19.エドワード・モーリス
主の命令を全うしたクロヌは、真夜中の上空へと飛び去って行った。バサバサと大きな
すっかり霧の晴れた森の中は驚くほどに見通しがよく、冷えて澄み渡った空気は、
胸に心地よい森の香りを含んでいて爽やかだった。
吸血鬼討伐と誘拐された少女たちの救出が目的ではなかったら、さぞ楽しい夜のピクニックとなったことだろう。……アシュレイはそこまで考えて、頭の中を過った能天気な思考を振り払った。
私は何を考えているんだろう。こんな時に、ピクニックだなんて……。
アシュレイは己の暢気さを恨んだが、親友のショーコが無事に帰ってきてくれたら、今日のような天気のいい夜に二人で街に出て、小さな声で会話をし、眠たくなるまで当てもなくふらふらと歩いて回りたいと思った。
眠りに就いた街の中で、自分たちだけが止まった時の中を歩いているかのような幻想的な気分に浸りたいのだ。
夜は静かな分だけ楽しい。天を仰げば、大きな白い月がある。だから怖くはない。いつも見守ってくれている夜空の王様。
そうだ。いつもの日常が戻ってきたら、ショーコを寮に呼んで、ベランダに出て、月明かりの下で読書をしよう。ショーコはサリンジャーを呼んで、私は大好きなクリスティを読む。マグカップの中にココアを注いで、白い湯気が月光に照らされて白い粒子となって消えてゆく。危うくカップを倒しそうになって、慌てて取っ手を掴む。ココアは少しだけ零れて、二人は顔を見合わせながらくすくすと微笑み合うのだ。
待っていて、ショーコちゃん。今行くよ。
三人は言葉少なのまま森を歩き続け、ようやく目的の場所へとたどり着いた。――否、たどり着いたというよりも、向こうの方からこちらを迎えに来たと言った方が正しいやもしれぬ。
進行方向から一人の男が歩いてきた。相手は一切名乗りはしなかったけれど、レオンはこの男こそが、エドワード・モーリスであると瞬時に理解した。
深まる秋の夜に薄いシャツを一枚着、破けたところから白い肌がのぞくボロボロのパンツスタイルという、およそ吸血鬼らしからぬ出で立ちだ。――人間が
月明かりの届かぬ薄暗い闇の中で、血の気のない白い顔がぼんやりと浮かび上がり、三人は同時に歩みを止める。アシュレイは怯えた素振りなどは見せず、親友の居場所へと直につながる悪鬼を、丸い
エドワードの、宵闇に煌めく鋭い眼光が、コンサート会場を駆け回るレーザー光線のように空間を裂く。何を考えているのかわからない卑屈そうな目つきが、いやに癪に障る。笑いもしなければ不機嫌そうに眉を顰めるでもない。三人の誰とも合わない視線は、いったいどこを見ているのだろう。
アルカードは、少女たちを葬送したときの怒りをまざまざと思い出し、ギリ、と音が鳴るほど奥歯を噛みしめた。
あの子たち以外に、いったい何人の少女をその手にかけてきたのだろう。何人の少女の魂を穢してきたのだろう。そう思うと、彼の怒りは先ほどの比にならぬくらいに膨れ上がった。
今にも飛び出して行って乱闘を始めかねない勢いの連れを片手で制し、レオンは顎を引いて
エドワードは芝居がかった所作で口元に手を置くと、耳の方まで裂ける唇から「フフフ」と笑声をもらす。ちら、と指の間から覗いた牙は、目に痛いくらい真っ白だ。
「かような時間に大勢で押しかけてきて、いかなご用がおありか?」
控えめで物静かな口調である一方、一糸の油断もさせてくれぬような雰囲気を放つエドワードに、アシュレイは未知ゆえの恐怖を感じた。押し負けてなるものかと、胸の内に去来した弱き感情を追い払うように、
「さあ、言われた通りわざわざ来てやったよ。早く、ショーコちゃんたちを解放してください」
と、アシュレイは堂々たる口調で言った。その物怖じしない物言いに気を良くしたエドワードは、目を細めてにっこりと笑って、いくつも頷く。
「ああ、ああ、よく来てくれたね。遠いところからお疲れ様。すぐに彼女たちに合わせてあげよう」
レオンは、アシュレイを庇うように一歩前に出た。
「僕は政府の下に属する吸血鬼ハンターだ。エドワード・モーリス、まどろっこしいことは言わない。女の子たちをどうした」
「うん、どうしたとは?」
エドワードは長いまつ毛を伏せるようにして、目を細めた。その余裕綽々と言った態度に腹を立てたアルカードは、ギザギザした歯を剥き出しにしながら食って掛かる。
「この野郎、すっとぼけたことぬかすなよ。お前のしてきたことは全て調査済みだ」
「ほほう、誰かと思えば、君はカンタレラ家の坊やじゃないか。どうしてお前が吸血鬼ハンターなんかと一緒にいる? 弱みでも握られて人間の下僕に成り下がったのか?」
エドワードは、顔なじみの存在に今しがた気が付いたといったように、口調を砕けさせて言った。
「そんなんじゃねえやい。そんなことより、話を逸らすなよ。おれらは彼女からの依頼でお前に攫われた女の子たちを連れ戻しに来たんだ。大人しく返してくれたら、この冷酷無比を地で行く吸血鬼ハンター様だって、命は見逃してくれるかもしれないぜ。――おれは許さないがな」
エドワードは同胞からの脅迫に、心底不快そうに顔を歪めると、
「俺に軍門に下れというのか。
「そうだ。この世界は僕たち人間のものだ。死にたくなくば、大人しく従ってもらうしかない。お前は人間社会に仇を成し、少女たちだけでなく、彼女らに関わる多くの人の安寧をかき乱した。さあ、早くしてもらおう。こんなことに時間を奪われるのは本意ではないだろう。灰になるのが嫌だって言うなら、僕の言葉に従え」
レオンは冷静に諭すように言い、腰に忍ばせていた銀の弾丸の入ったピストルの銃口を、エドワードに向けた。
「問答無用で銃を向けるのだね。実に眩しい銀色だ。引き金に指までかけて、有無を言わさず俺を灰にする気じゃないか。……それよりもね、俺には気になることがあるのさ」
エドワードは口元へ寄せた指先に、小さく「ふぅ」と息を吹きかけた。
するとたちまち、ショーコたちの部屋で匂いだあの香りが三人の鼻腔を打った。
奴の指の先から微かに目視できる程度の粉のようなものが噴き出している。あれが香りそのものか。
「何が気になるってんだよ」
と、アルカード。
「彼女のことでね。うん、君だよ、アシュレイ」
エドワードはアシュレイに向かって言い、
「どうして君には効かないのかな。おかしいね、この匂いは人間の好みで作った魔香なんだけれど、君のお気には召さなかったのかな?」
その時、エドワードの背後から、三つの白い影が現れた。地面の上を滑るように、足音一つ立てず。女の子だ。青白い身体を包む、飾り気のない真っ白なワンピースの裾が揺れている。
三つの影はエドワードの半歩後ろで立ち止まると、光を失った瞳で、歓迎されざる客人たちを見つめた。
「うそだ」
と、一番最初に声を漏らしたのはアシュレイだった。
レオンたちも「まさか」という様子で小さく息を呑む。
彼女は見てしまった。恐れ、目を背けていた事実を裏付けるに値する、恐るべきものを。
「うそだ」
まるで
アルカードとレオンも、その表情に底無しの怒りを露にしないではいられなかった。それと同時に彼らを襲うのは、己の不甲斐なさと、果てのない荒野に彷徨い込んだときのような絶望だった。
彼らの前に現れた三つの白い影――ショーコ・A,ソフィア・カルーゾ、マーリア・ダンジェロ……彼女らの、異様な赤い光を放つ双眸と、ひび割れた唇の隙間からちらりと覗く人間のものではない鋭利な牙を見て――。
アシュレイは全力で走った直後のように肩で大きく息をしながら、今にも地に伏して泣き出しそうな目でショーコを見つめた。ありとあらゆる否定の言葉が脳内を埋め尽くす。
嘘だ。違う。そんなわけない。何かの間違いだ。こんな馬鹿なことがあってたまるか。幻覚だ。夢だ。私は夢を見ているのだ。最上級の悪夢に魘されているだけだ。目を覚ませ。起きろ。全てが夢だったんだ。ショーコちゃんが攫われたのも、その前から様子がおかしかったのも、全て、全てが悪い夢だったんだ。
ほら早く、夢よ醒めろ。目を開けろ。見慣れた寮の天井を睨みつけて悪態を付け。「最悪な夢を見せやがって」と、口汚く虚空に吐き捨てろ……!
頭の中を跳ね回る自分の声が耳障りだった。
アシュレイは、醒めぬ悪夢の中で、親友に目を向けた。
彼女がこんなにも心をかき乱されているというのに、ショーコたちは呼吸もせず、瞬きもせず、まるでショウウィンドウに飾られたマネキン人形のように、その場にただ立ち尽くしているばかりだ。
目が合っているはずなのに、視線が全く絡み合わない奇妙な感覚の中、アシュレイは悲嘆のどん底へと真っ逆さまに落ちていった。
「うそだ、そんな……ショーコちゃん……ああ、ああああ……!」
体をくの字に折り曲げて地に崩れ落ちるのを堪えていると、アルカードがアシュレイの身体を支えた。
「どうしよう……ああ、どうしよう! 助けられなかった……ショーコちゃん、ショーコちゃん……!」
彼女たちの首筋に刻まれた
……ショーコ・Aは、吸血鬼へと転化していた。
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