるでしょう?」


 ショーコの目は、吸血鬼の眷属まものしるしである赤色に煌めいていた。けれど、どうしたことだ。先ほど、エドワードの傍に控えていた時とは明らかに様子が違う。

 しっかりと自分の意思で言葉を話し、死人のようだった雰囲気はなりを潜めている。顔色はいいとは言えないが、ショーコは明らかに、人間だった頃と遜色なく、そこに存在していた。


 ――ただ……その中でただ一つ、ショーコの首筋についた吸血痕だけが、異様な雰囲気をもたらしていた。


 すると、操られた本能を押しのけるようにして、アシュレイの内側から少しずつ、ほんの少しずつ理性の姿が戻り始めた。逆立っていた毛は元気をなくしたように寝、頭部に立つ獣の耳は髪の毛の内側へと縮み、顔の形も人間のそれへと戻った。みるみるうちに人間の姿を取り戻したアシュレイは、気弱な色を湛えた双眸に涙を溜めて、ぽつりと呟いた。


「……ショーコちゃん……?」


 弱々しく呟かれた名前に、ショーコは嬉しそうに微笑み、「ええ、ええ、そうよ」と幾度も頷く。


「ショー……コ……。本当に……?」

「ええ、アシュレイ、私よ」

「……」


 二人は、どちらともなくかたい抱擁を交わした。激しい感情に発熱したアシュレイの身体は、親友の冷たい身体をしっかりと抱きしめた。ショーコの首に、脈はなかった。触れ合った頬は、氷のように冷たかった。……ああ、やはり彼女はもう、この世の人ではないのだ。彼女から生命を奪い去って行った悪しき吸血鬼の手によって、そこにあるべきはずの生きた証は、永遠に奪われてしまったのだと思うと、アシュレイは込み上げる悲しみをどうすることもできなかった。


「嘘だ、嘘だ、あああ……ショーコちゃん。君は今こうして私の傍にいるのに、何故こんなにも冷たいんだ! 何故、心臓は動いていないんだ……!」


 悲しみに揺らいだ声は自分でも情けなるくらいに上擦っていたけれど、アシュレイは「どうして、どうして……」と、言葉を覚えたばかりの子供のように繰り返した。

 ショーコは同じく涙を流しながらも、ただ首を横に振るばかり。それでも、親友の肩を抱きしめる手から一切力を抜かずに、共に声をあげて泣いた。


「これは……どういうことだ……。ショーコ、こっちへ来い!」


 エドワードは隠しおおせようのない動揺に囚われた。己の眷属であるはずのショーコが、主人の言葉に一切耳を貸さないことに不信感を抱いているのか、みっともなくその場で地団太を踏む。

 

「ハハハハハハッ、所詮はついこの間まで小娘だった若輩者の寄せ集めよ」


 アルカードが勝利を確信したファイターのように高笑いを響かせると、それを合図としたように、ソフィアとマーリアが現れ、主人であるエドワードの自由を奪うように両側から抑え込む。


「なッ、おい君たち、これはどういうことだ……!」そこまで言ったところで、エドワードは、はっとする。「まさか、お前、こいつらの血を――」


 アルカードは「黙れ……!」と押し殺したような声で言った。その先は言うな、とより強く銃口の先を突き付ける。

 これしか思いつかなかった。自分たちの助かる方法も、ショーコたちを助ける方法も、以外には思いつかなかったのだ。


 彼女らは何も言わない。けれど、その愛らしい顔は、エドワードに対する深い憎悪と怒りに染まりきっていた。


「君たち、しっかり押さえておいてくれ。今からそいつの心臓に銀の弾丸こいつをぶち込んでやる」


 少女たちは、の言葉に従って、まるで地に根を張る大木のように、力強くエドワードをその場に留めさせた。

 その時、悪鬼は目の当たりにした。彼女たち二人の首にも、自分が付けたものではない、それよりも新しい……まさに、たった今、新たに付けられた吸血痕の存在に。


 予想だにしなかった展開とはいえ、こうなるに至った経緯を想像できぬほど、エドワードは愚か者ではなかった。


 三人の少女は、アルカードに血を吸われ、彼の眷属となったのだ。まだエドワードに対する忠誠心が薄かった少女らだからこそできたことである。


 世辞にも頭の回転が速い方とは言えないアルカードが下した対処法が正解か否か、倫理的には後者にあたるだろう。けれど、自分たちの命を最優先に考えた結果、アルカードは深い業を背負うことになっても、これ以外の選択など思い浮かばなかっただろう。ならばせめて、悪鬼エドワードに魂を人質に取られたまま、己の言葉も意思もないまま死にゆくよりも、生前の姿に限りなく近い形で《解放》してやる方が、アルカードの心は楽だった。


 彼女らを吸血鬼のまま生かすという選択は、彼女たちのためではなかったのかもしれない。自分がの手が、魂が、他者の血で汚れるのを良しとしなかった、アルカード自身のエゴと言えよう。


 いくら人間の心を忘れられないとは言っても、彼は紛れもなく吸血鬼なのだ。初めて口にしたの血の味は、永遠に忘れることはないだろう。この世に存在する、どんなに甘美な美酒よりも遥かに美味であった。


 アルカードは、生き物の血の味を知った。彼に足りなかった何かが満ちてゆくような――そんな感覚を味わった。吸血鬼の人間離れしたパワーのようなものか。


「悪いけど、おれは躊躇なんかしない。お前を殺す。引き金を引く。この子らの魂を開放してやった。汚いやり方でな。ならば最後まで、おれは汚れた方法でお前を殺す」


「畜生、元人間の半端野郎なんかに――」

 エドワードは歯の隙間から絞り出すような声で言った。


「違う。おれはもう半端者ではない。お前のせいで、おれは真の吸血鬼になったのだ」


 心底不快そうに言うと、アルカードは銃口の先を、奴の後頭部から背中へと移動させた。その先には心臓がある。


「それとな、おれにける奴は、死に際にいつもそう言うぜ」

 元人間の半端野郎なんかに――。ってな。


 エドワードは、己の夜を見上げ、悔しそうに顔をしかめた。

 その瞬間、高空に渇いた破裂音が響き渡った。

 銀の弾丸は寸分違わずエドワードの心臓のど真ん中を貫き、吸血鬼は最期のプライドを守るためか、命乞いもせず、悲鳴一つ上げず、大地の上で灰の山と化したのだった。


 その途端、アシュレイの催眠術は解かれたが、そのまま気を失うようにして、ショーコの上に倒れ込んだ。


「ア、アッシュ、大丈夫?」

 彼女が心配そうに友人の体をゆする。


「大丈夫だ。気を失っているだけだよ」

 アルカードは言いながら、三人の元へ駆け寄った。


 レオンは、アシュレイを背負って立ち上がる。


「大丈夫か、レオン」


「……ああ」

 レオンは不服そうに目線を他所へやりながらも、

「よくやってくれた」

 と、普段は「ただの家政夫」などとこき使っている相棒へ、労いの言葉を贈った。

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