17.人の心を持った吸血鬼

 クロヌが去った後、アルカードの視界の端にちらちらと揺れる白いものがあった。それが裾の長いワンピースの襞であることがわかると同時に、彼の周囲には同じような服を着た年若い少女らがふらふらと生気のない顔で近寄ってきた。彼女らもまた、エドワード・モーリスに懐柔され、闇の眷属へと転化させられた少女たちなのであろう。すらりと伸びた華奢な首筋には、生々しい吸血痕が穿たれている。


 アルカードは気だるげに振り返ると、周囲をぐるりと取り囲むようにしてこちらに迫りくる不穏な人影たちに向き直った。


「この状況見て、アシュレイが怖がっちゃ可哀そうだし、お前ら、とっとと片付けてやるよ」


 ああ、悲しき傀儡くぐつの少女たちよ。エドワード・モーリスという主の言葉に逆らうことすらできぬ魔物の眷属よ。生者の道を外れ、死者でありながら、その躯の中に閉じ込められた哀れな魂よ。アルカードは、かつて己が身をもって味わった転化型吸血鬼にんげんの苦しみをまざまざと思い出した。理性がいくら押しとどめようにも、氾濫した川のごとく押し寄せる人間の血への欲望。目の前にいる人間が瞬きをする度、浅く呼吸をする度……その体の中に流れる真っ赤な血が全身を巡るのを想像するだけで、かつてのアルカードは今にも理性をかなぐり捨てて、獣のごとくその喉笛に噛みつきたくなった。


 来る日も来る日も自身を苦しめ続けた吸血鬼の本能に従わなかったのは、彼がまだ人間でいたかったからだ。人間の心だけは、己の胸の中に収めておきたかったのだ。結果、この身が滅びようとも、多くの人の眼前で灰になろうとも構わなかった。他者をこの手にかけず、清い魂のままこの世から消えることが出来るのなら、それ以上の幸福などありはしなかった。


 エドワードに懐柔された少女たちに彼の気持ちがわかるかどうかなど、この際はどうでもいい。

 死をって、悪しき魔物エドワードの呪縛から解き放って差し上げよう。

 いかな理由わけがあろうとも、他者が他者の生をほしいままにしていい理由にはならないのだから。


「ごめんな、こんな形でしか助けてやれなくて」


 アルカードの両目が強い光を放つ。しかしその赤光しゃっこうから漲るのは、押し寄せる無数の敵に向けるような攻撃的なものではなく、どこまでも、どこまでも底のない悲しみだ。


「お前たちも、一度はエドワードを愛したことだろう。けれど、あの男は無情にもこうしてお前たちをおれという死地へ向かわせた。それでも、お前たちはあの男に忠義と情を通すのだな」


 少女たちは何も答えはしなかった。ただただ、見えているのかすらわからないような血の色に濁った双眸で、主の敵であるアルカードを見つめているのだ。


「来な。助けてころしてやる」


 次の瞬間、吸血鬼アルカードの凄まじい大立ち回りが始まった。少女らは、迫りくるたった一人の敵に向かって、一目散に群がって行った。

 深い霧の中を一切の迷いも見せずに駆ける少女たち。

 アルカードは、不明瞭な視界の中、一斉に迫りくる少女らの手をかいくぐり、瞬く間にその背後へと回ると、手近にいた少女数人に足払いをかけ、揃って尻餅をついたところを、傍に落ちていた折れた太い枝を拾い上げ、動いていないその心臓目がけて鋭利に尖った先を順繰りに突き立てた。


 ――ギャアアアアアアアア!


 心臓を破壊された眷属たちは、霞む空に向かって断末魔の叫びを轟かせた。その叫びは、少女たちの身体が灰となって崩れ去るその瞬間まで響き渡っていた……。


 少女らの魂が無事、天へ還ることが出来ますように、と口の中で祈りの言葉を呟く。

 そして間髪入れず、伸ばした先にあった少女の細い首を掴んで動きを封じ、放せ放せともがき回る左胸に手刀の先を穿つ。鋭利な爪が冷たくかたい心臓を捉えた。血流のない身体は、まるで氷のように冷たい。その異様な不快感に眉をしかめてすぐさま手を引き抜くと、眷属の身は瞬く間に灰と化し、アルカードの指の間をすり抜けていった。


 少女たちは、主の敵として立ちはだかる吸血鬼アルカードの悲しき殺意に縋るかのように、一心に彼の元へと押し寄せる。その身のどこかに残った人間としての心が、死という解放を求めているかのように。

 なるべく苦しまないように、そして美しいまま、少女たちはアルカードに命を差し出した。


 そうした葬送は、時間にすれば数分足らずの出来事であったが、アルカードにはまるで永遠とも思える時間だった。

 死んだ肉体と言う牢獄に閉じ込められた、哀れな少女たちの魂を開放するというなんとも虚しい仕事に、アルカードの心も、死に絶えたような空々漠々たる思考に囚われていった。


 気が付けば、その場に己ただけが立ち尽くしていた。霧は晴れ、静寂を司る空の王たる銀色の光が、青ざめた彼の頬を白く照らし出していた。

 まるで、今までのことが夢であったかのように思われた。けれど、それが現実での出来事であるということを、彼の周りに点在している灰の山々が物語っていた。


 アルカードは、再び訪れた静寂に飲み込まれそうになった。


『アルカード』


 いつの間に戻ってきたクロヌに名前を呼ばれて、はっと我に返る。声のした方に目を向けると、肩にクロヌを乗せて立ち尽くしたアシュレイが、目の前に広がる有様を見て絶句していた。これらが、何であるのか悟ったのだろう。そして、もしやこの中に大事なあの子がいたのではないかと、不安になったらしく、その真相を確かめるために、無言でアルカードの目を見つめた。……アシュレイは、彼の赤い瞳の中に揺らめく怒りや悲しみ、そして憎しみといった様々な感情に、少し怯えたように後退った。


「……アシュレイ」


 アルカードは、己の姿に怯える少女の顔をまじまじと眺めた。そうしているうちに、彼の目に宿った様々な感情は、湯水に溶けゆく雪像のごとく、徐々に消えていった。

 。葬送した彼女らの魂に引っ張られ、彼もまた現世から別の次元へと意識を飛ばしつつあったのだ。


 アシュレイは無遠慮に突き刺さる視線に身を竦ませながらも、遠慮がちに吸血鬼の目を見つめ返した。

 すると、アルカードはゆっくりと一つ瞬きをし、今度こそ本物のアシュレイの姿に、安堵したように微笑を浮かべた。


「アシュレイか。お前は本物なんだな? 見つかってよかった」

「すみません、一人で突っ走ってしまって……それで、あの、私……」


 アルカードの方で何があったのか知らないアシュレイは、《本物か》という言葉に怪訝そうにしながらも、謝罪の意味を込めて深く頭を下げると、少し息を荒くしながら、エドワード・モーリスとの邂逅を果たしたことを報告した。


「なんだって!」


 アルカードは愕然と声を荒げた。


「大丈夫だったか、何もされていないか?」


「はい。……エドワードは、私に会いに来たと思うと、この先で待ってるから、来るなら来なさいと言って去って行きました」


「はあ? なんだそりゃ。喧嘩売ってやがるな」


「あいつ、アルカードさんとレオンさんに危害を加えているようなことを言っていたので心配してました」


 アシュレイが「無事でよかった」と胸をなでおろすと、

「ありがとう。おれはぴんぴんしちゃいるが……」


 アルカードは殊更声のトーンを落とすと、そっと目線を下ろし、少女たちの遺灰を悲し気に見つめた。彼の胸に、酷く冷ややかな怒りの感情が込み上げてきていた。

 人を人とも思わぬ外道以下のエドワード・モーリスに対する明確な殺意が、アルカードの腹の底で目を覚ましたのだ。


「彼女らに酷いことを。エドワード・モーリス……許せん男だ。あいつだけは絶対に許さない……!」


「……」


 アシュレイは、彼の双眸に宿る業火を思わせる激しい憎悪を目の当たりにして、ゾッとしないではいられなかった。

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