20.アシュレイとショーコ
アシュレイ・クレスウェルは高等学校進学を機に親元を離れ、学生寮へ入寮していた。
生まれてから今までを、両親と共に山で育ち、野山を駆け回って自然を共に生きてきたアシュレイ少女は、初めての都会暮らしに多くの戸惑いを抱いていた。
初めての一人暮らし。狭いワンルームの真ん中にポツンと佇む自分と鏡越しに目が合う。山で暮らしていた時の家より遥かに狭い部屋なのに、何故だかとても広く感じた。傍らのキャリーケースが、寂しい心の内を慰めでもするかのようにアシュレイに寄り添う。
窓の外では車が行き交う音、時折鳴り響く甲高いクラクション、通行人の楽しそうな笑い声が雑踏に紛れて大きな音となる。
ああ、これが都会と言う町なんだな、とアシュレイは納得すると同時に、故郷の山が恋しくてたまらなくなった。この日から約一週間ばかり、毎夜毎夜枕を濡らす日々が続いた。
毎朝起きて洗面所の鏡に映る自分の顔を見ては「うはは、死んでら」と自虐的に笑う。目の下にできた隈がこれ以上ない程に不健康な顔立ちを作り出していた。
そんな日々の末、ある事件が起きた。新学期のそわそわムードが薄れつつある春の終わりごろ、その日は朝一番に体育の授業があった。男女二手に分かれ、それをさらに二分してチームを組んでのバスケットボール。
アシュレイは脳内を渦巻く眠気に今にも根負けしそうになりながらも、赤茶色の球体を一生懸命に追いかけた。しかし、ふとした瞬間にボールを見失ってしまう。あれ、どこに行った? 辺りをきょろきょろしていると、「アッシュ!!」と鋭い声が飛ぶ。学友たちにつけてもらったあだ名で呼ばれたアシュレイは、呼び声に応えるようにして振り向き――パスされたバスケットボールを受け止められず、顔面に直撃。そのまま後ろに倒れて意識を失った。
……。
……。
浅い川の水面を漂っているような感じだった。沈む恐怖などない。足は簡単に地面に付くのだから。それはまるで無意味な夢を見ているようで、視界に広がる景色は、夜明けの空のような色をしただだっ広い無限の空間だった。
都会での生活を始めてから、このような夢をよく見ていた。睡眠が浅いと、いつもこのような夢を見る。ただただ無為に、川の流れに身を任せて、とくとくと時間が流れてゆくのを待つ。早く時が流れて、早く故郷の山へ帰りたい……その強い思いが、彼女にこのような夢を見させるのだろう。
『帰りたい……』
ポツリと呟いた自分の声が、果てのない空間を上って……やがて、消えていった。
その時、不意に浮上した意識の外に何者かの気配を感じ、ゆっくり目を開くと、そこには見覚えのない白い天井が視界に広く飛び込んできた。夜明けの色も、背中の下を流れる川の流れも、今は全く感じなくなっていた。
あれ、どこだ、ここ? と目をぱちくりさせていると、傍にあった何者かの気配が微かに動き、アシュレイの顔を覗き込むようにして彼女と天井の間に入ってきた。愛嬌のある垂れ目と至近距離で視線が絡み、驚いたアシュレイは危うく悲鳴が飛び出すのを慌てて飲み込んだ。
「あ、目が覚めた。具合は大丈夫? 痛いところはない? その……頭とか」
「あ、たま……?」
「あなた、体育でバスケをやっていた時、顔にボールが当たってそのまま気を失っちゃったのよ。倒れた時に思いきり床に後ろ頭を打ち付けたでしょう? すごい音してたわ。何かが爆発したみたいな」
そう言われてみると――アシュレイは頭の後ろにそっと手を持って行って、後頭部が不自然に出っ張っているのを確認した。
「
「たんこぶ出来ちゃったのね。冷やすもの持ってくるから、ちょっと待っていて」
そう言って、座っていた丸椅子から立ち上がった彼女は、ベッド同士を仕切る白いカーテンの外へ出て行った。随分小柄な子だな、というのが第一印象だった。立ち上がった状態で、身長はアシュレイの肩に届くか届かないくらいだ。天パ気味の赤毛が背中に垂れ、カーディガンの袖からちらりと見えた手は、
束の間、一人となったアシュレイは、ゆっくり上半身を起こすと、身の回りを見渡して、ここが保健室であると悟る。養護教諭は不在なのだろう。彼女が冷蔵庫を開けるほかに、これといった気配は感じなかった
当たり前だが、自分はまだ体操着を着たままだった。今何時間目だろう。自分はどれくらい寝ていたのだ。そんなことを考えていると、アイスノンにガーゼを巻き付けたものを手にして、彼女が戻ってきた。
「これ使って。少しは楽になるかもしれない」
「ありがとう」
アシュレイは受け取ったアイスノンを後頭部に押し当てた。
ひんやりと冷たくて、ふにふにと柔らかい感触が心地いい。
「ごめんなさい。少し強く投げすぎてしまったわ。運動神経の良いあなたなら、ボールを繋いでくれると思ったの」
どうやらボールをパスしたのはこの子だったらしい。思い返してみれば、「アッシュ!!」と叫んだ声は彼女のものだったようにも思える。
「いや、試合中にぼんやりしていた私が悪い」
アシュレイは苦笑しながら言った。けれど、相手の表情は曇ったままで、まだ何か言いたいことがあるようだった。そこまで深刻に考えなくてもいいのにな、と思う反面、もしかして何か他に気になることがあるのだろうかと思い、
「……どうかした?」と訊ねた。
すると、彼女は心配そうに身を乗り出して、
「ここ数日、あなたずっと具合が悪そうだわ。一体どうしたの?」
「え……」
最初、何のことを言われているのかさっぱりわからなかった。しばらくきょとんとしたままのアシュレイに、「寝不足かしら? 隈がひどいわ」と言う。
「あ、ああ、そう?」
曖昧に返事をしながらも、よく人を見ている子だな、と感心してしまう。見た目の印象はぽやんとしていて、言い方は悪いが、余り賢そうな子には見えなかったので、こうも容易く事実を見抜かれてしまうとは思わなんだ。
人は見かけによらんな、と彼女を甘く見ていたことを反省しつつ、実は、と毎夜毎夜の己の情けない有様を語って聞かせる。
「まあ、そうだったの。あまり眠れていないのね。慣れない生活だものね」
「ハハハハ……この歳にもなって、お恥ずかしい」
「そんなことないわ。一緒に暮らしていた家族と離れることになったんですもの。当たり前の症状だわ」
「けど――」
と、そこまで言いかけて、自分が彼女の名前を失念していたことに気が付く。
入学二日目にクラスメイト全員で自己紹介をしたのに。よりにもよって、この場面で相手の名前を思い出せないのは、なんとも心苦しかった。
「あ、あなたはそんなことはないでしょ? こんな……ホームシックで毎日眠れないなんてこと」
「あたしは夜ちゃんと寝ないと朝起きられないから、意地でも眠っているのよ。それにあたしは実家暮らしだし。あなた、結構大胆そうな見た目なのに割とデリケートなのね」
彼女は、いたずらっ子のように笑うと、ベッドの枕元に肘をついて、掌の上に小さな顎を乗せた。その仕草が小さな子どものように可愛らしくて、アシュレイは少し照れくささを感じてしまう。
「あ、はは。そうなのかな? 初めて言われたよ」
二人きりの保健室。校庭からは生徒たちの声が聞こえる。彼女が腕に巻いていた時計は、午後三時を指していた。今日の授業はとっくに終わっていた。
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